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第3話 - 2
道が混んでいたせいで移動に時間がかかり、財前の仕事場に到着した時間は、約束の十七時を十分過ぎていた。
「遅い‼︎」
「すみません!」
いつものように開口一番遅刻を咎められ、体を九十度に折り曲げて頭を下げる。
「さっさと始めるぞ、雅!」
「はいはーい」
撮影スタジオへ向かっていく財前と入れ替わりに、雅弘がやってくる。雅弘は細い目をますます細めて微笑みながら、俺に話しかけてきた。
「こんばんは、陸さん。今日は佐藤さんは?」
「雅くん、お疲れ様。雄大くんは、体調不良でお休みなんだ」
「あらら。慣れない仕事で頑張り過ぎちゃいましたかねぇ」
「うん……あっ、あの、雅くん。撮影の前に、お願いがあって」
「はい、何ですか」
俺は胸元に抱えている仕事用の手提げ鞄を、両腕でぎゅっと抱き締めるように抱え直した。
こんな持ち方をしているのには理由がある。だいぶ恥ずかしい理由だ。顔が赤くなるのを自覚しながら、ニコニコと笑っている雅弘にそっと近づいて、内緒話をするようにヒソヒソと話しかける。
「ごめん、撮影用の服と……あと、絆創膏があったら、貸してもらいたくて」
「いいですけど……どこか怪我したんですか」
「う、うん……まあ。そんな感じ」
言葉を濁して答える。さっき翔太が散々舐めしゃぶったおかげで、俺の服はインナーウェアまで唾液で濡れてしまって、まだ完全には乾いていなかった。絆創膏は、興奮した翔太にいつもより強めに弄られたので、ヒリヒリジンジンと痛む乳首の保護のため。
今も熱を持って痛むその場所を意識しながら、もう一度鞄を抱え直すと、雅弘はニコニコ顔を引っ込め、こちらを探るような目でじっと俺を見つめた。
「ま、雅くん……?」
「……じゃ、ちょっと待っててください。先生にも一声かけてくるんで」
しかしすぐにまた笑顔に戻って、雅弘が言った。ホッと安堵のため息をつく。よかった、一瞬、何に使うのかバレたかと思った。
「うん、ありがとう」
財前の仕事場には簡易シャワールームがある。泊まり込みで原稿制作する時に、財前やアシスタントが使用するためのものだ。
脱衣所に入って服を脱ぐ。さっきから痺れるような痛みを持つ乳首は、やはり布が擦れて傷ついたのか、少し赤くなっていた。
「ん……っ」
痛いのに、それが少し気持ちいいなんて、まるで変態みたいだ。自分で自分に恥ずかしくなりながら、これ以上乳首に刺激を与えないように絆創膏を貼る。
……なんだか、逆に違和感があって、モゾモゾするけれど、ないよりはマシだ。ひとまずこれでいこう。雅弘が用意してくれた薄手のタンクトップを上から着込んだ。
このタンクトップは雅弘のものだろうか。体の小さな自分には、少し大きい。あまり動くと隙間から絆創膏が見えてしまいそうだ。気をつけなければ。
撮影スタジオへ入ると、財前は既に準備を終え、腕を組んで俺を待っていた。
「遅いぞ、陸!」
「すみませんでした!」
もう一度頭を下げ、慌ててセットの中に入る。横に控えていた雅が、財前の指示を聞いて俺に伝えにきてくれた。
「じゃあ、陸さん。最初はソファに座って、脚を組んでください。肘掛けにもたれて、もう少し気だるそうに……」
雅は大体のポーズを言葉で指示しながら、細かな位置の修正をしてくれる。腰のくびれを見せるような捻り、組んだ脚の傾きや、つま先の角度まで。素人の俺が作画資料に使用できるほどのポーズが取れるのは、一重に雅弘のおかげである。
最後に雅弘は俺の顎を掴むと、くいと上に持ち上げて、俺の目線を自分の方へ向かせた。
「この角度、つらくないですか?」
「うん、大丈夫だよ」
「じゃあ、そのまま。つらかったら俺に合図してくださいね」
「ありがとう、雅くん」
雅弘も雄大と同じように、人を気遣う心を持った優しい青年である。出会った頃からずっと、その優しさに助けてもらってばかりだ。
俺が笑うと、雅弘も優しく微笑んで、カメラの画角外まで離れていった。
カメラのシャッター音が鳴り始め、フラッシュが光る。こうして財前のポーズモデルを務めるようになって、どれくらい経っただろうか。
財前は、俺が編集部に配属され、一番最初に担当することになった作家である。気難しい財前の編集担当は長く続くことの方が珍しく、俺が入った当時も前任が飛んでしまった直後で、異例の担当不在となっていた。当時の編集者たちがお互いに押し付けあった結果、新人である俺に貧乏くじが回ってきたというわけだ。
どうせ文句を言われるなら経験の浅い新人の方が、こちらも言い訳が立つだろう、という目論見があったんだと思う。案の定、当初の俺は何をするにも経験不足で、段取りも悪く、財前にけちょんけちょんに詰られた。お前なんかに儂の担当は務まらん、さっさと編集長に辞表を出してこい、とまで言われた。
さすがに落ち込んだ俺は、この仕事に向いてないのかもしれない、財前の言うとおりやめた方がいいのかも、なんて考え、かなり深刻に思い悩んでいた。
そんな時だった。当時財前の元でアシスタントをしていた雅弘が、優しく俺に声をかけてくれたのだ。
『あーあ、言われちゃいましたねぇ。陸さんでしたっけ? 気にしないほうがいいですよ、先生、誰にでもあんな感じだから。前の担当の人も、おんなじこと言われてたし』
ニコニコと人懐っこく笑いながら、彼は俺に近づいてきた。当時雅弘は二十二歳だった。十八の時に田舎から一人で上京し、住み込みでアシスタントをしていたため、その時点で彼と財前は四年の付き合いがあった。
『俺も先生に信頼してもらうまで、結構かかったんすよね。最初の頃なんて、儂の原稿に子どもの落書きを載せるつもりかーって、スゲェ怒られてさ』
『えっ、雅弘さんほどの人でも、そんなこと言われたんですか』
『そう。でも、今はあんな感じでしょ?』
俺が出会った頃の財前は、雅弘を自分の右腕のように可愛がっていた。何かといえば『雅!』と呼びつけたし、雅弘も名前を呼ばれただけで財前が何を求めているのかを察し、先回りして財前の希望を叶えるような、師弟としての強い信頼関係があった。
そんな雅弘でも、最初から財前と上手い関係が築けていたわけではなかったのだ。その事実は、少しだけ、俺の心を軽くした。
雅弘はさらに、ふっと笑って、俺に言った。
『だから、続けていたら、何とかなりますよ。心配しなくてもだいじょーぶ。信頼って、いきなり芽生えるもんじゃないっすから。時間をかけて、少しずつ少しずつ、育てていきましょ』
雅弘の励ましで前を向くことができた俺は、それから、どれだけ財前に罵られても、めげずに仕事へ打ち込んだ。やがて俺が編集の仕事に慣れてくると、財前に詰られることは少しずつ減っていった。雅弘の言う通り、時間をかけることで、信頼という小さな芽を育てることに成功したのだ。
財前の態度が決定的に変わるきっかけとなったのは、やはりポーズモデルだ。原稿に行き詰まった財前が、苛立ち紛れに仕事場で暴れた時のこと。財前のこぼしたインクが俺のシャツにかかって、その後始末の最中に着替えようとシャツを脱ぐと、俺を見た財前が突然何か閃いたような顔で言った。
『おい、お前……名前は陸だったか』
『えっ、は、はい』
財前に名前を呼ばれたのはそれが初めてだった。
『陸、ちょっとモデルになれ』
『えっ……モデル、ですか?』
呆気に取られたのは俺だけじゃない。雅弘も同じだったと思う。
それから、あれよあれよという間に財前は撮影準備を整えて、俺にポーズの指示をして何枚かの写真を撮った。やけに女性的なポーズばかり取らされるのは疑問だったが、さほど抵抗はない。作画の資料にでもするのだと思い、気安く応じた。
以降、財前は定期的にポーズモデルを依頼してくるようになった。なんでも、俺をモデルにすると創作意欲を掻き立てられるらしい。描きたいシーンや、魅力的なキャラクター造形の参考になるとか、なんとか。
俺がモデルになることで何の参考になるのかは全く分からなかったが、創作の役に立てるのであれば願ったり叶ったりである。それからというもの、財前は担当替えの話が出るたび『儂の担当は陸にしか務まらん』と編集部に直談判するほど、俺を信頼してくれるようになった。
異なる体勢で何ポーズか撮影した後、財前の指示を聞いた雅弘が近づいてくる。
「すみません、陸さん。先生、絡みも何枚かほしいみたい」
「雅くん」
「触ってもいい? 嫌なら、言って」
「ん……大丈夫。嫌じゃないよ」
これも作品のためである。俺が了承すると、雅弘は着ていたTシャツを脱いで、俺と同じタンクトップ姿になり、そっと俺の腰に腕を回した。
「……っ」
雅弘の広い胸で抱き留められ、少しだけドキリとした。ただのポーズモデルだと分かっているのに、何だか緊張してしまう。
触れた素肌が生々しい。さっき絆創膏を貼った乳首が雅弘の胸板で潰れて、甘い刺激が走った。快感を逃すために、撮影の妨げにならない程度に身を捩る。
「……陸さん」
俺の耳元に唇を寄せた雅弘が囁く。吐息が擽ったくて、肩を竦めてしまう。
「なに、雅くん」
「……その絆創膏、どうしたの」
「!」
雅弘の視線を確認すると、俺の胸元に向かっていた。サイズの大きいタンクトップは、上から覗くと中が丸見えだ。乳首に貼られた絆創膏がしっかり見える。
は、恥ずかしい……! 俺は一気に真っ赤になって、自分の胸を隠そうとした。両腕は抱き締められているせいで自由に動かせないので、雅弘にくっついて隠した。カメラのシャッター音が鳴って、フラッシュが光った。
雅弘は俺の耳元でクスクス笑っている。
「自分で触ったの? 陸さん、そんな趣味あったんだ」
「違……っ、違うよ、そんなんじゃないって」
恥ずかしい誤解をされたくなくて、慌てて否定する。
次の瞬間、それまで揶揄うように笑っていた雅弘の温度が、急に下がったような気がした。
「じゃあ、誰かに触られた?」
「……!」
咄嗟に答えられず、ビクリと身を強張らせる。なんだか尋問されているみたいだ。雅弘は、俺を逃さないというように、ふぅん、と呟く。
「まあ、どうせまた、作品のためだからとか何とか言われて、断れなかったんでしょうけど」
「な、なんで分かるの……?」
「分かりますよ、そりゃあ。どれだけ見てると思ってるんですか、陸さんのこと」
雅弘はそう言って、手のひらを俺の腰から尻のほうへ下げる。
「……っ」
その場所を撫でるような動きに、ビクッと震えて反応してしまう。体がゾクゾクと痺れる。何だろう、今日の雅弘の触り方は、いつもより少し……いやらしい、気がする。
意識したら恥ずかしくなってきた。顔の温度が上がる。カメラのシャッター音が鳴る。
「作品のためって言われたら、何でもしちゃうんだから……ほんと、仕方ない人だな、陸さんは」
「……! っ、ん」
耳元で雅弘が囁く。唇が近い。吐息を吹き込まれて、ゾクゾクする。
雅弘は優しい。雄大のように分かりやすい態度ではないにしろ、いつもさり気なく俺を気遣ってくれると思う。
それなのに、何故だろう。今日の雅弘から感じる空気は、少しだけ恐ろしく感じられた。まるで何かに怒って、俺を責めているような雰囲気だ。緊張して、体が強張る。
雅弘は俺の敏感になった胸元をするりと撫でて、その中心の絆創膏が貼られた場所を、服の上から指でぐ、と押した。ビリッとした、鋭い刺激が走る。
「んぁ……! っ、ダメ!」
思わず、雅弘の体を突き飛ばしていた。
「あ……」
財前のポーズモデルの撮影中に、雅弘に対してそんな態度を取ってしまったのは初めてだった。雅弘も驚いた顔をしているし、シャッター音も止まっている。
しまったと思っても、もう遅い。さっきまで恥ずかしさで赤くなっていた顔が、今度は青ざめる。
「ご、ごめん雅くん……!」
この撮影は、針乃や翔太の無茶な要求とは違う。正式なお仕事である。撮影を中断させてしまったことで、二人に迷惑をかけてしまった。
これまで築いてきた信頼関係を壊してしまったかもしれない。恐ろしさで震える俺に、雅弘はバツが悪そうに笑うと、口を開いた。
「謝んなくていいですよ。こっちこそすんません」
「で、でも……」
「先生! すんません、やりすぎちゃいました」
雅弘はカメラを構えている財前に向かって声をかける。
「青いな、雅。モデルを潰してどうする」
財前もカメラのファインダーを覗きながら、にやりと面白そうに笑い、からかい口調で答えるだけだ。失望されてはいないのだろうか。まだ不安の拭えない俺に、雅弘は優しく微笑む。
「陸さん。今みたいに、ダメな時はダメって言ってくれればいいですから」
「え……でも」
「そんな不安そうにしなくても。陸さんの嫌がることは、俺も先生も、強要しませんよ」
信じられない言葉に、呆然としてしまう。今まで、このポーズモデルは仕事だと思っていたし、嫌だなんて思ったことはなかったから、二人がそこまで俺の意思を尊重してくれていたなんて、思いもしなかった。
「ありがとう……」
「今日は、終わりにしましょっか。先生、陸さんお疲れみたいです」
雅弘は財前に声をかけ、スタジオの隅に置いてある大きなバスタオルを持ってきて、俺の肩にかけてくれた。着替えにと促されて、さっき脱いだ服を置きっぱなしにしている脱衣所へ向かう。
着替えの途中で、絆創膏が貼られた乳首をそっと上から撫でてみた。
「んっ……」
ピリッと鋭い痛みが走って、体の芯が疼くような気がした。かなり敏感になっている。このせいで、さっき雅弘にひどい態度を取ってしまったと、憂鬱な溜息が漏れる。
先ほど、思わず突き飛ばしてしまった時の、雅弘の驚いた顔を思い出す。
雅弘は恩人である。彼がいなければ、俺はきっと編集者として、この仕事を続けてはいなかっただろう。
人の心を動かすような、さまざまな作品を生み出す作家の先生たちを尊敬している。その手伝いができることは、俺の生きがいであり喜びだ。
雅弘は、そんな自分を形作ってくれた人なのだ。彼にされて嫌なことなど、ありはしない。まだ俺は、その恩返しもできていないのだから——これまでずっと、そう思ってきたのに。彼を拒絶するような態度を取ってしまった自分が情けなかった。
「雅くん、着替えありがとう。洗って返すね」
「そんなのいいですって。そこのカゴに入れといてください。まとめて洗濯しちゃうんで」
そういうわけにはいかないと思ったが、雅弘に押し切られてしまい、借りた服を洗濯カゴに入れる。
「この後も、まだ仕事があるんですか」
洗濯カゴの中身をまとめて洗濯乾燥機に入れながら、雅弘が尋ねてくる。
「ううん。今日は、これでおしまい」
「そうなんすね」
雅弘が洗濯乾燥機のスイッチを入れる。鈍い起動音がして、洗濯機が動き始めた。
「じゃあ、久々にウチ来ません? こないだ陸さんが読みたいって言ってた、実写化作品の原作漫画、シリーズ全巻揃えたんすよ」
「え! そうなの⁉︎」
雅弘の自宅はここからそう遠くない、タワーマンションだ。元々は少年漫画家を目指していた雅弘だが、ある時生活のためにと成人向けコミックを描き始めて、そちらで一気に売れっ子になった。
かなり収入があるようで、元々はこの仕事場で寝泊まりしていた雅弘も、数年前には自宅マンションを購入した。広く豪華な彼の家には、大きな書斎があって、漫画から文芸書までさまざまな本を集めている。俺もよく、こんなふうに誘われてお邪魔していた。
俺は雅弘の担当ではないので、財前のアシスタントとしての雅弘の実力は知っているけれど、肝心の雅弘の漫画の方は、雅弘本人から読ませてもらったことはない。以前描いていた少年漫画は一度も見たことはないし、今の成人向け作品も、読んでいるのは俺が個人的に気になって購入したものだけだ。
雅弘の作品の魅力は、卓越した画力と漫画的センスにあると思う。ただ絵が上手いだけではなく、漫画としてどう魅せるかというところまで計算して、あえて正確なパースを崩し、画面に迫力を生み出すいわゆる『漫画パース』を自在に使いこなす。
現在は成人向けコミックで、その才能を業界では俗に『抜ける絵』などと呼ばれる扇情的な画面づくりに遺憾なく発揮しているが、きっと少年漫画を描いていた頃も、勢いや迫力が重要なバトルシーンなどで、その力が存分に活かされていたのだろう。
雅弘は何故か、俺にだけは見せられないと言って、頑なに当時の作品を見せてはくれないのだけど……——。
「陸さん?」
「えっ? あ……ごめん、考え事してた」
雅弘に声をかけられて、現実へ引き戻される。雅弘の少年漫画作品を、自分も読んでみたかった。当時既に少年誌の担当がついていた雅弘にとっては、自分のような別雑誌の編集者に見せるのは抵抗があるだろうと分かっていたので、強くは言えなかったけれど。いつかきっと、紙面で読む機会があるだろうと思っていたのに。もう、成人向け以外の漫画は描かないのだろうか。
「どうする、陸さん。ウチ、くる?」
「……いや、ごめん。今日はやめておくよ」
雅弘のお誘いは魅力的だったが、元々、この後は雄大のお見舞いに行くつもりだった。もし、朝の様子のまま、一人でぐったりしていたらと思うと、気が気ではない。
「そっか。じゃあ、また誘います」
「うん。ありがとう、雅くん」
財前の仕事場を後にする。外に出ると、もうすっかり暗くなっていた。
スマホを取り出して、雄大からの連絡が入っていないかを確認する。メッセージアプリに新着メッセージはない。ますます心配になり、逸る気持ちで車を走らせる。
途中、コンビニに寄って必要になりそうなものを購入した。冷却シート、ミネラルウォーターやスポーツドリンク、レトルトパウチのお粥、カットフルーツやゼリー。思いつくままに買い込んだレジ袋を車に載せる。
今朝、雄大を送り届けたマンションに到着する。借りた鍵でエントランスを抜け、雄大の家の玄関扉を開けた。中は真っ暗で、明かりをつけた形跡もない。
「雄大くん……⁉︎」
まさか、まだ起き上がれないほどに悪いのか。慌てて手探りで電気のスイッチを探り当てて、部屋へ向かう。
「雄大くん……!」
雄大は朝俺が寝かせた時とほとんど同じ状態のまま、ベッドでぐったりしていた。着替えすらしておらず、ワイシャツのままだ。朝はなかったミネラルウォーターの空きペットボトルがベッドの傍に落ちているので、全く起きなかったわけではないようだが、几帳面な雄大らしからぬゴミを放置しているその光景も、彼の体調の悪さを物語っている。
近寄って、額に手のひらを当ててみる。まだ熱い。目を閉じて、苦しそうに呼吸を繰り返す雄大を見ていると、胸が痛んだ。
仕事に穴を空けられないなんて考えずに、病院へ連れて行ってやるべきだった。後悔に押し潰されそうだ。ひとまず、買ってきた冷却シートを取り出して、額に貼ってやる。
「ん……」
冷却シートの感触に反応したのか、雄大が唸って薄く目を開ける。
「陸さん……」
「雄大くん……遅くなって、ごめん。気分はどう?」
「……あたま、痛いです……」
眉根を寄せ、苦しそうに顔を顰める雄大の額を撫でてやる。俺が触れると、少しだけ雄大の険しい顔が穏やかになったような気がした。
「大丈夫? 水、飲める?」
買ってきたミネラルウォーターを用意して、体を起こしてやる。雄大はされるがまま、ペットボトルに口をつけて、冷たいミネラルウォーターを飲み下した。
水分を取ってもう一度横になった雄大は、俺を見上げて口を開く。
「陸さん……仕事は……?」
「うん、大丈夫。無事に終わったよ」
「嫌なことは……? なにも、されませんでしたか」
「う、うん……大丈夫、何も心配いらないから」
ほんの少しだけ、後ろめたいこともあったが、概ね雄大との約束は守れたと言っていいだろう。……多分。
「よかったです……」
熱に浮かされながら、雄大はホッとしたようにその顔を綻ばせる。自分の方がよほど苦しかっただろうに、俺を心配していることが分かる雄大の優しい目つきに、何故だか胸が苦しいほどに痛んだ。
「雄大くん、何か、ほしいものはない? 色々買ってきてるんだ、食べたいものとか、飲みたいものとか」
苦しさに耐えかねてそう口にする。雄大は「ほしいもの……」と呟いて、しばらく朦朧としたまま何か考え込む様子を見せた。
「陸さん……」
「なぁに、雄大くん」
雄大がこちらへ向かって伸ばした手を取り、指を絡めて優しく握った。その手はまだ熱い。
雄大は掠れた声で続ける。
「俺……陸さんに、キスしてほしいです」
「うん……うん⁉︎」
突然、信じられないことを言い出したので、ぎょっとして大きな声を出してしまった。
今、何て言った……⁉︎ き、キスって! なんでいきなり!
やはり熱でおかしくなっているのだろうか。顔を真っ赤にしながら、雄大を見る。
「嫌なら、いいんです。陸さんがしたくないことは、ちゃんと、嫌だって断ってください」
「いっ、嫌っていうか……! ゆ、雄大くん、大丈夫? 俺にキスしてほしいって、そんな、熱でおかしくなっちゃったんじゃない⁉︎」
「おかしくなんかないです。ずっとしたいと思ってました……俺、陸さんが好きだから」
「……っ⁉︎」
雄大はますますおかしなことを口走っている。これが熱のせいじゃなかったら何だって言うんだ。
……まさか、本当に? 俺のことが好きだなんて、そんな……。
違う、そんなわけない。慌てて首を横に振る。俺なんかのどこを好きになるっていうんだ。何の才能もない、面白みもない人間だ。若い雄大と違っておじさんだし、人の目を惹くような華やかな見た目をしているわけでもない。
それなのに、熱に浮かされて潤んだ雄大の瞳を見ていると、まるで本当に、俺自身に熱を抱いているような錯覚に陥ってしまう。頭の中がクラクラした。そうだったらいいと、本当ならいいのにと、そう思ってしまったのだ。
「……いいよ」
ドキドキしながら、気づくとそんなことを答えていた。病人相手に、こんなことしちゃいけないって分かってるのに。目を閉じて、引き寄せられるように、自分の唇を雄大の唇へ近づける。
もう少しで触れると思った、その瞬間。雄大の方から俺に唇を押し付けてきた。
「! んっ」
絡めた手を強く引かれ、俺は雄大の上へ覆いかぶさるように倒れ込んだ。すぐに背中へ腕が回り、強く抱き締められる。
「ん……っ、ん、ぅ」
雄大の唇は、水分を失って少しカサついている。それでも、柔らかいその場所は、触れているだけで体の芯が痺れるような甘い快感をもたらした。
「陸さん……好きです」
雄大は唇を重ねたまま、譫言のように囁く。好きだと、その言葉に反応して、俺の心も体も、堪えようのない熱を帯びていく。
これでは、どちらが熱に浮かされているのか分からない。茹だった頭で彼の名前を呼び返す。
「雄大くん……」
ぎゅう、と腰を抱き締められ、唇だけでなく、その周りにも何度も口づけられた後、不意に雄大の腕が脱力した。どうやら眠ってしまったようだった。
さっきまで苦しそうにしていたその顔は、どこか穏やかだ。冷却シートが貼られた額を、シートの上からそっと撫でる。
胸が切なくて、苦しくて、どうにかなりそうだった。喉の奥に、あまりにも大きすぎる感情の塊が詰まっていて、上手く呼吸ができない。服越しでも分かるくらい熱い雄大の胸板に顔を寄せて、目を閉じる。
明日、もし、この熱が下がったなら。雄大は、同じ言葉を言ってくれるだろうか。それとも、熱に浮かされた一夜の夢のように、きれいさっぱり忘れているだろうか。
自分がどちらを期待しているのか分からないまま、俺の意識もゆっくりと、熱すぎるその思いの中に沈んでいった。
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