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第1話

その森の入り口には立ち入り禁止の看板が立てられていた。  風にさらされ、文字の掠れたそれを一瞥し、ソリスは躊躇なく境界線を越え る。  目的の薬草はこの森にしか生えていない。  絶滅したはずの回復力の高い薬草を持って、この森から国の騎士と研究者が 出てくるのを、弟のソルヴァンが目撃した。  その薬草が手に入れば、薬師である自分が、病気で苦しんでいる人たちを今 より多く救えるかもしれない。  禁忌を犯している自覚が重くのしかかるが、国が薬草を独占していたことへ の不信感と、これで人を救えるかもしれないという希望だけが、震えそうにな る膝を辛うじて支えていた。  不思議なことに、この森の周辺には監視カメラが一台もない。  街ならどこにでもあるものが、ここにだけ存在しない。  隠したいものほど記録には残さないと聞くが、それほどまでに国は薬草を隠 しておきたいということだろうか?  森の地図もない中、頼りはコンパスと、薬草は水辺に生えやすいという情報 だけだ。  耳を澄ましながら水の音を探して、一歩ずつ先へと足を踏み入れていく。  国の騎士たちが整備したのだろう、足場はしっかりしていた。  周りを見渡すと、木に登りながらこちらの様子を窺っているリスと目が合 う。  鳥のさえずりも聞こえてくるような、あまりにものどかな森に、ここは本当 に立ち入り禁止の場所なのかと疑ってしまう。  整備された道に沿って慎重に歩いていくと、微かに水の流れる音が聞こえ た。  やっと見つけたと安堵しながら、ソリスは光が差している方へ駆け足で向か う。  向かった先にあったのは、そこだけ木が生えておらず、不自然なほどに透き 通った光が差す草原だった。  時が止まったかのように風すら吹かない、水の音だけが響くその場所に、ソ リスは違和感を覚えた。  光の先を見ると、そこには澄んだ水が流れる綺麗な川があった。  何が起こるか分からない場所に長居はできない。早く薬草を探して森を出よ う。  草原を抜けて川辺に向かい、しゃがむと周りに生えている草をまじまじと観 察する。  これまで見たことがない薬草が、そこには生えていた。 「本で見たのより、ずっと綺麗だ!」  興奮で震える指先を抑えながら、力強く生い茂る薬草を摘む。清涼感のある 香りを放つそれを、形が崩れないようにリュックへ詰めていく。  帰ったらこれを早速、調合しよう。  期待に胸を膨らませながら、夢中で薬草を採っていくと、あっという間にリ ュックがいっぱいになる。  ふと顔を上げて、周りを見渡してみる。  静かな草原には自分一人しかいないはずなのに、一瞬だけ誰かの視線を感じ た。  ──気のせいだろうか?  だとしても、早くこの場から立ち去った方がいい。  立ち上がり、リュックを背負うと確かな重みが肩にかかった。  それは、救える命の重みのようで、自然と笑みがこぼれる。  しかし、次の瞬間、後頭部に粘り気のある視線を感じ、背筋が凍りつく。  振り向き、視線の先を見ると、大きな岩のような、黒光りした物体が草陰に 隠れていた。  ──いったい、なんなんだろう。  その物体から目が離せず、気がつけば導かれるように一歩足を踏み出してい た。  腹部の痣がほんのり熱を帯び、心拍数が上がっていく。  生まれた頃からあった痣をずっと不思議に思っていたが、今ならその謎が解 明できそうな気がした。この痣は何かと繋がっているのだろうか。  何か、誰かと──。 「これは……!」  草陰から現れたのは、鎖に巻かれた錆びついた鉄の棺桶だった。 (なぜ、こんなものがここに?)  この静かでのどかな森に突然現れた異物を見たソリスは、じんわりと脂汗が にじむ手で肩紐を強く掴んだ。  もしかして、国がこの森を立ち入り禁止にしてまで隠したかったものとは、 貴重な薬草ではなく、この棺桶だったのではなかろうか。  国の本当の目的を悟った瞬間、川のせせらぎさえも遠のくほどの、冷ややか な沈黙がソリスを支配する。 「うっ……」  腹部の痣が疼くと同時に、目の前が眩しい光に包まれた。  まるで、この棺桶の中にいる何かと呼応(こおう)しているかのように、痣が焼けるよ うに熱い。  腕で光を遮るが、あまりの眩しさに目の前が見えなくなっていく。  危険を察知して身を屈めると、しばらくして光は収まっていった。  恐る恐る、棺桶に目を向けると鎖が外れて蓋が半分開いていた。  まるで拒むことを許さないかのように、腹部の痣が指先を突き動かす。  この感覚は何だ。懐かしいような、切ないような──。  ソリスは覚悟を決めて立ち上がると、中にいるかもしれない誰かを救うべ く、鉄の蓋へと手をかけた。  鈍い金属が擦れる音と共に現れたのは、この世の者とは思えないほど透き通 った白い肌を持つ、長身で手足の長い銀色の髪をした体格のいい男性だった。  息を呑むほど整った顔立ち。しかし、その身体は土埃で汚れており、薬草の 清涼な香りを消すほどの血生臭い匂いがする。  着ている服も、今の時代にはそぐわない、薄汚れて裂かれたボロボロの白い マントを羽織っており、ソリスは違和感と悲しみを覚えた。 「酷い」  この男性が何をしたのかは知らないが、ここまでするなんて。  脈を測ろうと伸ばした手で、繊細な銀髪を慎重にかき分ける。  なぜだろう、初めて会ったはずなのに、放っておけない。  指先がその冷え切った首筋に触れる距離まで近づいた時、世界が白く反転し た。  ソリスの腹部の痣と共鳴して男の首筋から奔流(ほんりゆう)のように溢れ出した光が、 二人の全身を包んでいく。  いきなりの事態にソリスは身を屈めようとするが、それを遮るように骨が軋 むほどの力で両肩を掴まれ、視界が激しく揺れる。  痛みと同時に押し倒された背中に草原の土の冷たさを感じた瞬間、光に浮か び上がる男の人影だけが鮮明に見えた。 「どうやって封印を解いた! 人をあんな目に遭わせておいて何が目的だ!」  その声は酷く掠れて、怒りの中に痛ましさを感じた。  まるで、怯えながら吠えている大型犬のようだ。 「俺はただ、薬草を探しにきて棺桶を見つけただけで……」  なんとかして相手を落ち着かせなければと、努めて冷静に答える。  光が次第に引いていき、目の前の男の顔がはっきりと見えてくる。自分をじ っと見下ろしている紫色の瞳と、目が合った。 「薬草! 魔法はどうした! 病気を治すのに、そんなものを使っていたのは 昔の話……」  怒りで大きくなっていく声量は、最後には絶望感に萎んでいった。  肩に食い込む指の震えと青ざめていく顔に、ソリスは目の前の男が抱える何 かを悟り、咄嗟に言葉を継いだ。 「そんなに……絶望したような顔をしないでください。何があったのか、俺に 話してもらえませんか」  肩を掴む男の頬を、ソリスはそっと自分の手のひらで撫でた。  氷のように冷え切ったその肌に触れた瞬間、腹部の痣が再び熱を帯びる。  抱えたものの重さが伝わってくるようで、胸の奥がキリリと痛む。  なぜだろう、この人の痛みが、まるで自分のことのように感じられる。  男はソリスに敵意がないと感じ取ったのか、あるいはソリスの手の温もりに 何かを感じたのか、警戒を少しだけ解いて肩を押さえている手の力を抜いた。 「……今は何年だ。お前からは魔力がほとんど感知できない! 魔法はどうし た⁉」 「今は、三一××年ですけど……。魔法ならだいぶ昔、百年以上前に国によっ て免許制になって、今ではほとんど使われなくなりましたよ。今の時代に魔法 を重要視するなんて珍しい」 「なんの冗談だ!……ッツ……!」  怒声が途切れ、痛みに歪んだ顔をした男の大きな身体が、ソリスへと倒れ込 んだ。  およそ一九〇センチはある男の質量を受け止めたソリスは、肺の空気を強制 的に押し出され、目の前がチカチカとするほどの重みを感じた。  焦点が戻ると、男の身体からする鉄の匂いと、首筋にかかる熱い吐息に息を 呑む。  男の銀髪が頬に触れ、うるさいほどに心臓が鳴る。  腹部の痣が、若干熱を帯びているのは気のせいだろうか。 「足、痛むんですか? ちょっと待っててください」  男の倒れ方から察するに、足に傷を負っていて、興奮したせいで傷口が広が ってしまったのだろう。  男が痛みに悶えて力を緩めた隙に、ソリスはその大きな身体を必死に押し返 した。  男の指先が、拒絶するようにソリスの腕の布地を強く握りしめる。 「何を……する気だ……」  掠れた声で吐き捨てられた言葉を聞き流し、ソリスは男の下から抜け出し た。  そのまま、足元に移動すると、慣れた手つきでリュックを横に寄せた。 「俺が今、できることをするだけです……。じっとしていてくださいね」  ソリスが慎重に、血で汚れた男のズボンの裾を捲り上げる。そこには、無惨 な切り傷が赤黒く口を開けていた。  恐らく、足止めのために攻撃され、つけられたものだろう。  平和な今の時代では、まず見ることのない鋭利な傷口と、その痛みに耐えて いる男の頑丈さに驚かされる。  目の前の男は、今とは別の時代から来たのではないだろうか。  先ほど摘んだばかりの薬草をリュックから取り出すと、手のひらで薬草と持 ってきた油脂を包み込み、魔法の熱で一気に成分を抽出し安定させる。 「フッ……。そんな微弱な魔法で何ができると言うんだ」  苦痛に顔を歪めながら鼻で笑う男に、ソリスは自信満々にこう答えた。 「見ていてください」  ソリスの手から生み出されたのは、毒々しいほどに鮮やかなエメラルド色の 軟膏だった。 「その変なものを俺の足に塗ろうというのか⁉」 「もしかして、怯えてるんですか?」  大柄な上半身を起こして今にも暴れ出しそうな男に、ソリスが挑発的に口角 を上げると、男は喉を鳴らして不敵に笑い返した。 「怯える⁉ まさか、最強の魔道士の俺が怯えるなんて! 塗るなら早く塗 れ!」  練り上げたばかりの塗り薬を、男の剥き出しの傷口へと容赦なく塗り込んで いく。  パチリ、と青い火花が散り、回復の衝撃が男の全身を駆け抜ける。 「……っ、あ……⁉」  薬草が傷口に触れた瞬間、男の身体が弓なりに跳ねた。  おかしい。ソリスは慌てて男の顔を覗き込んだ。  この薬草は、魔力を持たない人には効力が強すぎて、別の薬草と調合して使 わないといけないが、魔法を使える人にはそのまま使えるはずだ。  なのに、自身を魔道士と言う男がなぜこんなに苦しんでいるのか。  疑問は頭の片隅に残ったが、今はそれどころではない。痛みに耐える男の顔 が、ソリスの目の前にある。  一九〇センチの大きな身体が、ソリスの細い手首を握り潰さんばかりに強く 掴み、苦悶に呻く。  こんな状況だというのに、汗に濡れた銀髪が額に張り付き、歪む表情が妙に 艶めかしく見えてしまう。  ソリスは慌てて視線を逸らした。今は治療に集中しなければ。  その、嵐のような衝撃が過ぎ去った後、草原には奇妙なほどの静寂が訪れ た。 「……呼吸を、整えてください。魔力が肉体に馴染むまで、少し時間がかかり ます」  ソリスは脂汗を滲ませながら、手首に残った指の跡を気にする様子もなく、 空いた手で男の荒い息を繰り返す胸元を静かに押さえた。  手のひらの下で、男の心臓が激しく脈打っている。  驚くべきことに、先ほどまで赤黒く口を開けていた無惨な傷口は、エメラル ド色の軟膏と共鳴するように、白い煙を立てながら急速に塞がっている。  その回復力と精神力を目の当たりにして、ソリスは信じられない思いで男の 足を見つめた。  完全に傷が塞がると、男の荒い呼吸も次第に落ち着いていく。 「……本当に、治った」  男は自分の足を見下ろし、呆然とした声で呟いた。そして、ゆっくりとソリ スへ視線を向ける。  先ほどまでの警戒と敵意に満ちた目ではなく、そこには純粋な驚きと、何か 計り知れない感情が宿っていた。  紫色の瞳が、じっとソリスを見つめている。  その視線に、ソリスの心臓が跳ねた。 「お前から魔力はほとんど感じないが、何をした?」 「回復魔法が少しは使えるので、薬草にそれを込めて肌に浸透させて、傷の回 復を早めているんですよ」  ソリスは淡々と答えると、リュックから簡素な金属製の水筒を取り出した。 「……飲めますか?」  ソリスは、未だに信じられないものを見るような目で自分を凝視している男 の唇に、静かに水筒の口を添えた。  男の唇が、水筒の縁に触れる。 「お前、なんで俺にそんなに優しくする。もしや、国王からの差し金で、百年 前に殺し損なった俺を毒殺する気か?」  警戒の色が戻った男の目を、ソリスはまっすぐに見つめた。 「なんで俺があなたを毒殺しないといけないんですか! 俺はただの通りすが りの薬師です! それに、そんなことをして飲み物を粗末にしたらバチが当た りますよ!」  男はしばらくソリスを見つめた後、黙って水筒を受け取り、中を覗いた。  冷たく澄んだ水。それを一口飲んだ男の喉が大きく上下する。  彼の目に宿っていた野生的な殺気が、困惑へと塗り替えられていく。 「俺がいた時代には、こんなに美味い水はなかったな……。それにしても、こ んな傷も一瞬で治せないのは不便だな」 「俺がいた時代って、どういうことですか?」 「俺の方が聞きたい。魔法が制限されているってどういうことだ」 「教科書には、今から百年前の戦時中に強い魔力を持った人物により、国が消 滅する事態になり、二度とそういったことが起こらぬように各国の国王が魔法 に関する法律を作ったと書いてありましたが……」  ソリスはそこで一度言葉を切り、男の反応を窺った。 「専門家の間では、法が作られる前に場を収めるため、各国の国王が国に所属 している強い魔力を持った魔道士を見せしめに処刑したとも言われています。 時は流れて、今は免許を持っている人しか魔法を使うことができません」 「その専門家、筋がいいな」  男は苦々しく笑うと、空を仰いだ。 「俺を処刑しないで封印したのは、国王ってことか」  男は立ち上がると、よろめきながらも一歩、踏み出そうとする。 「まだ全ての傷を治していないのに、どこに行く気ですか?」  ソリスが慌てて男の腕を掴むと、男は振り返りもせずに答えた。 「決まってるだろ。国王がいる城まで行って、真実を吐いてもら……」  男の腹がぐぅ、と情けない音を立てる。  屈辱に震える手で腹を押さえる男に、ソリスは思わず笑みをこぼした。 「お腹も減っているみたいですね」  ソリスは導くように男の腕を引いた。 「家まで来てくれたら御馳走しますよ。食べたいもの、遠慮なく言ってくださ い」 「う……っ」  男は顔を背けたまま、小さく呟いた。 「傷を早く治すためには、食事も重要ですよ」 「つっ……。に……、肉料理」  聞き取れないほど小さな声だったが、ソリスの耳は確かにその言葉を拾っ た。 「肉料理……。そうですね、野菜をたっぷり入れたポトフなんかどうです か?」 「ポトフ……? なんだそれは」  男は初めて、興味を示したような表情でソリスを見た。 「知らないんですか? 野菜と牛肉が入ったスープですよ」 「……まさか、野菜と牛肉だと⁉ 平民が一生かかっても拝めぬ高級品じゃな いか!」 「えっ……」  男の驚愕に、ソリスは今の時代の当たり前の平和を改めて噛み締める。  今の時代にそぐわぬ格好と、先ほどの深い傷跡を思い出し、男が言っている ことは嘘ではない、と確信した。 「認めたくはないが、俺はこの棺桶の中に封印されて、百年後のこの平和な時 代にタイムスリップしたらしい」  男の声には、諦めと覚悟が混じっていた。  そして、どこか寂しげでもあった。 「よーし! 俺が百年の空腹も飛ぶくらい美味しいポトフを作りますから、こ の後のことは食べてから考えましょう」  場の空気を和ませるようにはしゃぎながら、ガッツポーズをするソリスを見 た男は、呆れたように、しかしどこか憑き物が落ちたようにクスリと笑った。  その笑顔を見て、ソリスの胸が温かくなる。 「……お前は、不思議なやつだな」  男はそう言いながら、まだ少し警戒を残した目でソリスを見つめる。  しかし、その瞳の奥には、確かに何か別の感情が芽生え始めているようだっ た。 「俺の名前はセラードだ。お前は?」 「俺はソリス。よろしく、セラード」  差し出された小さな、けれど力強い手を、セラードは少しためらってから、 大きな手のひらでそっと握り返した。  その手は、まだ少し冷たかったが、確かな温もりを帯び始めていた。  セラードの手のひらは思ったより大きく、ソリスの手を包み込むように握 る。  腹部の痣が、また微かに熱を帯びた。  二人の手が触れ合う場所から、何か温かいものが流れ込んでくるような感覚 がする。  これは何だろう。セラードと触れていると、心が落ち着く。  セラードもまた、握った手をすぐには離さずに、不思議そうにソリスの顔を 見つめていた。  草原に差し込む光が、二人の影を一つに重ねていた。

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