2 / 2
第2話
初めて針乃の仕事場を訪れた、一週間後。
再び針乃との打ち合わせに出て行こうとする加藤に、俺も同行した。
「すみません、先にコンビニに寄ってもらえますか」
「コンビニ? いいよ、何か買いたいものでもあるの?」
「はい」
加藤の運転する車で先にコンビニへ寄ってもらい、その後、針乃の仕事場であるマンションに到着する。
針乃筵は、作画から仕上げまで全てデジタルで行う漫画家である。アシスタントとはリモートでやりとりしているらしく、仕事場にいるのは基本的に針乃一人だ。
そのため、打ち合わせと称して針乃が担当編集者である加藤を呼びつければ、必然的に二人きりになってしまう。前回のような針乃による加藤への無茶な要求は、おそらくこれまでに何度も繰り返されてきたのだろう。
だが、俺がいるからには、もう針乃の好きにはさせない。
玄関の扉を開けた針乃は、俺がついてきたことを知ると、あからさまに嫌な顔をして見せた。ざまあみろだ。
針乃に扉を閉められる前に、無理矢理室内に押し入って、両手に抱えたエナドリの袋を針乃の目の前にどさりと置く。
「針乃先生、お疲れ様です。これ、先生の愛飲しているエナドリです、どうぞ。じゃあ打ち合わせ始めましょうか」
ニッコリと笑って言う俺と針乃の間で、戦いの火蓋が切って落とされた。針乃は口の端を引きつらせて笑い、応戦する。
「困るなぁ新人クン、空気読んでもらわないと。前言ったこと忘れちゃったかなぁ?」
「忘れてません。あの時の言葉を撤回してください。陸さんはエロいことをされて喜ぶ変態ではないので、漫画のネタのためにセクハラを強要するのはやめてください」
「ゆっ、雄大くん……⁉︎ 何の話、それ⁉︎」
俺の後に続いて部屋の中に入ってきた加藤が、ぎょっとしたように目をむいている。俺と針乃がバチバチと火花を散らしているのを察し、困ったようにオロオロし始めた。
青年コミック編集部に配属されて一週間。この間に嫌というほど思い知らされたが、加藤は放っておくと、すぐに他人の無茶なお願いを聞いてしまう。
職場の編集者仲間なんて、面倒な仕事は全部加藤に押し付けてしまえばいいと思っているふしがある。俺が一緒にいる時は、あまりに理不尽だと感じる要求には「自分の仕事は自分でやってください」と突っぱねることができたが、そこまでしても、トイレや何やらで少し席を外している間に、いつの間にか加藤の机にはうず高く仕事が積まれていた。
だがもっと問題なのは、加藤の担当作家である。特にこの針乃と、新人の翔太、財前・雅弘コンビは要注意人物である。
この前のように使いっ走りをさせられてはたまらないので、こうして先手を打ち、コンビニに寄りエナドリを買い込んでおいた。これで買い出しは言いつけられまい。加藤と二人きりにさせるものかと、勝ち誇った笑みを浮かべる俺に対抗してなのか、針乃はニヤリと邪悪な笑みを浮かべた。
「あー、ごめーん新人くん、俺今飲んでるエナドリ、メーカー変えててぇ」
「は⁉︎」
「これじゃないんだよなぁ、買ってきてくれない? 近くのコンビニには売ってないから、駅前のスーパーまでよろしく♡」
スマホ画面をこちらへ向けて、針乃が言う。その画面には、今俺が買って来たものとは別メーカーのエナドリが表示されている。
クソ、ふざけるな。そんなわけあるか。明らかに俺を追い払うための嘘だろうが。腹立たしく針乃を睨みつける。
しかしその嘘を証明する手立てがない。俺に残された手段は、ただ一刻も早くこのエナドリを買って戻ってくることだけだ。
「エントランスを開けるための鍵を貸してください」
「ええ、渡せないよそんなの。セキュリティ上問題になっちゃうよ」
「いいから貸してください! そう言って、俺をエントランスで立ち往生させるつもりなのは分かってるんですよ!」
「チッ、まあいいか。はーい、いってらっしゃーい」
針乃が投げて寄越した鍵を受け取り、加藤と向かい合う。俺がものすごい形相で睨むので、加藤は何を言われるのかと身構えている。
「いいですか、陸さん。針乃先生に何を言われても、絶対、変な要求に応えちゃだめですよ」
「へ、変な要求って?」
「この前みたいなことです! とりあえず、服は脱がない! 触らせない! 分かりましたか⁉︎」
「はっ、はい!」
緊張した面持ちでぶんぶんと首を縦に振っている。加藤の反応を見て、ここまで言えば大丈夫だろうと、とりあえず安堵する。
最後に針乃を見ると、心底忌々しそうな顔をしていた。少し胸のすく思いがする。何でもかんでも針乃の思い通りとはいかなかったようだ。
「すぐ戻りますので!」
人生でこんなに全力疾走したことはないと思うくらい、急いでマンションを飛び出した。
最寄りのコンビニまでは徒歩五分。駅前のスーパーは徒歩十五分。全力疾走したおかげで、約半分の時間で到着したものの、着いた頃には息も絶え絶えになってしまった。そこから重いエナドリを抱えてマンションへ戻る道のりは、急いだつもりでも二十分もかかってしまった。
加藤は無事だろうか。不安に駆られながら、針乃から預かった鍵でエントランスを抜ける。
「戻りました‼︎」
玄関の扉を開けて、家の中に加藤と針乃の姿を探した。仕事部屋には誰もいない。またこのパターンである。
俺はすぐにエナドリの買い物袋を置いて身を翻した。この前と同じ、仕事部屋の奥の部屋。スチールラック等が置かれた物置部屋を目指す。
——そこには。
「あ……っ、針乃せんせぇ、これ、もう外してくださ……っ」
「いやいや、まだまだ。これからですよ陸さん! 今ちょうどイメージが降ってきてるところなんで!」
「でも……っ、ん、あぁっ!」
確かに、服は脱いでいない。針乃に触れられてもいない。
だが前回と同じように、目隠しで両手を拘束された加藤は、その両胸と股間部分に服の上からピンク色のおもちゃを貼り付けられていた。
ヴヴヴ……と振動音を鳴らして小刻みに震えるそのおもちゃの刺激で、加藤は必死に身を捩っている。両手はスチールラックの中ほどに繋がれ、ちょうど膝をつける程度の高さ。膝立ちの加藤の体は、快感にビクビクと震えている。
あまりにも扇情的な光景に、また、俺の下半身がズンと重くなる。股間に熱が溜まるのが分かる。
……だから、ほんとに! なんで!
「何やってんですか‼︎」
「ゆ、雄大くん……!」
目隠しをされた加藤が、俺の声を聞いてホッと安堵したように見えた。だが次の瞬間、また振動に襲われて、んぁっと艶めかしい嬌声を上げる。
少し離れた場所で加藤の痴態を見ていた針乃が舌打ちをした。
「思ったより早かったな……」
「何ですかこれは、何やらせてんですか! 本当にセクハラで訴えますよ‼︎」
勢いよく針乃に詰め寄るものの、やはり針乃はヘラヘラと悪びれもしない。
「いやぁ、ちゃんと新人くんの言いつけは守りましたよ? 服も脱いでないし、触ってもいないし、何なら陸さん、おもちゃだって自分でつけたし」
「何してんですか陸さん‼︎」
「い、いや、だって、これなら雄大くんに禁止されてないって言うから……」
「禁止されてなくてもダメです‼︎」
「はっ、はい! んぁぁ……っ」
話している間にもおもちゃが振動している。早く外してやらなければ。加藤に近づこうとした時、針乃がこれみよがしな溜息をついた。
「はぁーあ、新人くんのせいで萎えるわ〜、次の話描けっかな〜、いっつもモデルになってくれた陸さんがいなきゃ、話のアイディア浮かばないんだけどな〜」
針乃の言葉に、加藤がビクリと反応する。
「ん……っ、雄大くん……待って……! 先生のアイディアが浮かぶまでは……! あっ、あぁっ!」
「はぁ⁉︎」
加藤の突然の使命感に、呆気に取られてしまう。針乃は言質を取って嬉しそうに笑っている。
「ほら、聞いた? 新人くん。陸さん、嫌がってないだろ? むしろ自分からしてくれって言ってるし、ここでやめたら可哀想じゃない?」
「あぅ……、あっ、ん、くぅっ」
加藤は目隠しされてもなお分かるほどに顔を真っ赤にして、だらしなく開いた唇から可愛らしい嬌声を漏らしている。汗ばんでしっとりと肌に張り付いたシャツが色っぽい。背中を逸らし、腰を前に突き出して、膨らんだ股間の上で振動するおもちゃの刺激に、さっきからもどかしそうに体を揺らしている。
カラカラに渇いた喉を、ゴクリと鳴らす。どうする、どうすればいい。本人が待ってほしいと言っているなら、待つべきなのか。このまま、エロすぎる加藤さんを見ていたとしても、本人の意思なら、誰にも責められないのでは……⁉︎
「あ、あっ、あぁ……! ゆ、雄大くん……! あぁんっ」
助けを求めるような声で俺を呼ぶ彼に、下半身が痛いくらい熱を持って反応した。なんと俺は今、勃起していた。性欲なんて生理現象としてたまに義務的に処理するくらいで、誰かに明確に欲情したことのない俺が、だ。
エロい。エロすぎる。そりゃここまでエロければ創作意欲も掻き立てられるだろう。本人も気持ちよさそうだし、自分から望んでこうしているなら、止める義理なんて俺にはないのかもしれない。
——でも!
「ダメなものはダメです‼︎」
「チッ、ダメか……」
俺は今、きっと一生分の理性を使い切った。頼むからこれ以上、俺の理性を試すようなことをしないでほしい。
急いで加藤の体からおもちゃを外して、拘束をほどいてやる。アイマスクを外すと、その下から加藤の蕩け切った顔が現れた。
「はぁ……ゆうだいくん……」
「……っ!」
涙で濡れた目、紅潮した頬、やっと解放された安堵から俺に身を預けるように寄りかかってくるその仕草。使い切った理性を早速また振り絞る時が来てしまった。耐えろ俺、耐えろ俺……!
「イイ顔、これは捗る……! ありがとうございます陸さん、次の話もイケます!」
針乃のうきうきとした声に苛立ちながら、言い返す余裕もなく、俺は頭の中で枕草子を唱えた。
針乃の仕事場を後にして、昼食のために飲食チェーン店に入った。食券購入スタイルの牛丼屋である。
「ごめん、雄大くん……まだ怒ってる?」
テーブル席について注文品を待つ間、恐る恐るというように加藤が尋ねてきた。俺は顰めっ面のまま答える。
「怒ってます」
「ご、ごめん……針乃先生に、どうしてもって頼まれて、つい」
「………」
目の前で両手を合わせ、申し訳なさそうに謝る加藤は、可愛い。何でも許してしまいそうになる可愛さだ。
だがそもそも、加藤を許す許さないの話ではない。俺は大きく溜息をついて口を開いた。
「怒ってると言っても、陸さんに怒ってるわけじゃないです」
「へ……?」
「全然懲りない針乃先生と、守るって言ったのに守れなかった自分に対してなので、気にしないでください」
頼まれたらイヤと言えない、加藤の性格はこの一週間でよく分かっている。オフィスでも外回りでも、加藤ときたら俺が少し目を離した隙に、すぐホイホイと他人の面倒ごとを引き受けてしまうのだ。おちおちトイレにも行けやしない。
だからこそ、先ほどの針乃の仕事場で、またしても針乃の暴走を食い止められなかった自分が不甲斐ない。悪いのは加藤ではなく、加藤へのセクハラをやめない針乃と、守りきれなかった俺である。
注文した牛丼セットが運ばれてきた。割り箸を割って早速食べようとする加藤へ話しかける。
「いい機会なので、はっきりさせておきたいんですけど」
「うん?」
「陸さんは、あんな風にエロいことをされるのが、嬉しいタイプの人ですか?」
「ぶっ!」
話しかけたタイミングが悪かったのか、加藤は今口に入れたばかりの牛丼を盛大に吹き出した。
「なっ、な、何それ……⁉︎」
「いえ……陸さんが喜んでるなら、俺に止める権利はないと思ったので……」
「別に喜んではないよ⁉︎ ないけど……!」
「けど?」
「〜〜〜っ」
加藤は口を押さえて真っ赤になってしまった。恥ずかしそうに視線を逸らす様子が可愛い。なんでこんなにいちいち可愛いんだろうか。おじさんなのに。
しばらくして、大きな溜息をつくと、加藤は持っていた箸を置いて話し始めた。
「雄大くんは、ずっと編集業を希望してたんだっけ」
「はい」
「そっか。本は好き?」
問いかけてくる加藤の顔が、さっきまではただただ可愛かったのに、今は年相応に優しく包み込むような笑顔に変わっていて、ドキリとした。
何もかも委ねてしまいたくなるような包容力。まさに聖母である。
気づけば、俺は正直に頷いていた。
「はい。子どもの頃から、本が好きで、同級生からは本の虫って呼ばれてました」
「え! そうなの? すごい、俺とおんなじだ」
「陸さんもですか?」
「うん。俺の場合は親からだけど。あんまりにも本が好きだから、そのうち本当に本を食べ出すんじゃないかって、心配されたくらい」
二人の共通点を見つけて笑う加藤の笑顔が眩しくて、俺も嬉しくなる。
「本ってすごいよね。紙の上に書かれた絵や文字で、さまざまな世界を表現できるんだから。笑ったり、泣いたり、人の心を動かすような、色んな世界がさ」
話しながら、加藤は愛おしげな表情で自分の手元を見つめて、本のページを捲る仕草をした。「まあ、今は電子書籍で読む人も増えたけど」と笑って付け足した。
「とにかく、俺は本が大好きなんだけど、その中身を作る才能は、俺にはなかったから」
「陸さんは、作家になりたかったんですか」
「むかーしね。うちにはワープロもパソコンもなくて、原稿用紙に手書きで書くしかなかったぐらいの学生時代に、何度か新人賞に応募しただけだよ」
恥ずかしそうに頭を掻く加藤も、やはり可愛い。作家志望だった頃の、彼に会ってみたいと思った。どんな学生だったのだろうか。
「人の心を動かすようなものを生み出せるって、すごいことだよ。作家さんたちは、みんな、本当にすごい。だから、そんな人たちの創作のお手伝いができるのが嬉しくて。俺なんかで役に立つなら、何でもしてあげたいなぁとか、思ったり……してるんだけど……」
話の終わりに、加藤は言い淀むと、ちらりとこちらを窺うような視線を向けてくる。
「……陸さんの気持ちは分かりました」
「そ、そっか。よかった」
「でも、セクハラ容認はダメです」
「そっ……そうだよね、うん。俺も、恥ずかしいし、できればやりたくないんだけど」
「けど?」
顔を真っ赤にした加藤は、うぅ〜と可愛い唸り声を上げた後、両手で自分の顔を隠し、弱々しく答える。
「俺にしか頼めないって言われると……なんか、じゃあ俺がやらなきゃ! って」
困ったようにそう言う加藤を見て、俺は真剣に頷いた。
「分かりました。やっぱり、陸さんに無茶なことを言う周りが悪いってことですね」
これではっきりした。やはり一連の行為は、加藤の人の良さと責任感を利用した、周りの人間たちによる搾取だということが。
加藤を守れるのは俺しかいない。俺がしっかりしなければ!
「でも、針乃先生、俺にあんなことさせて、何のネタになるんだろう。いつもよく分かんないんだよなぁ」
話が終わり、再び箸を持って食事を始めた加藤が、心底不思議そうにぽつりと呟く。
「もしかして、陸さん、自覚ないんですか?」
「へ? 何の?」
「……何でもありません」
加藤は針乃の漫画の主人公、静香のモデルが自分であることに気づいていないらしい。ショックを受けるかもしれないので、黙っておくことにした。
それから数日後。
今日は二人目の要注意人物である、翔太の自宅に来ていた。ここ数ヶ月かけて、加藤と打ち合わせを重ねながら描いていた漫画のネームが完成したらしい。
デビューもまだの新人の自宅まで、忙しい中わざわざ時間を割いて打ち合わせに来るほどの才能が翔太にあるのかは、未だに疑問だ。加藤が翔太を見つけたという郵送投稿の原稿を見たが、確かに今時珍しいアナログ原稿で、繊細なタッチの目を引く美麗なイラストを描くものの、肝心の物語のほうは、些かまとまりを欠いていた。人の内面を詳細に描きたいという作家の意図は伝わるが、それゆえ冗長な表現が多く、描きたいものの取捨選択や、物語の構成が苦手な作家という印象である。
そんな厳しい感想を抱きつつ、翔太の家のちゃぶ台を囲んで俺と加藤、翔太が座り、加藤に続いて俺も翔太の完成ネームを読んでいた。
「……!」
その内容に、息を呑む。物語の大筋は会社で読んだ翔太の郵送投稿と同じだが、驚くほどに内容が整理されていた。
元の原稿では現代だった舞台が中世ヨーロッパ風に変更されていたり、流行りのジャンルが取り入れられていたり。読むだけで自然と書店の分類棚や販促POPが思い浮かび、電子書籍のタグ付けが思いつくような、上手い変更である。
その上で物語の展開自体は変わっておらず、おそらく翔太のやりたかったこともちゃんと内包されていた。繊細な心理描写はそのままに、しかし冗長すぎる表現が削られて、読み手にストレスを感じさせない。
単純に面白いのもそうだし……——なによりこの世界観は、おそらく翔太の美麗なアナログイラストと相性がいい。今はまだネームなので簡略化されているが、これが実際の原稿となり、紙に印刷されたときのことを想像する。繊細な線の一つ一つ、紙とインクの匂い、雑誌を捲るたびに現れる美しい情景。それだけで、一つの芸術と呼べるのではないかという期待感があった。
たった数ヶ月で、どこをどうすればあの原稿からこのネームが生まれるのか……信じられない思いで、目の前の加藤と翔太を見る。
「うん、すごくいいよ、翔太くん! このネームでいこう。きっと編集長にも気に入ってもらえると思う」
「本当ですか……! よかった……!」
加藤の言葉に、翔太は長い前髪の奥でパァッと顔を明るくする。
「雄大くんも、いいと思うよね」
「……そうですね」
素直に俺が答えると、翔太はビクリと肩を跳ねさせて「ひぃ……」と怯えたような声を上げ、ぶるぶると震え出した。人見知りの翔太はまだ俺に慣れていないらしく、何を言ってもこの反応である。
悔しいが、翔太の才能は本物だったというわけだ。そしてそれを見抜き、ここまで導いた加藤の編集力もまた、本物である。
「あの、じゃあ俺、いよいよデビューできるんですね……⁉」
「ええと……きっと大丈夫だと思うけど、掲載枠がもらえるかどうかは、編集会議に出してみないと分からないから、まだ確定じゃないけど……」
「会議……⁉」
情緒が不安定な翔太を気遣ってか、かなり言葉を選んで加藤が事実を伝えるが、一度希望を抱いてしまったらしい翔太はその言葉で一気に不安になりガタガタと震え出した。
「そんな……! 俺なんかの話を、そんなたくさんの人に……⁉ 絶対無理だ、気に入ってもらえるわけない。どうせ、俺みたいな社会の最底辺のクズが、何描いても面白くないって笑われるだけだ……!」
「だ、大丈夫だよ翔太くん! 俺が保証するよ。君の漫画は、これからたくさんの人に認められるよ」
「無理です……無理無理。社会不適合者にデビューなんて夢のまた夢だったんです……うぅ……どうしよう、つらい。明日が見えない」
「翔太くん、落ち着いて! 気をしっかりもって!」
加藤は膝を抱えてしくしくと泣き出した翔太を励ましながら、翔太の丸まった背中をよしよしと撫でている。これでは編集者ではなく保護者である。
翔太はおそらく二十代前半、加藤から見れば子どものようなものなのだろうか。だからそんなに無警戒に近づいてしまうのか。この後の展開なんて分かりきっているというのに。
「陸さん……つらいです、慰めてください」
「翔太くん……」
「あの、翔太さん。陸さんの胸をまさぐるの、やめてもらっていいですか」
翔太は縋りつくように加藤に伸ばした手で、図々しくも加藤の服の上から加藤の胸板を撫で回していた。冷静に指摘する俺の言葉に、またビクッと肩を跳ねさせて震えながらも、その手が引っ込むことはない。こいつ、絶対わざとやってるだろ。
「陸さん……! あ、あの人怖いです……きっと俺を大した漫画も描けないクズだと思ってるんだ、だからこんなこと言って虐めるんだ……!」
「翔太くん、雄大くんはそんなこと思う子じゃないから、大丈夫だから!」
「大丈夫じゃないです、陸さん、いつものください……! 陸さんのおっぱいがないと俺、生きていけない」
「わ、分かった。俺でよければ」
「陸さん、騙されないでください! ……おい、シャツを捲るな!」
すっかり翔太に言いくるめられて真剣な顔で頷いてしまう加藤、俺の言葉に怯えて加藤の背中に隠れながらも、背中から加藤のシャツを捲ってしっかりその中に手を入れる翔太。この状況でそこまでできる図々しさがあれば、十分生きていけるだろう。やはり翔太の態度は全部演技に違いない。
「ゆ、雄大くん。ちょっとだけ許してあげて。ほら、翔太くんも少し触ったらすぐ気が済むと思うから」
「陸さん、なに甘やかしてるんですか。絶対騙されてますよ」
「いや、そんなわけ……んっ、ぁ……こ、こら翔太くん。変なとこ触らないで……んぅっ」
背中から伸びる翔太の手が、加藤のシャツの中でもぞもぞと動いているのが分かる。胸板あたりを揉むように動き、指先がその中心を擦るのが分かった。動きに合わせて、加藤は体をビクンと震わせ、嬌声を上げる。
立ち上がって翔太を引きはがそうとした自分の下半身に、ズクッと重い衝撃が走った。……クソ、また勃起している。シャツの中で何をされているのかはっきりと分からないのに、動きだけで感じて加藤が顔を蕩けさせていくのが逆にエロい。その表情や反応に、視線が釘付けになってしまう。
今ここで立ち上がったら、俺の下半身まで勃ち上がっていることが加藤にバレてしまうだろう。それはものすごく避けたい状況だ。そう思って、行動が遅れてしまう。
「ぁ、ん、翔太く……っ、あ!」
「はぁ、陸さん……落ち着きます……陸さんのおっぱいは癒しの根源……世界平和はここにある」
「何言って……んんっ! つ、摘ままないで! あぁっ」
翔太の手で膨らんだ胸板を突き出し、体を逸らして、ビクッと大きく加藤が震える。そのままガクガクと痙攣した後、加藤は涙目で俺を見つめ、助けを求めるように俺を呼んだ。
「ゆうだいくん……!」
「っ、いい加減に、しろ!」
加藤が助けを求めているというのに、何を躊躇っていたのか。ハッとして立ち上がり、二人を引きはがす。ちなみに股間もしっかり勃ち上がっている。
俺が睨みつけると、翔太はまた怯えたように飛び跳ねて部屋の隅へ逃げて行った。体を丸めてぶるぶる震えている翔太を無視して、その場に崩れ落ちてしまった加藤を抱き起こした。
「大丈夫ですか⁉」
「うん、だいじょーぶ……だいじょうぶ」
頬を紅潮させ、荒く呼吸しながら、加藤はいつものようにへらりと笑っている。また守れなかった……悔しい思いで、俺は部屋の隅にいる翔太を睨みつける。
「雄大くん、あんま、怒んないであげて……俺がいいって言ったから」
「陸さん、でも……」
加藤は体を起こして、乱れたシャツを軽く直すと、部屋の隅で震えている翔太の元へ近づいていく。
「翔太くん……君のネームは、間違いなくいい作品だから。もし、編集会議で掲載が決まらなかったとしたら、それは、俺の編集者としての力が足りなかっただけで、君のせいじゃないから」
「陸さん……!」
さっきあんな目に遭ったのに、それでも加藤は翔太を気遣い、そんな言葉をかけている。加藤の背中を見ながら、悔しいような、腹が立つような、処理できない感情でぐっと拳を握った。
「だから、自分を信じて待ってて。君の作品を世に出せるように、俺も頑張るよ」
「陸さん……ありがとうございます……!」
翔太は感激の涙を流しながら、加藤に手を伸ばし、抱きついた。加藤は嫌がるでもなくそれを受け入れ、優しく翔太を抱き締め返している。まるで聖母のように。
「………っ」
胸の中を、苦い感情が満たしていく。数日前に聞いた、加藤の言葉が思い出される。
——俺なんかで役に立つなら、何でもしてあげたい……。
翔太はまだデビューしていないが、加藤にとっては、翔太も自分が献身を捧げるべき、尊敬する作家の一人なのだろう。
俺は理解する。加藤を守るためには、自分の頑張りだけでは無駄だということを。
守られる加藤がこちらへ手を伸ばさなければ、その手を掴むことはできないのだということを。
さらに数週間が経った。俺が青年コミック編集部に異動して、そろそろ一ヶ月になる。
オフィスでパソコンに向かい、画面に表示されたデジタル原稿のチェックを進める。不要な線や描き残しがないか、トーンの抜けや画像の不備がないかといった原稿上のミスの他、内容についても、法的・倫理的に問題となる表現がないかを、編集者の目で確認する重要な業務である。
まだ新人の俺が一人でこの作業を任されることはない。俺が確認した後、教育係である加藤も同じ原稿を確認して、最終的な修正指示をまとめて作家へ送ることになる。
原稿データを確認し、修正が必要と思われる場所にコメントやマーカーを入れていく。何度もページを行き来しているうちに、だんだんと視界がぼやけてきた。一度画面から視線を離して、掛けていた眼鏡を外し目頭を押さえる。疲れた目元をほぐしていると、後ろから伸びてきた誰かの手が俺のデスクにコーヒーカップを置いた。
後ろを振り向くと、そこには加藤が立っていた。
「お疲れさま、雄大くん。少し休憩したら?」
「……ありがとうございます」
加藤が用意してくれたコーヒーを手に取る。温かいコーヒーには、ミルクと砂糖が入っているようだ。一口飲むと、優しい甘さが口の中に広がった。その甘さが、俺を気にかけてくれた加藤の優しさのようで、じわりと体に染み渡る。
隣の席に座った加藤も、コーヒーを飲んでいる。オフィスの中は、ちょうど二人きりだった。昼下がりの傾いた日差しが差し込む室内は静かだ。加藤がコーヒーを啜る音だけが、控えめに響いている。
「雄大くん、最近少し、元気ないね」
ふと、加藤が話しかけてくる。隣を見ると、こちらを気遣うような目で加藤も俺を見ていた。
「何か、悩み事?」
「いえ……」
言葉を濁して、目を逸らす。
悩みはあった。けれど、加藤には相談しづらいことだった。
これまで、活字を好むが故にほとんど漫画を読んでこなかったが、この部署に異動してから勉強のために、まずは自分が配属された部署から出ている雑誌の漫画を読んでみた。
内容だけではない。連載開始時期や当時の流行、作家の経歴、社内資料に残っている歴代の担当編集者まで調べ、なぜこの作品が生まれたのかを、自分なりに考えた。
その過程で、加藤がこれまでの編集人生で、担当作品を複数ヒットさせていることが分かったのだ。
加藤は、無から有を創造する作家という職業を、心から尊敬している。彼らに寄り添い、献身する姿を見ていれば、それが加藤の生きがいなのだとすぐに分かった。
加藤が担当作家のセクハラまがいな要求を受け入れてしまうのも、根底にはその信念がある。悩みの一つは、果たして俺はそこまで作家に寄り添うことができるだろうかという、自分の編集者としての素質に対する疑念だ。
そして、もう一つは——。
ただ、自分が、『誰にも加藤を消費されたくない』という理由で、彼の信念を曲げてまで守ろうとすることが、本当に正しいのかという疑問だった。
何も言わない俺を見ていた加藤は、「ごめん、話したくなかったらいいんだ」と前置きして、独り言のように話を続けた。
「雄大くんは、まだ異動して一ヶ月だろう。自分がそのくらいの時って、何となく不安になったり、俺ってこの仕事向いてないのかなぁとか思って、悩んでたから。雄大くんも、もしかしてと思ったんだけど」
「陸さんが?」
「うん」
加藤は恥ずかしそうに自分の頭を掻く。
「異動してすぐは、作家さんと全然上手くコミュニケーションが取れなくて、空回ってばっかりで。何にも上手くいかなくてさ」
「……想像できません」
「そうだろう。だから、続けていたら、何とかなるもんなんだよ。信頼って、すぐに芽生えるものじゃないから。時間をかけて、少しずつ少しずつ、育っていくものだからさ」
言葉を選びながら、ゆっくりと優しい口調で、俺を励まそうとする加藤の優しさが伝わってくる。本当に、この温かいコーヒーのような優しさだと思った。体の芯まで染み渡って、その温もりに涙が滲むような。
胸がぎゅうっと、締め付けられるように苦しくなる。俺はもう分かっている。自分を性愛に興味のない人間だと思っていたが、それは間違いで、ただ性愛の対象となる存在に出会っていなかっただけだということ。この人が、加藤陸こそが、俺が人生で唯一自分の全てを捧げたいと願うような存在であるということを。
これがもし創作の一節なら、きっとこう書かれている——つまり、佐藤雄大は加藤陸に恋をしていた。人生で初めての恋だった。頼まれれば嫌とは言えないそのお人好しな性格。相手の長所も欠点も何もかもを包み込むような優しさ。見る人全てを惑わすような、その蠱惑的な魅力の全てまで。初めての恋に身を焦がす十代の若者のように、愛しいその人、加藤陸を、己の唯一にしたくて堪らなかったのだ——と。
……俺が加藤を守りたいと思ったのは、正義感だけではない。ただの独占欲である。
針乃や翔太と、本質的には変わらない。俺も加藤に触れたいと思っているし、淫らな表情を引き出したいと思う。ただ、そんな姿を自分にだけ見せてほしいという違いだけだ。
こんな俺に、加藤と作家たちとの関わり方を正すような資格は、本当にあるだろうか。
「……なんて、今のセリフは、俺が落ち込んでた時に、ある人から言ってもらったことなんだけど」
加藤の言葉で、意識が現実に引き戻される。今考えることではない。自分を心配してくれる加藤の話に集中しなければと、様々な思いを頭から追い払った。
「そうなんですか?」
「うん。他人の受け売り。偉そうにごめん」
加藤はまた、恥ずかしそうに笑う。加藤の笑顔を見ていると、少しだけ気持ちが軽くなるような気がした。
……今はまだ、自分の気持ちを整理して伝えることはできないけれど。でも、もしこんな俺でも、彼に恥ずかしくないくらい、自分の仕事に自信を持てるようになったら。
そうしたら、堂々と伝えられるだろうか。『俺なんか』なんて、二度と言わないでほしいということ。あなたを大切に思う俺のために、もっと、自分を大切にしてほしいということを。
「そのセリフは、誰に言われたんですか。陸さんの教育係をされていた方ですか」
「ううん。でも、雄大くんも知ってる人だよ」
「俺も……?」
俺も知っている人で、加藤が新人編集者のころに、そんな言葉をかけられた人物。今、この部署にいる先輩たちだろうか、もしくは……。
加藤は笑ってその人物の名前を教えてくれた。答えが分かった瞬間、俺の胸はさっきよりずっと苦しく、今にも悲鳴を上げそうな痛みで締め付けられた。
財前という大御所漫画家とは、基本的にリモートで打ち合わせをしている。原稿も、アナログで作成したものをデータ化して送られてくるので、わざわざ編集が仕事場へ足を運ぶ必要はほとんどない。
余程大事な打ち合わせか、或いは……。
五月の半ば。財前に呼び出されて彼の仕事場へ向かう加藤に同行した。
到着するなり玄関に仁王立ちして俺たちを迎え、すぐに撮影スタジオへ入れと急かす財前へ、勇気を出して話しかける。
「財前先生」
「……なんだ、お前は」
白髪まじりの太い眉を顰めて俺を睨む。これまで全く目に入っていなかったが、話しかけたことでやっと財前は俺を認識したような態度だった。
「佐藤と言います。現在、加藤の業務に同行しています。よろしくお願いします」
「……ふん」
頭を下げるも、財前は全く興味がないというように鼻を鳴らしただけだった。その態度だけで、俺を取るに足らない相手だと考えているのが分かった。
かなり手ごわい相手だ。恐怖心がないわけではない。しかし、それでも……意を決して頭を上げ、口を開く。
「あの、ポーズモデルの件ですが」
財前はその太い眉を、片方だけ釣り上げて訝しげにこちらを見た。
「ゆ、雄大くん……?」
加藤には事前に何も相談していない。一体俺が何を話し始めるのかと、困惑している加藤の姿が目に入った。
財前は、対面で話す必要があるような重要な打ち合わせか、もしくは加藤にポーズモデルを依頼したい時に、加藤を呼びつけている。今回もそれだ。
漫画編集者としては、作画に協力できるという点でギリギリ業務の範囲ではある……が。それでも。それが加藤でなければいけないという理由はないはずだ。
「モデルが必要であれば、こちらが手配しますので、今後は加藤ではなくプロの女性モデルを起用されてはいかがでしょうか」
「雄大くん⁉」
加藤がぎょっとしている。財前の顔も険しくなった。しかし、間違ったことは言っていない。財前の機嫌を損ねないように、言葉を選びながらも、俺は続ける。
「先生の作品を拝見しました。加藤が撮影に協力しているポーズは、女性キャラクターのものですよね……加藤では、女性の骨格へ描き直す手間がかかるのではないでしょうか。女性モデルであれば、その手間を省くことができます」
「断る!」
悩む時間もなく、財前は即答した。腕を組んで鼻息荒く、言い返してくる。
「女性モデルでは務まらん。儂は陸でしか描かん」
「は、しかし……」
「その辺の女性モデルより、陸の体のほうがエロい!」
「先生⁉」
驚いて声を上げたのは加藤だった。加藤も初めて聞く発言だったらしい。何言ってんだこのエロジジイ、正気か。加藤のほうがエロいことには百パーセント同意するが、何が作画資料だ、完全に不純な動機じゃないか。
「くだらんこと言ってないで、さっさと準備せんか! 雅!」
「はいはい」
仁王立ちの財前の後ろから現れたのは、雅弘だ。彼の登場に、財前を前にした時よりよっぽど緊張して体が強張るのが分かる。
足音を荒げてスタジオへ消えていく財前を見送ると、残った雅弘が仕方なさそうにこちらへ近づいてきた。
「全く、ヒヤヒヤさせないでくださいよ、佐藤さん。財前先生、一度へそ曲げると長いんだから」
「ま、雅くん。雄大くんは、俺を心配してくれてるんだよ」
慌てて加藤が取り成そうとしてくれる。雅弘は笑っているのに、その糸目の奥から俺を見る視線は冷ややかだ。新人が余計なことをするなと、その視線が語っている。
「まぁ分かりますけどね。だいじょーぶですよ、そんな心配しなくても。漫画の参考にするだけ、変なことには俺が使わせませんから」
「そ、そうそう! 雄大くん、大丈夫だよ! 財前先生は他の先生たちとは違うから! 俺自身に変なことはしないから!」
だが加藤がそう言ってフォローを入れた瞬間、雅弘のその冷たい視線は加藤へ向くことになった。
「他の先生って?」
「あっ、いや!」
それまでの軽快な口調を潜めて、どことなく圧を感じる口調で雅弘が加藤に尋ねる。
加藤は今の言葉をもう冗談だとは誤魔化せないような空気を察すると、雅弘から気まずそうに視線を逸らした。
「陸さん、まーた変なのに絡まれてるんすか」
「いやいや……違うよ。雅くんが考えてるようなことじゃないよ」
「どうだか」
溜息をつきながらも、雅弘は加藤を見つめるその視線の険しさを緩める。仕方ないなと、慈しむような目で見た後、いつかのように加藤の片手を取って彼をエスコートした。
「じゃあ、行きましょっか。……新人くんも。今度は大人しくしててくださいよ」
笑いながら、しかしあからさまな牽制をこめて、雅弘は言う。
……四谷雅弘。元々は漫画家志望、現在は財前のアシスタント兼、アダルトコミック作家。
新人編集者だった加藤を励まし、その言葉を引用して俺を励ますほどに、今なお強く加藤の心に居座り続ける男である。
ともだちにシェアしよう!

