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2、となりの芝生

 その日は、昼を過ぎていくらかした頃に、リシェルノアは珍しく執務室を出た。書庫へ資料を持ちに行く、と、ただそれだけのことのようではあったが、護衛騎士であるグレンは無論、王子に付き従っていた。  廊下を歩いていたときだ。王城内の、幅の広い回廊には、窓から明るい陽光が射し込んでいた。 「――兄上」  ふと、後方から明るい声が聴こえてきた。  リシェルノアは立ち止まって振り返る。それに合わせてグレンもまた足を止め、主人の視野の邪魔にならない位置にすっと身を引いてから、声がしたほうへと視線を向けた。  こちらに向かって歩いてくる人影がふたつ。そのうちのひとり、華やかな金髪と澄んだ碧い眸を持つ青年は、リシェルノアに朗らかな笑みを向けている。もう一人、黒髪に鉄色の眸の青年は、その後ろに影のように付き従っていた。  前を歩くのは、アシュレイ・ラディア=アルノヴィア。正妃腹の第二王子だ。ついでにいえば、現在の王太子である。  後ろを歩くのは、その護衛官。たしか、ルーカス卿だったはずだ。  グレンは即座にそうした情報を頭の中に並べる。それから、人好きのする笑顔を惜しみなく浮かべている皇位継承権第一位の王子を前に、黙って畏まった。 「アシュレイ、何か用か?」  対するリシェルノアは、弟への親愛の情など微塵も滲まない声音で、そう短く言った。それを聞きつつ、この人は肉親相手にもこうなんだな、と、伏せた顔の隠れたところで、グレンはちいさく嘆息していた。 「特に用というのではありませんが。お姿が見えたので、ご挨拶をと」  アシュレイはリシェルノアの傍近くまでやって来ると、柔らかく微笑んでいる。その屈託のなさ、素直さは、すれ違う執務官や兵卒、女官などに対しても、惜しみなく発揮されていた。 「ご機嫌麗しゅうございます、殿下」 「やあ、今日もご苦労さま」  立ち止って礼をする女官に、にこやかな笑顔を返しつつ、気さくに会釈を返している。それだけで、女官はうれしそうに頬をほんのりと紅潮させていた。 「兄上、こちらが新しい護衛官の方ですか?」  アシュレイは人懐っこく笑い、頭を下げ続けているグレンのほうへと視線を向けて問う。 「ああ。グレン・ヴェストーレ卿だ」  リシェルノアは短く答えた。 「初めまして、グレン卿。兄上をよろしく頼みますね」  アシュレイはそう言うと、グレンにも気さくに笑いかけてきた。リシェルノアと同じ血を分けた兄弟だとは信じられないほど、アシュレイの態度はやわらかかった。 「は。身命を賭してお仕えいたします」 「はは、たのもしいな」 「恐縮です、アシュレイ殿下」  グレンは答えて、丁寧に一礼した。  アシュレイはそれからしばらく、兄であるリシェルノアと政務の話を交わしていた。その間、通りかかる廷臣たちには気さくに声をかけ、微笑みを向けている。アシュレイにそうされると、誰もが恐縮しつつも嬉しそうな様子で礼を返していた。  一方のリシェルノアは、ずっと無愛想な鉄面皮のままだ。  もちろん職務である以上、グレンは黙って彼の傍らに控え続けていた。が、時折、ちら、と、アシュレイの護衛騎士であるルーカスのほうを見ては、きっと彼は主人から日常的に笑顔を向けられているのだろう、それだけで報われた気分になるに違いない、と、そんなことをこっそりと思ってもいた。 「それでは、また」  やがて話が終わると、アシュレイは笑顔で言って、軽やかに去っていった。ルーカスもこちらに軽く会釈すると、アシュレイの背を追って行く。  グレンは自分たちとはまるで様子の異なる主従の背中を見送りながら、ふと隣のリシェルノアに視線を向けた。リシェルノアは無表情なまま、行くぞ、と、短く言って、前を向いて歩き出す。  書庫へ向かう途中、何人かの人物とすれ違ったが――軽い会釈くらいはさすがにして見せるものの――彼が誰かに親しげな態度を取ることはなかった。それがわかっているのか、相手のほうもまた、ごくあっさりとした礼のみすると去っていく。 「……あなたもちょっとくらい、皆に笑って差し上げたらいいのに」  グレンは思わず呟いた。リシェルノアがちらりとグレンを見る。 「いえ、その……きれいなお顔をなさっていますし、笑えば印象も変わるんじゃないかと思いまして。それだけでも、女性陣なんかには人気が出そうと申しますか」  グレンは、へら、と、笑いながら、慌てて取り繕った。  リシェルノアは整った顔立ちをしている。冷たい印象の蒼灰色の瞳も、氷のような銀髪も、見る者を惹きつける美しさがある。それなのに、いつも無表情でいるから、人を寄せ付けない雰囲気になってしまうのだ。  もったいない、と、グレンは思う。  また一方で、彼がそのうつくしい笑顔を向けて報いてくれると思えば、自分だってすこしは心から彼に仕えようと思えるかもしれない、と、考える。 「……くだらない」  だが、グレンのそんな想いをよそに、リシェルノアは冷たく言い捨てた。  まあ、そう言うよな、と、グレンは思う。再び歩き出す主の背を、グレンは小さく溜め息をつきつつ、追いかけた。

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