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第1話

 子どもの頃のあだ名は『本の虫』。古い本を開くと紙面をちょこちょこと這い回る、紙を食べる紙魚という小さな虫になぞらえた言い回しで、要するに、本が主食なのかと疑うほど本ばかり読んでいる人間のことだ。  外で遊ぶか、家にいてもテレビゲームで遊ぶのが当たり前だった時代に、漫画でもない活字ばかり読んでいた俺は、同級生の中では異質な存在だった。だからそんなあだ名をつけられたのだろう。おそらく、馬鹿にして揶揄うつもりで。  しかし俺は、この呼び名が嫌いではなかった。言い得て妙だ。本を主食にできるものなら、とっくにそうしている。それくらい、自分でも異常だと思うほどに、本が好きだった。  単に読み物が好きという話ではない。もちろん書かれている内容も好きだが、それだけではなく、装丁や表紙、紙の質感と匂い、紙面に載ったインク、整然と並ぶ活字。文字通り、俺は『本』そのものが好きなのだ。  本の虫とは、そんな自分にぴったりの呼び名だと思っている。  新卒で入社した大手出版社。最初に配属されたのは書店営業部だった。担当する書店を回って、各売り場の担当者に新刊を売り込み、その書店での売り上げや売り場を確認したり、販促物の掲示を提案したりする。  本が好きな自分にとって興味深い仕事だったが、しかし一番の希望はやはり編集部だった。完成した作品を届けるのではなく、作品が生まれるところに携わりたい。  長く異動の希望を出し続けて六年、やっとのことで編集職への異動が叶い、俺はこの春から、晴れて編集部に配属された。  ただし、俺が希望した文芸編集部ではない——青年コミック編集部に。 「はじめまして、今日からよろしく。えっと、名前は……」  目の前にいる男性は、この青年コミック編集部で、俺の教育を任されたらしい先輩だった。  歳は四十前後だろう。やつれた顔と、目の下の隈、剃り残った無精ひげが、なんとなくだらしない人という印象を受けた。へらりと笑う顔は力なく、いかにもお人好しで、新人教育なんていう面倒ごとを押し付けられそうな人だと思った。 「佐藤です。よろしくお願いします」 「佐藤くん! 俺は加藤っていうんだ。紛らわしいな……名前で呼んでもいい?」 「はぁ……佐藤雄大です」 「ゆうだいくん。よろしく。俺は加藤陸です」  握手のために差し出された手を握ると、勢いよくぶんぶんと上下に振られた。距離の近い人だ。パーソナルスペースが広い自分にとっては、苦手なタイプである。  新しい部署のオフィスをぐるりと見渡す。女性が二名、その他は男性ばかりで、年齢層も高めである。目の前にいる加藤すらも、この中では若手に分類されそうだった。  営業の名残でつい、スーツにネクタイを締めて出社してしまったが、他の社員はほぼ私服か、よくてオフィスカジュアルだった。加藤はかろうじてワイシャツを着ているものの、アイロンをかけていないのか皺がよってくたびれており、袖も腕まくりして七分丈になっていた。ネクタイも締めておらず、首元はボタンを外して鎖骨が見えるほど緩んでいる。  自分だけ浮いているような気がして、居心地悪く自分の席についた。俺の席は加藤の隣だ。  文芸編集に携われなかったことは、正直なところ残念だが、漫画編集も立派な編集職には変わりない。ここで経験を積みながら、また異動希望を出し続けよう。憂鬱な気持ちを押し込めて切り替える。 「雄大くんは、うちの雑誌読んだことある?」 「いえ……すみません。まだ読めていません」  隣の席から話しかけてきた加藤に、正直に答える。 「そうなんだ。じゃあこれ、最新号。とりあえず、どんな作品を扱うか読んでみなよ」 「ありがとうございます」  加藤は気を悪くするでもなく、デスクにうず高く積まれた書類の中から雑誌を一冊抜き取って、こちらへ差し出してきた。加藤から受け取った雑誌の表紙を眺める。俺が勤める出版社から刊行されている、青年向けコミック誌だ。  表紙に描かれているのは実写映画化もしている有名な漫画のイラストだった。確か、現代の女子高生が戦国時代の武将に転生して、天下統一を目指す物語だったろうか。  そんなこと考えながら、適当なページをパラリと捲ってみる。 「!」  目に飛び込んできた紙面の衝撃的なイラストに、思わず、勢いよく雑誌を閉じてしまった。あまりの勢いに驚いた加藤が、こちらを見て目を丸くしている。 「雄大くん、どうしたの」 「いっ、いえ、何でも」  答えながら赤面してしまう。何だったんだ、今のは。これって青年コミックだよな。成人コミックじゃないよな……⁉  動揺する俺を、首を傾げて不思議そうに見た後、加藤は俺の手元に視線を移動させた。しばらく考えた後、何かに思い当たって顔を明るくする。 「もしかして、このページ?」  キャスター付きの椅子で移動して俺の前まで来ると、加藤は俺が雑誌を閉じた両手に自分の手をそっと重ねた。 「っ、な、何を……」  人に触れられることに慣れていない上、加藤の触り方がやけに生々しくて、今さっき見たページの衝撃と相まってビクリと大袈裟に体が震えてしまう。  加藤は笑いながら俺の手ごと雑誌を開いた。しばらくパラパラとページを捲った後、さっき俺が見たページに辿り着いて、そこで手を止める。 「……っ」  そのページは明らかな濡れ場だった。バストの大きな女性が衣服を乱されて、艶めかしくその素肌を晒すイラストが描かれている。  またカッと顔が赤くなる。さっさと目を背ければいいものを、固まって動けない俺を見て、加藤は笑いながら俺の手に重ねた手で雑誌を閉じてくれた。 「青年誌も、たまーにこういう過激な表現が入るからね」 「……そうですか」 「雄大くんは、前の所属は書店営業だっけ。慣れない環境で大変かもしれないけど、しばらくは俺と一緒だから、安心して」  まだ顔の熱が収まらない俺に、加藤は仕方なさそうな笑みを浮かべている。これから仕事で扱う作品だというのに、こんなことで動揺して呆れられているのかもしれない。  午後になり、加藤が担当している作家と打ち合わせをするために、作家の自宅兼仕事場へ向かうことになった。 「直接自宅へ行くんですか? リモートじゃなくて?」 「リモートの作家さんもいるけど、今から行く作家さんは、本人の希望で自宅訪問なんだ」 「はぁ……」  会社を出る前に作家と作品の詳細は聞いている。作家名は針乃筵、作品名は『静香さんは静かにできない♡』、さっき俺が開いてぎょっとした、濡れ場のある漫画作品だ。  主人公の静香は常に性欲を持て余しているアラサー女性。内気な性格から、相手を見つけて自分の性欲を発散させることもできず、頭の中だけで常に自分が淫らな目に遭う妄想を膨らませているという内容だ。口数の少ない彼女だが、妄想が盛り上がると毎回現実で妄想の中のセリフを口走ってしまうために、タイトルが『静かにできない』ということらしい。  まさか初の打ち合わせが、青年誌のお色気枠だとは思わなかった。俺はあまり漫画を読まない。営業をしていた頃から、少年誌にも青年誌にも多少のお色気シーンが含まれることは知ってはいたものの、実際どれほどかを目にしたのは今回が初めてだ。  加えて、白状するなら、俺はこの歳で恋愛経験ゼロ、もちろん童貞である。恋も愛も性行為も、全て架空の知識でしか知らない。元々性欲が弱いのか、大して困っていないので、一生このままでいいかと思っていたくらいである。  そんな俺の初仕事がこれか……せめて先ほどのような動揺は見せないようにしなければと、憂鬱な気持ちで社用車に乗る。  加藤の運転で目的地へ向かった。針乃の仕事場は会社から三十分ほどのマンションにあった。  エントランスで部屋番号を押すと、インターホンから応答が聞こえてくる。 『はい』 「加藤です。先生、お疲れ様です」 『陸さん! 待ってました』  応答機の向こうから弾んだ声が聞こえてくる。今のが針乃だろうか。  すぐにエントランスの自動ドアが開き、敷地内に入ってエレベーターで八階に上がった。針乃の部屋の前で加藤がインターホンを鳴らす。  担当作家と初のご対面である。どんな人だろうか。緊張しながら待っていると、扉が開いて、中から長身の男性が現れた。 「陸さん……! 助けてください、行き詰まってて!」 「……⁉︎」  その男性はすぐさま、目の前にいた加藤に抱きついた。背の低い加藤は、その長身男性の腕の中にすっぽりと収まってしまう。  予想もしなかった展開に、何が起こっているのかも分からず、動揺で動けなくなってしまう。おそらく針乃と思われる長身男性と、隣に立つ俺とを見比べて、慌てたように加藤が口を開いた。 「せ、先生……落ち着いて」 「ん……? 誰すか、これ」  長身の男がこちらを睨むように見る。ボサボサの金髪に、伸び切ったスウェットTシャツ、自分と同じような黒縁の眼鏡をかけた、気だるそうな雰囲気の男性だ。年齢は多分、俺と加藤の間ぐらいだろうか。 「先に連絡しましたよ……新人の、佐藤雄大くんです」 「へぇー……よろしくお願いしまーす」  どことなく刺々しい口調に、敵意のこもった視線を向けられて、たじろいでしまう。初対面から、何か気に障ったことをしてしまっただろうか。まだ何もしていないはずだけれど。  長く営業をしていたので、作家相手にも自分のコミュニケーションは通用するだろうと、どこかで考えていた。自分の考えが甘かったかもしれない。ますます緊張しながら頭を下げる。 「よろしくお願いします。佐藤です」 「早く上がってください、陸さん。次のネームの相談したいんで!」  しかし針乃は俺の挨拶を気持ちいいまでに無視すると、加藤の手を引っ張って家の中に入ってしまった。 「雄大く……!」  俺を気遣うように見ていた加藤だったが、針乃に引っ張られるまま家の中に入って、俺の目の前でバタンと扉が閉まる。  あまりのことに呆然としてしまって、しばらく何も考えられなかった。やがて自分の状況をじわじわと理解し始めて、遅れた怒りが込み上げてくる。  ——何だ、あの態度……!  何かを生み出す才能に恵まれた、過去の偉大なる作家先生たちは、その突出した才能ゆえなのか、個性的な逸話を持つ人物が多い。  心中を繰り返してみたり、酒と暴力に溺れてみたり、強い思想を持っていたり……流石に現代ではそこまで強烈なエピソードはないものの、やはり気難しい作家はいると聞く。営業部で編集部への異動を希望していると伝えると、編集経験がある先輩たちには物好きだなぁとよく言われたものだ。  だから、覚悟はしていた。していたのだが……さすがにここまでとは、思いもよらない。 「新人くん、俺エナドリ飲まないとやる気出なくて……追い込みかけないとやばいし、今時間ないから、代わりに買ってきてくれない?」 「は……?」  目の前で閉められた扉を自分で開き、針乃と加藤の後を追いかけた俺が部屋に入るなり、針乃に言われた言葉がこれだ。俺の名前を覚える気もなさそうなどころか、突然の使いっ走り宣言である。 「針乃先生、買い出しなら俺が行きますよ」  加藤が気を遣ってそう言ってくれるが、「だめ! 陸さんは今から俺と打ち合わせでしょ!」と強く否定される。 「じゃあ、よろしくー。これで買えるだけ買って来てね」  針乃は俺の手に数枚のお札を握らせて、作業机に座ってしまった。 「ご、ごめん雄大くん……針乃先生、ちょっとマイペースなところがあって、悪気はないと思うんだけど」  申し訳なさそうにオロオロする加藤を見ていると、苛立ちが少し落ち着いた。どうやら加藤は、最初の印象そのままに、やはりお人好しな性格のようである。配属されたばかりの、新人の俺にまで気を遣ってくれる、いい先輩だ。担当作家はともかく、先輩には恵まれたようでホッとする。 「いえ、大丈夫です。行ってきます」 「ありがとう……本当にごめんね」  加藤のせいではないのに、最後までシュンとして謝っていた加藤に免じて、大人しく買い出しへ行くことにした。それに、作家が心置きなく創作を行えるようフォローするのも、編集の仕事のうちである。新人の俺が動くというのも、間違ってはいない。  それでも、針乃の先ほどの態度はどうかと思うけれど。  針乃が好むエナジードリンクの銘柄を加藤に教えてもらって、コンビニへ向かった。預かったお金で指定されたエナジードリンクを買えるだけ買い込み、針乃の仕事場へ戻る。  エナドリの詰まった買い物袋を二つ、両手に抱えて歩く。  本の虫、というあだ名そのままに、俺は体を動かすのが得意ではない。営業職は体力勝負だったので、社会人になってから定期的にジムに通うようにして、なんとか人並みにはなったが、それでもこの量のエナドリを運ぶのは一苦労だ。  やっとのことで針乃のマンションに辿り着く。エントランスを開けてもらうために部屋番号を押そうとするが、両手が塞がっているせいで、もたついてしまう。  ちょうど住民が自動ドアを開けて中から出て来たので、よくないと思いつつもその隙に入れ替わりで中に入った。  両手の指が今にも千切れそうだ。早くこの重荷を下ろして解放されたい。這々の体で針乃の部屋の扉を開けた。 「戻りました……針乃先生?」  だが打ち合わせをしているはずの二人の姿は、仕事部屋になかった。  どこか出かけたのだろうか……二人で? 不思議に思いながらも、とりあえず両手に抱えていた買い物袋を床に下ろす。  ジンジンと痛む手を休めていると、別の部屋からボソボソと話し声が聞こえてきた。 「……や、でも。先生、さすがにこれ以上は……!」 「ええっ、お願いしますよ陸さん! 陸さんだけが頼りなんです! もうちょっと、もうちょっとで新しい話のイメージが降って来そうなんで……!」 「……っ、いやぁ、でも」  加藤と、針乃の声だった。別の部屋にいるのだろうか。  ……何だか、嫌な予感がした。  声のする方へ、そっと近づく。仕事部屋を出て廊下を歩き、目の前に現れたドアの隙間から、見てしまった。  その部屋で行われている、信じられない光景を。 「あ……っ! 先生、待って……っ」  僅かに開いた扉の向こうに、アイマスクで目隠しをされ、両手をロープで拘束された加藤がいた。加藤の両手を拘束しているそのロープは、スチールラックの隅に括り付けられていて、両手を上げたまま下げられないみたいだ。  そんな辛そうな体勢を強要されたまま、加藤はワイシャツのボタンを外され、中に着ていたインナーシャツを上に捲り上げられていた。腹筋から胸板まで、素肌が露出している、あられもない格好だ。  それどころか、たった今、加藤はスラックスのベルトを外されてしまった。すとんと足首まで落ちて、下半身は下着一枚になってしまった。  さっき、漫画で見た、性的なイラストとは比べ物にならない、現実の光景に、心臓がドクリと大きな音を立てる。加藤は男性だ。それなのに、その肌の白さや、引き締まったラインの綺麗な太腿に、視線が釘付けになってしまう。  何より両手を拘束されているという、あまりにも刺激的で蠱惑的なシチュエーションに、俺の頭の中は混乱と興奮でめちゃくちゃだ。やたらと渇いた喉をゴクリと鳴らした。どこからか伸びて来た手が、するりと加藤の太腿を撫でる。 「めちゃくちゃイイですよ、陸さん……! ありがとうございます、次の話も、陸さんのおかげでエロく描けそうです」 「ん……っ、そ、そうですか……それは、良かったです……ッ」  加藤の太腿を撫でているのは、やはり針乃だった。針乃は拘束された加藤の背中に寄り添って、後ろからその太腿を思う存分撫で回している。もう片方の手は胸板へ向かって、シャツの中で素肌をまさぐっていた。その指先が胸の先端に触れて、赤く尖ったそこを指でぐりぐりと押し潰している。 「ん……っ! く、ぅん」  両手を拘束された加藤は、抵抗もできずにされるがままだ。時々ビクリと背中を逸らして体を震わせて、恥ずかしそうにもじもじと太腿を擦り合わせている。その様子がまた堪らないほどに男の欲望を掻き立てた。俺の下半身に、ズクッと重い鉛のような衝撃が走る。  ——というか、これって……! 「何してるんですか‼︎」  混乱の最中、それでも俺は自分を奮い立たせて、この狂った空間に押し入った。 「ゆっ、雄大くん……!」  俺の声を聞いた加藤が、ギョッとした様子で目隠しされたその顔を真っ赤に染め上げる。加藤の背後にいた針乃は、あからさまに顔を顰めてチッと舌打ちをした。 「もう帰って来たのかよ……めんどくさ」 「何なんですかこれは、職権濫用ですか。セクハラで訴えますよ! 先輩も、何してるんですかこんなこと受け入れて」  苛立ちながら二人を引き離し、加藤の拘束をほどく。アイマスクを外してやり、両手が自由になった加藤は、恥ずかしそうに自分の乱れた衣服を戻しながら、涙目で俺を見上げてきた。 「ち、違うんだよ、これは……! その、針乃先生は作風が作風だから、漫画の参考に、どうしても必要らしくて、変な意味はないから」 「はぁ……⁉︎」  必死な様子の加藤は、どうやら本気でそう思っているようだった。「女の子相手だと問題だけど、ほら、俺はおじさんだからそういう心配もないし」とか言っている。正気か?  俺はめちゃくちゃな理由で加藤を丸め込んだらしい針乃を、ギロリと睨みつけた。針乃は悪びれもなく俺から視線を外すと、加藤のワイシャツの外れたボタンを留め直してやりながら、加藤に向かって話しかけた。 「陸さん、すいません、俺、今、買い出しに頼み忘れたもの思い出しちゃってぇ」 「えっ、そうなんですか」 「うん、だから、今度は陸さんが買いに行ってもらえませんか?」 「雄大くんが二回も往復するの、大変ですもんね。分かりました! 任せてください!」  ことの重大さを全く分かっていない様子で、加藤はお金を受け取ると、張り切って部屋を出て行った。部屋の中は俺と針乃の二人だけになる。  俺が睨みつけたまま針乃の説明を求めていると、針乃はこれみよがしに大きなため息をついて、口を開いた。 「いいとこで帰ってくんだもんなぁ。もっと時間がかかるもの頼めば良かった」 「……っ、やっぱり、わざとなんですね。どういうつもりで……!」 「おっと、勘違いしないでくださいよ。セクハラなんてとんでもない。陸さんが自分から、俺で参考になるならーってやってくれたんです。同意の上ですよ、同意の」  ヘラヘラ笑う針乃の言葉に、ぐっと苦いものが込み上げる。同意、という言葉を聞いて、自分が思った以上に動揺するのが分かった。  その動揺を見抜いた針乃はニヤリと笑う。 「君、俺の漫画読んでくれた?」 「……はい。一部ですけど」 「じゃあ分かるだろ、あの漫画の主人公の静香さんって、モデルは陸さんなんだよ」 「……は⁉︎」  針乃の漫画の主人公、静香は、性欲を持て余すアラサー女性だ。くたびれたアラフォーおじさんではない。  何を言っているのか分からず、怪訝な顔で針乃を見る。針乃は余裕の表情を崩さない。 「さっきの陸さんの反応、全然嫌がってなかったでしょ。陸さんて、口に出さないだけで、すごーくエッチな人なんだよ」 「はぁ……⁉︎」 「だから、エッチなことしてあげると喜ぶの。分かる? 陸さんは嬉しい、俺は漫画のネタになる。Win-Winっていうわけ」  だから余計なことすんなよ、と凄まれて、言葉が出なかった。漫画で読んだ、過激な妄想ばかりするアラサー女性、静香の姿が頭に浮かぶ。  ……言われてみれば、確かに、衣服を乱して豊満な肉体を曝け出し、恥ずかしそうに喘ぐ静香のイラストは、さっき見た加藤のシチュエーションや表情とよく似ていた……ように、思う。  意識した瞬間、カッと顔が赤くなる。加藤が喜んでるだって? あんな、破廉恥な行為を⁉︎  信じられない。だが、否定できるほど俺は加藤のことを知らない。もし、本当に加藤が、喜んであんなことをしているんだとしたら……!  いろいろなことが頭を巡って、思考が全く整理できなかった。ぐるぐると考え込んでいる間に、加藤が戻ってきて、針乃との打ち合わせは終わり、マンションを後にしたのだった。    針乃のマンションを出発した車内は、重苦しい沈黙に満ちていた。 「え、ええと……ごめん雄大くん、変なところ見せて。あっ、別にあれが編集の仕事ではないから! 針乃先生がちょっと特殊なだけで、普通はあんなことしないからね⁉︎」  どうやら俺が黙っているのを、仕事に不安を感じたせいだと解釈したらしい加藤が、必死に言い訳を重ねている。  そんなことは当たり前だ。あれが普通であってたまるものか。今俺が考えているのは、この人が本当にあれを喜んで受け入れているのか、それとも作家と編集という立場で、拒否できずに嫌々受け入れているのかだ。  前者なら、変態同士いいコンビだということで、見なかったことにすればいい。だが後者なら大問題である。早々に担当を変えるか上から注意してもらうかして、対応しなければならない。セクハラ断じて許すまじ、だ。  助手席のシートから、運転席に座る加藤の様子を窺う。加藤は運転しながらこちらの様子を気にしていたようで、赤信号で止まった瞬間、ばちりと目が合った。  困ったように、控えめな笑みを浮かべる加藤を見て、俺の下半身にまたズクリと鈍い衝撃が走った。  慌てて顔を背けて、窓の外を眺めているふりをする。車が走り出したので、加藤ももうこちらを見てはいないだろう。  よかった、今の俺を見られるわけにはいかない。きっと、耳まで赤くなっている。  さっき、針乃と加藤が破廉恥な行為をしている光景を見た時と同じだ。下半身が重く、熱を帯びていくようなこの感覚。これは、勃起の前兆である。  なぜ加藤と目が合っただけで、自分の体がこんな反応をするのか分からなかった。深呼吸をして落ち着ける。  幸い、次の目的地に到着する頃にはすっかり収まってくれた。 「次に会う子は、まだデビューしてない新人さんなんだ。俺が郵送投稿で見つけた子で、すごく繊細な、いい漫画を描く子なんだよ」 「そうですか……あの、それで、ここって」  目の前には、二階建ての小さなアパートがある。築数十年を思わせる、古めかしい建物である。 「その子の自宅だよ」 「……まだデビューしてない新人の家にも、打ち合わせでわざわざ訪問するんですか?」  何となく嫌な予感がして、つい、そんなことを聞いてしまう。加藤は困ったように眉尻を下げて、俺の質問に答える。 「いや、ちょっと特殊な子でさ。人見知りが激しくて、人の多い場所には三十分以上いられないから、外で会うわけにはいかなくて」 「リモートでいいのでは?」 「デジタル機器が苦手なんだよ。だから、今時珍しい完全アナログ原稿なんだよ」  どこか得意げに言う加藤を胡乱な目で見つめた。  もちろん、まだ世間に見つかっていない新しい才能を見抜き育てることも、編集者の大切な仕事である。しかし、わざわざ自宅まで赴いて時間と手間を割くほどの才能を持つ新人なんて、そうそういるだろうか。疑いの眼差しで見てしまうのも致し方ないことだった。  アパート二階の一部屋の前で立ち止まって、加藤は音符マークが刻まれた、時代を感じさせる古いインターホンを鳴らした。すぐにドタドタと慌ただしい音が近づいてくる。このアパート、防音性は大丈夫だろうか。 「陸さん!」  勢いよく扉が開き、出て来た人物が目の前にいた加藤に抱きついた。デジャブである。 「陸さん、ずっと待ってました。助けてください、僕才能がないんです……どうしよう、これじゃデビューなんて夢のまた夢だ……」 「翔太くん、落ち着いて……」  悲壮感漂う若者を、宥めるように抱き締め返す加藤にムッとしてしまう。……ムッと? 何でだ。自分の感情が自分でもよく分からない。  ぐずぐずと泣きながら加藤に抱きついていた若者が、こちらに気づいてビクリと身を縮こまらせた。 「だ、誰……⁉︎」  加藤の背に回り、隠れるようにしてこちらを覗き込んでくる。身長は加藤より少し高いくらい。年齢は、大学を卒業したくらいだろうか。長い前髪で目元は完全に隠れていて、よれたTシャツとジーパンにはインク染みやスクリーントーンの切れ端がついていた。 「今日一緒に行くって連絡してた、新人編集者の佐藤くんです」 「佐藤です、よろしくお願いします」  個人的な感情が表に出ないように、丁寧にお辞儀をする。翔太と呼ばれた新人作家は、その目を見張って「新人編集者……⁉︎」と小さく呟いた。 「翔太くん、新しいネームはどうですか。もう完成したのかな」 「あっ、す、すみません……上がってください、汚いですけど……」  翔太の家はワンルームのようだった。扉を入ってすぐ玄関続きの部屋になっており、簡易キッチンも、風呂、トイレ、洗面台へ続く扉も、狭い和室内に全てが収まっている。窓際にはおそらく万年床である、布団が敷かれたままになっていた。  部屋の中央に置かれたちゃぶ台が、翔太の作業スペースらしかった。描きかけの原稿とペン先、インクが置かれている。  周囲にはスクリーントーンが散らばっていた。それらをかき集めて座るスペースを作ると、翔太は俺と加藤をそこに座らせた。座布団などは特にないらしい。  向かい合って座った翔太は、しばらくソワソワした様子で、長い前髪の隙間から何度も俺と加藤を見比べた。そのうちにどんどん顔色が悪くなり、やがて意を決したように「あの」と口を開いた。 「すみません、次の漫画でどうしても必要な資料があって……」 「そうなんですね。どんな資料ですか」 「西洋の……建築に関する本が欲しいです。お城とか、教会とかの」 「すぐ用意します。ちょっと待っててください」 「あっ、いや、陸さんは……!」  立ち上がった加藤を焦った様子で翔太が引き止める。その後、訴えかけるようにじっと俺の方を見つめた。……またこのパターンか。 「分かりました、買って来ます」 「雄大くん……ごめん」 「いえ、すぐ戻りますので」 「ありがとう。領収書は、会社の名前で切ってくれればいいから」  幸いにも、スマホで近くの本屋を調べたところ、そう遠くはなかった。急げば三十分もかからないだろう。  翔太の家を出て本屋へ向かう。土地勘のない初めての場所では細かい場所が分からず、少し迷ったが、何とか辿り着くことができた。  初めて訪れる書店では、自然とディスプレイや陳列方法に目を奪われてしまう。長く営業職をしていたので、職業病のようなものだ。  西洋の建築に関連する書籍を数冊選んで会計する。足早に戻って、翔太の家の扉を開けた。  ……そこには。 「あっ、やめて、翔太くん……! そろそろ雄大くんが帰って来るから……! ん、ぁっ」 「なんで、どうして新人さんなんか連れて来たんですか……! んっ、んちゅ、陸さん、俺を見捨てる気ですか……⁉︎ 俺が売れないから……⁉︎」 「ち、違……っ、ちがうよ、翔太くん、話を聞いて……! あぁっ」 「やだ、見捨てないで陸さん……! 俺、陸さんじゃないとダメなんです。ん……ちゅ、絶対売れるから、だから捨てないで……!」 「違うってばぁ……っ、あ、んっ」  シャツのボタンを外され、胸板をはだけさせられて困ったような表情で喘ぐ加藤と、その胸板に顔を埋めてベロベロとその乳首を舐め回す翔太の姿があった。  何だこれは……何だこれは! 「ちょっと! 何やってるんですか‼︎」  思わず声を張り上げる。叱られた子犬のようにビクッと体を跳ねさせた翔太は、怯えた様子で部屋の隅に勢いよく駆けて行きその場所で体を丸めてブルブルと震え出した。 「ゆ、雄大くん……おかえり」  翔太に解放され、加藤はくたりと力が抜けたようにその場に倒れ込む。ワイシャツのボタンが外れて、曝け出された胸板の先端は、先ほどまで散々嬲られたことを示すように濡れて赤く尖っていた。  蕩けたような表情で浅く呼吸する加藤に、またズクリと股間が衝撃を受ける。クソ、本当に、一体何でこんなことに……! 「雄大くん、ごめん、大丈夫だから……」 「はぁ⁉︎ どこが大丈夫なんですか‼︎」  こんな目に遭っておきながら、まだ大丈夫大丈夫と言っている加藤に腹が立った。だが俺が声を張り上げても、怯えるのは部屋の隅にいる翔太だけで、加藤は全く意に介さない。 「翔太くんは、興奮すると時々ネガティブになっちゃうんだけど、誰かのおっぱいがあると落ち着くらしくて……俺はほら、男だしおじさんだから。こんなの別に大したことじゃないし」  へらりと力なく笑いながら、乱れた自分の衣服を整える加藤に、焦燥が募る。  何なんだここの人は。いつもこんなことをしているのか。……もしかして、本当に、さっき針乃が言っていたみたいに、望んでこんなことをしているのか? エッチなことが、好きだから?  二回も続けて同じようなことがあったせいで、針乃の話に信憑性が出てきた。先ほどの針乃はそれなりの売り上げを持つ看板作家で、見たところガタイもよく、加藤の体格や立場では抵抗が難しく嫌々ということも考えられたが、今回は違う。まだデビューもしていない新人作家、しかも見た目は小学生と戦っても負けそうなくらい軟弱な男である。本当に嫌なら抵抗できないわけがない。  考えれば考えるほど、自分の出る幕はないように思えて、それがまた俺の苛立ちを大きくしていく。込み上げて来る様々な感情を飲み込んで、自分の拳をぐっと握った。 「……っ、帰りますよ!」 「う、うん……あ、ちょっと待って」  シャツのボタンを留め終えた加藤が、慌てたように部屋の隅の翔太へ近寄る。 「翔太くん」 「陸さん……」  翔太は震えながら、縋るように加藤を見た。加藤は優しく彼に微笑み返す。 「ネーム、良かったよ。今の流行ジャンルを取り入れつつ、翔太くんの個性もちゃんと出てる。君にしか描けない漫画だと思う。方向性は間違ってないから、このまま最後まで描いてみよう」 「陸さん……!」  神の啓示を得た信徒のようにキラキラと顔を輝かせて、翔太は加藤へ向かって手を伸ばした。その手が加藤の腕を掴む瞬間、俺の中で激しい感情が爆ぜて、無意識に声を張り上げていた。 「加藤さん!」 「はっ、はい! じゃあ、翔太くん。ネームの完成、楽しみにしてるね」  最後まで翔太を気にかけながら、加藤は俺の後をついてくる。  そんな加藤の態度に、苛々した。何故こんな感情になるのか分からなかった。  外に出ると、空は暗くなり始めていた。もうすぐ十七時だ。  社用車に乗った加藤は、また気まずい顔で先ほどの言い訳を始める。 「ごめん雄大くん。さっきの翔太くんもちょっと特殊で、あれが編集の仕事っていうわけじゃないからね」 「当たり前です‼︎」  つい、強い口調で言い返してしまって、加藤はビクリと肩を震わせた後、その肩をシュンと落とした。 「変なところ見せてごめん……次の先生は大丈夫だから! 昔少年誌で大ヒットした漫画を描いていた大御所の先生で、今はうちでアングラ系の漫画を描いてて……」 「……で、向かっているのはその先生のご自宅ですか?」 「仕事場だよ。アシスタントさんもいるし、だから大丈夫!」  何が大丈夫なのか全く分からないが、加藤は力強くそう言った。加藤の態度がますます俺を懐疑的にさせる。絶対大丈夫じゃないだろ。 「遅い‼︎ 約束の時間を三十分も遅れとるじゃないか‼︎」  次の目的地である貸しオフィスの一室で、扉を開けた瞬間待っていたのは、仁王立ちする強面男性だった。  年齢は五十代か、もしかすると六十代かもしれない。腕を組み、怒りを露わにするその様子は、いかにも大御所らしい威圧感を放っていた。 「すみません、財前先生。前の打ち合わせが長引いてしまって」  加藤はぺこぺこと頭を下げて謝っている。気難しい作家なのだろうか。俺も加藤に合わせて頭を下げるが、財前と呼ばれた大御所先生は、俺のことなんて視界にも入っていないみたいだった。 「言い訳はいい! さっさと始めるぞ! 雅!」 「はいはーい」  財前の後ろからにゅっと現れた、『マサ』と呼ばれたその男性は、軽快な足取りでこちらへ近づいてきた。長い茶髪を後ろで一つに括っている、糸目で飄々とした印象の男性である。歳は俺と同じくらいだろうか。よれたシャツに細身のスキニーパンツを穿いていた。 「じゃあ、行きましょっか、陸さん。だいじょーぶですよ、財前先生、どうせ撮影始まったら怒りなんて忘れちゃうんで」 「雅くん……ごめん、ありがとう」  雅という謎の人物は、親密な様子で加藤と会話を交わしている。何故か加藤の片手を取って、エスコートするように持ち上げた。距離が近すぎる。何なんだこいつは。  財前と違い、辛うじて俺が視界に入ったらしい雅は、その糸目の奥から僅かに覗かせた瞳で鋭く俺を見た。その穏やかではない視線に、ゾクリと背筋が冷える。 「この人はどなたです?」 「新人の、佐藤くんだよ。財前先生には連絡してたんだけど……」 「あー、先生、そういうの読んでも気にしないからなぁ」  ケラケラと笑った後、雅は人好きのする笑顔を浮かべたまま、こちらへ向かって挨拶をしてきた。 「俺、財前先生のアシスタントの雅弘です。どうぞよろしくお願いします」 「……佐藤です。よろしくお願いします」  笑顔だし、口調も丁寧なのに、何故だろうか。どことなく、牽制されているような気がする。  俺が頭を下げると、雅弘は気を取り直したように加藤の手を引いて「じゃあ行きましょ」と加藤を奥の部屋へ連れて行った。  作業机が並ぶオフィスの奥、仕切られた部屋の扉を開けると、そこには三脚に取り付けたカメラを調整している財前と、本格的な撮影スタジオのセットがあった。  背景にはグリーンバック、照明、反射板、そして中央に、グリーンバックより少し濃い緑色のソファが置かれている。 「陸」 「はい!」  カメラの調整をしたまま、淡々と名前を呼ぶ財前に答えて、加藤が徐に服を脱ぎ始めた。 「⁉︎」  シャツのボタンを外してインナーウェアだけになり、ベルトのバックルを外して下まで脱ごうとする。あまりにも自然に脱ぎ始めるので、一瞬何が起きているのか分からず反応が遅れてしまった。 「何してるんですか‼︎ あなた、また……」 「しーっ、雄大くん、大丈夫。ただのポーズモデルだから、服も、体のラインが分かるところまで脱がなきゃいけないけど、裸になるわけじゃないから」  大きな声を出したので、慌てたように加藤が俺の口を塞いだ。加藤の手のひらが、俺の口に当たっている。ち、近い……!  動揺する俺を見上げるような上目遣いで見つめて、加藤が言う。 「ほんとに、変なのじゃないから。大丈夫だから。ちょっとの間、いい子で待ってて」  へらりと笑う加藤に、心臓がドクリと大袈裟な音を立てる。何なんだ今日は。さっきからこのおじさんに反応して、誤作動ばかり起こして、俺の心臓は一体どうなってしまったんだ。 「陸!」 「はい、すぐ行きます!」  加藤が急いで撮影セットの中に入っていくのを、呆然と見つめる。ドクドクとうるさい鼓動は、なかなか収まらない。  俺が自分を落ち着けるのに必死になっている間に、撮影が始まった。  前の二件に問題があったため身構えたが、確かに加藤の言う通り、作画資料のモデルとしては、ギリギリ許容範囲と思われる撮影だった。  財前の指示を受けた雅弘が、加藤に近づいて、ポーズの調整をする。ソファの上で膝立ちになって、腰を捻り、片手で髪を掻き上げるような仕草も、雅弘が加藤の体に触れ、細かな位置の調整をするだけで、プロのモデルのように芸術的なシルエットになった。  こうして体のラインが露わになった状態で、おそらく女性モデルを想定したポーズを取っていると、よく分かる。加藤は男性でありながら、体のラインが女性的だ。顔の小ささ、腰のくびれ、男性にしては丸みを帯びて触り心地が良さそうな尻と、細く引き締まった脚。  そのシルエットに見惚れて、綺麗だ、とぼんやり考えている自分に気づき、慌てて首を横に振る。何を考えているんだ、俺は。あんなおじさん相手に……!  ……それにしても、だ。この撮影の必要性は分かったし、確かに、漫画編集者が作家の創作活動の補助的に、作画資料のモデルになるという話は、聞かないこともない。  だがしかし。だがしかしだ。 「だいじょーぶですか、陸さん。疲れてないですか。水飲みます?」 「ん……大丈夫、雅くん、ありがとう」  ポーズの修正に入るたび、距離の近いあの男は何とかならないのだろうか。あんなに近づいて、加藤の肉体にベタベタ触る必要はあるのだろうか。  今も加藤は、その腰の捻り方を雅弘に修正されて、くびれをするりと撫でられた瞬間、恥ずかしそうにピクリと体を震わせ、頬を染めて反応している。触り方がいやらしい。絶対下心があるだろ。加藤も加藤である。何故あんな露骨に触られて嫌がらないのか。もっと抵抗したらどうなんだ。 「陸さん、ここ、もうちょっと、こっち。この体勢、できますか」 「ん……っ、ぅん、ありがとう、雅くん」  ソファの上で四つん這いになり、尻を高く上げるようなポーズも、無駄に雅弘の手が尻を撫で回しているように見える。そしてそれを、加藤も受け入れているような……。  ——やっぱり、わざとなのか。針乃の言っていた通り、自分から望んでいるから、加藤はそんな反応なのだろうか。  もやもやとした焦燥を募らせながら撮影を見守っていると、撮影も終盤という雰囲気になってきた。 「雅」  財前が雅弘を呼び寄せ、指示を出す。雅弘は頷いて、これまでの流れと同じように加藤へ近づいていった。 「すんません、陸さん。最後なんで、ちょっと我慢してください」  雅弘は先に謝ると、着ていたシャツを脱いでセットの外に放り投げた。服を着ている時は分からなかったが、タンクトップ一枚になった雅弘は、それなりにいい体つきをしていた。細身の加藤と並ぶと、無駄なく引き締まって筋肉のついた、逞しい体がよく分かる。  雅弘は糸目の奥に意味ありげな光を乗せて笑うと、加藤が身を横たわらせるソファに膝を立てて乗り上げた。 「!」  加藤に覆い被さるような格好になる雅弘へ、思わずやめろと叫びたくなった。何とか踏みとどまったのは、加藤に『いい子で待ってて』と言われたことを思い出したからだ。  少なくとも加藤は今も、嫌がったり抵抗する様子はない。それどころか、こちらには聞こえないような声量で囁き合うように、雅弘と親しげに言葉を交わして、導かれるまま片手を雅弘の首の後ろに添えて、自分の方へ引き寄せるような格好をする始末だ。  加藤は嫌がっていない。俺に止める権利なんてない。分かっているのに、今すぐこの撮影をやめろと叫び出したくなる。ぐっと堪えて拳を握った。  ソファの上から、こちらを見た雅弘と目が合った。雅弘が俺の焦燥を見透かしたような笑みを浮かべる。 「……!」  雅弘は俺に見せつけるように、加藤の耳元へ近づいて、何か彼に囁いた。途端に加藤の顔が真っ赤に染まる。加藤は恥ずかしそうに、だけど雅弘を信頼して身を任せるように、意味ありげな視線で雅弘を見つめる。  痛いほど握った拳にまた力がこもってしまう。シャッターの音が鳴って、スタジオにフラッシュが光った。  すっかり夜も更けた時間に、会社へ戻ってくる。  帰りの車内の空気は最悪だった。今日一日の出来事で、加藤という先輩に抱いた処理しきれない感情で、俺の心はぐちゃぐちゃだ。  だが加藤は俺が無言でいることをどう受け取ったのか、「ちょっと変なところも見せちゃったけど、みんないい作家さんだから」とか、「最初は当たりが強いこともあるけど、時間をかければきっといい信頼関係ができると思うから」などと、前向きに俺を励まそうとしてくるのだ。  俺が悩んでいるのは作家との付き合い方ではない。自分の教育係がエロいことをされて喜ぶ変態ではないかということだ。見当違いにもほどがある。  加藤は自分が原因だなんてことは考えもしないのだろうか。それほど、加藤にとってはあれが日常の出来事ということなのか。  いらいら、もやもやと、胸を焦燥が渦巻く。オフィスへ戻って、自分のデスクについた後も仕事に身が入らず、今日の報告書類を書くのに手間取ってしまった。  隣に座って、チラチラとこちらを気にしている様子の加藤に腹が立つ。こんな風に人を気遣う、無害で優しい顔をしておきながら、内心では今も、エロいことを考えているんだろうか。あの漫画のキャラクターみたいに。  もしかして、俺にもそういう欲望を抱いていたら? 俺にエロいことをされる想像をしていたら……この人が、俺をそういう意味で求めていたとしたら。  ——だとしたら、俺も、今日会ったあの男たちのように、この人に触れてもいいのでは……?  たった今初めて思い立った結論に、ぎぎぎ、と錆びついたロボットのような動きで隣に座る加藤へ視線を向けた。  加藤は俺の視線に気づいて首を傾げた。あざとい。なんだその仕草。絶対狙ってやっている。絶対そうだ!  今日見た加藤の扇情的な姿が、次々と思い出される。その細い腰を抱き締めたいと思った。白い太腿を撫で回したかった。赤く尖った乳首に吸い付きたかった。  下半身がズクンと明確に熱を持つ。自分は性欲に乏しい人間で、一生童貞でも構わないなんて思っていた。しかしそんなことはなかった。俺はただ、自分が欲情できる対象にこれまで出会わなかっただけなのだ。  そして今、目の前に、初めて欲情した相手がいる。まるで俺のために存在しているみたいに。この人に出会うために、これまで俺は童貞を守り続けたかのように!  冷静になればおかしいと気づくようなことなのに、この時の俺は本気でそんなことを考えていた。緊張と興奮の中、俺は自分の意思とは無関係に、加藤へ向かって手を伸ばし、声をかける。 「せんぱ……」 「加藤くーん、ごめん、次の販促用POPのデータなんだけど、なかなか終わらなくて。ちょっと手伝ってくれない?」  だが俺の手が届く前に、俺と反対側で加藤の隣に座る男性社員が、加藤に話しかけた。両手を顔の前で合わせて、すまなそうにしているが、内心ではそんなこと思ってないのがバレバレだ。いくら殊勝な態度を取ったところで、人に仕事を押し付けようとしているのは明白である。 「大変ですね……もちろんいいですよ。データはどこですか?」  だが加藤はへらりと笑いながら、迷うそぶりもなくそれを引き受けた。男性社員は感激したように「ありがとう! さすが加藤くん!」と言って共有データの場所を説明している。  この人、まだ自分の仕事も残ってるのに、なに安請け合いしてるんだ。馬鹿なのか。 「あのぉ、加藤さん……」 「はい?」  俺が呆れていると、また別の方向から加藤を呼ぶ声がした。見ると斜向かいの席に座っている女性社員が、これもまたすまなそうに眉尻を下げて、加藤を見つめていた。 「すみません、私この後デートなんですけど……どうしても作家コメントのチェックが終わらなくて……」 「えぇ、大変だ。残りは俺がやっておくよ、もう上がりなよ」 「ありがとうございます‼︎」  まだ引き受けるのか⁉︎ いよいよ信じられない思いで加藤を凝視する。加藤は全く気にした様子はない。周りもこれが当たり前のような雰囲気だ。一体何が起こっているんだ。 「ごめん、加藤くん。実は……」 「はい?」 「まだ何かあるんですか‼︎」  またまた別の方向から声をかけられたので、堪らずそう叫んでいた。オフィスにいた誰も彼もがびっくりして俺を見ている。 「ゆ、雄大くん……?」  この驚いたような顔は今日何度も見てきた。何故俺が声を上げたのか分からない。本気でそう思っている顔だ。  完全に暴走していた思考が落ち着いて、冷静になってくる。そうだ。今、分かった。全部理解した。この人は……! 「ただ人の頼みを断れないだけのお人好しだ……!」 「え? え? なに?」 「陸さん!」 「はっ、はい!」  焦ってオロオロする加藤の両手を取り、ぎゅっと握り締める。今朝加藤から触れられた時には、距離の近い、苦手なタイプの人だと思ったその手に、今度は俺から触れた。  この人は危険だ。人の下心や悪意に鈍感すぎる。自分のことを顧みずに何でもかんでも受け入れて、放っておいたらきっとあっという間に潰れてしまう。 「俺があなたを守ります……!」 「え……?」 「だから安心してください。これからは、誰にもあなたをいいように使わせません。あなたが断れないことは、全部俺が断ります!」  使命感に燃えた俺は、高らかにそう宣言する。しばらく呆気に取られたようにしていた加藤は、やがて不思議そうに首を傾げながら口を開く。 「ええと、よく分からないけど……ありがとう……?」  恥ずかしそうにはにかむ加藤に、胸がきゅんとする。可愛い。なんだこのおじさん、可愛いぞ。  いや、おじさんではなかった。聖母だ。全てを包み込んで受け入れてくれる聖母的な存在。それが加藤陸だったのである。  この聖母のように神聖な存在である彼を、何が何でも守り抜かなければ。決意を新たに、俺は目の前の仕事を片付けるべく気合を入れた。まずはこれを終わらせて、既に引き受けてしまった彼の仕事を手伝うために。

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