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第1話

ティルは、だらしなく緩めたネクタイの結び目に手をやりつつ、目の前の紙を眺めた。自分の名前を探す。 ふと、クラス名簿の一点で視線を止める。 (リュート・アルトフェルト) 胸中に浮かんだ名前を、もう一度口の中で繰り返して、噛み締める。 (あいつと同じクラスなのか) ティルは、リュートと話したことはない。廊下ですれ違うくらいだ。 ただ――そう。興味があった。 とある大雨の日。家の仕事の帰り道。車で学校前を通りがかったとき。 校門から見える花壇の花の上に、傘を何本も立てかけて――自分はずぶ濡れになって、それでも雨から花を守っていたリュートを見てから、ずっと。 なんであんなことをしていたのか。 なんのためにそんなことをしたのか。 彼の心の内を聞いてみたかった。 彼の視線の行く先が気になった。 ――話が、したい。 そう思いながら、ティルは自分の教室に向かった。 ポケットに両手を突っ込んで歩いていると、次々と友人……不良仲間から声をかけられる。ティルは陽気に笑って、集まってきた級友の肩やら背中やらを軽く叩いていく。張り付けた笑顔。いつもの陽キャ仕草。お前はいつもそうだと自嘲する内心と、零れそうになる溜息を押し留めて、声を張る。 そんなことに気付く気配のない仲間たちと盛り上がる輪の横を、す、と静かに風が通り抜けた。 「あ……」 風の正体はリュートだった。灰金の髪を緩く後ろで縛って、そっと通り過ぎていく。 ちら、とティルの方を見て、ふわっと微笑んで。 心のどこかがざわつく。ぽーっと視線で追いかけていると、 「何してんだよ」 と、仲間から声をかけられる。悪い、何でもないと誤魔化しながら、通り過ぎた風の気配を心で追った。 遊びに遊んだショッピングモールの入口で解散して、ティルはリュックを肩にかけ直した。 喧嘩もして、散々騒いだ。なのにどこかつまらなくて。 既に日は落ちた。冬に比べればまだ日は長くなったと思うのだが、それでも十八時で暗い。ふと空を見上げると、きらっと一つ、星が瞬いている。 俺にも一番星が、あればいいのに。 (何言ってんだ、俺は) ショッピングモールを離れ、商店街を歩く。よ、と肩にリュックをかけ直したティルの視界を、淡い金色が駆け抜けていった。 (……アルトフェルト?) そう。リュート・アルトフェルトが、アーケードから脇に逸れる小道に入っていった。スマホを取り出して時間を確認する。十八時三十分。こんな時間にどこに? (あいつの家がこの辺……いやいや、あいつ五聖家の長男だろ。家は確実に中央区だ) アルトフェルトは、建国神話に名を連ねる富豪の一人だ。世が世なら貴族と呼ばれていてもおかしくない家柄。だからこそ、こんな下町にいるはずがない。 「……」 ぎゅ、とリュックの肩紐を握る。ティルは、彼の背を追って走り出した。先程消えていった小道に入ってみる。アスファルトの舗装がされていない、下町らしい地面の剥き出しになった道。一本道のそこを駆けていくと、どん突きに広い空き地があった。商売に使われる予定だったのか、什器や段ボール、建材の鉄骨や木材がぐちゃぐちゃに置かれている。 そんな場所の中央に、彼はいた。夜の闇に浮かぶ灰金の髪を後ろから見て、何をしているのかと尋ねようとした、次の瞬間。 ぶあっと風が吹いた。渦を巻く風の中で、顔を腕で庇う。舞い上がった落ち葉や土、草がティルに当たる。だが、リュートは、風に嬲られることなくそこに立っていた。身体の周囲を半透明の何かが覆っている。 (何だ……何だ!?) 彼はその右手にどこからともなく杖を取り出し、持ち、とん、と地面を突く。しゃん、と先端の円環が鳴って、その杖を虚空に向かって突き出した。まるで杖を使った演舞を見ているかのような動き。それにただ見とれていると、少しずつ、風が止んでいく。腕を顔から下ろすと、彼はしゃがんで、地面に向かって手を翳していた。 「何してんだ」 やっとのことで出せたその声に、弾かれたように彼が振り返った。驚きに目を見開き、形の良い唇を少し開いて、固まっている。ティルはその隙に彼に近寄って、しゃがみ込み、彼の前に座る。 「何してんだ」 二度目の問いかけに、彼は逡巡して、ちょっと待ってて、と柔らかい声で言った。 彼がティルに背を向けたので、何を見ているのかと覗き込めば、そこには黒い毛並みの「何か」がいた。犬でもない、猫でもない、鳥でもない、獣型の、何か。 「……この魂を、主神の御下にお還しいたします」 そう一言告げて、再度手を翳す。すると無数のシャボン玉に包まれるように、光となってそいつは消えていった。空高く、煙が立つように光が消えていくのを彼は見送って、よっこらせ、と言いながら立ち上がった。ティルも一緒に立ち上がる。 すっかり夜の帷に包まれた、暗い空き地。彼は持っていた杖の先端に指先で触れて、ぽうっと明かりをつけた。呆気に取られるティルを他所に、彼は涼しい顔で問い返してきた。 「どこから見てたの?」 「お前が小道に入っていくところから」 「そうなんだ、気付かなかった。しまったな、やらかした」 指先で頬をかきながら、あちゃあ、と呟く彼。ティルは腕組みをして言った。 「お前、俺のこと誰だかわかってんのか?」 すると彼はふっと微笑んだ。 「知ってるよ。同じブレザーだし、同じクラスなんだから……フェティル・ノイズシュタイン」 「……」 むず痒かった。この優等生から認知されていたことが。少し気まずげに視線を逸らす間に、彼は言った。 「俺としては級友に、記憶消去の術を使うのは気が引けるんだけど……黙っててくれないかな」 「黙ってるって、さっきみたいのをか?」 「そう」 彼が言うには。 この学校の近くに、何等かの目的を持った妖が集まってきているらしい。それを彼が祓い、彷徨える魂を導いているそうだ。 「……んな漫画みたいな話あるか?」 「でも見たんでしょう?」 「……大風が起こっているところだけな。お前が何と戦ってるのかは見えてない」 「妖気を纏った存在は、普通の人には認知できないから」 「お前は普通じゃないのか?」 「普通に見える?」 「見えないけど」 そういうこと、と彼は小さく笑った。学校ではほとんど表情を崩すことのない彼が、こんなことで笑ったりすることが意外で――見てしまったことが、何か禁忌を犯したような気がして。ティルは肩にかけていたリュックの肩紐を握る手に力を入れる。 「どうかな?黙っててくれる?」 「黙ってるくらい、別にいいけど」 「本当?助かるよ、記憶消去の術は使うと一日分記憶飛ぶから、きっと不便をかけてしまうと思うんだよね」 「怖ぇこと言うな、お前」 「じゃあそういうこと……え?主神様、何て?」 彼がそう言った次のときには、彼の背後に白い男が、幽霊のように張り付いていた。呆気に取られてそれを見ていると、彼が困ったようにその幽霊に視線を向けた。 「主神様。理由あって俺に取り憑いてるんだ」 「はああああああああああ!?」 ティルは叫ぶ。 主神と言えば、この国の国民ほとんどが信仰する宗教の神。食事の度に「主神の恵みに感謝します」と唱えるくらいには、定着している。その神が、取り憑いてる?嘘だろ?だが、彼の背後の幽霊は、教科書や教会で主神像だと見せられる絵と全く一緒だ。 『フェティル、驚かせて申し訳ありません』 幽霊……否、主神が語りかけてくる。 「いえ……別に」 神様相手に何と言っていいかわからなくて、ぶっきらぼうにそう返す。だが主神は怒る気配もなく、更なる爆弾を落としに来た。 『フェティル。君も見てしまったからには協力してもらいます』 「え?」 『姫神、見ているのでしょう』 『ああ』 ふわりと優しい風が吹く。一体何がと思うと、主神の横に一人の……筋骨隆々な女が浮かんでいた。 「……姫神様まで」 彼が心底疲れ切ったという声でぼやいた。 『主神、私はどうしたらいいんだ?』 『彼に憑いて下さい。それが――リュートへの、最大限の補助になる』 『……その件が絡んでんなら仕方ねぇな』 『……よろしくお願いします』 二柱の間で何かが決まったらしい。それに彼が慌てた様子で二柱の間に入って声を上げた。 「ちょ、ノイズシュタインは関係ないので、それは……!」 『何故です。味方は多い方がいい。それに、君のためでもある』 「ですが!」 『うだうだうっせえなあお前!もう私が決めたんだよ!』 「姫神様!」 ふっと姫神と呼ばれた神が消えていく。そして、 「う……」 ティルの身体に、ふっと重い何かが乗ったような感覚。何だ?何が起こってる?彼は何やら首を横に振っているし、俺はどうなったんだ? 『ようフェティル』 「うわああああ!?」 頭に直接響く声。脳みそにもう一人頭の中にインストールされたような。 『これからよろしく頼むな!』 「え?俺?ええ!?」 どうしようもなく戸惑っていると、彼が近付いてきて小さく頭を下げた。いつの間にか主神は消えている。 「ごめん、神って基本人の話聞かないから……」 「いや、それってお前が謝ることか?」 「だって迷惑でしょ?神様に取り憑かれて、協力だなんて……俺から主神様にもう少し話してみるよ。そしたら」 「いい。このままで」 「え?」 本当にいいの?と顔に書いたままの彼を見て、ティルは思う。 これという一つ。一番星。ひょっとして、ここにあるのではないか? ティルの勘が言っている。これに関わる方が、「面白い」。 「どういうこと?」 「手伝わせろってことだ」 「遊びじゃないんだよ?」 「言われなくてもわかってる――今の俺には、お前の行く所が、俺の行く所なんだ」 ほんの少し目を瞠った彼は、そっと右手を差し出してきた。 「じゃあ、これからよろしく――ティル」 「おう、よろしく。リュート」 こうして、ティルは、彼……リュートと握手を交わす。 柔らかい手。男とは思えないほどに肌理の細やかな手。 この手を取って、どこまでも走り出したい衝動が、 「……ティル?」 「あ、悪ぃ」 思考を中断して、慌てて手を離す。惜しいなと、思ってしまった。

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