1 / 27

## 第1章 午前一時のバー

「そういえば、娘さんの試験どうでした?」  磨いていたグラスを棚へ戻しながら訊くと、カウンターの向こうで男が目を丸くした。 「え?」 「ほら、この前言ってたじゃないですか。第一志望の大学。先週、試験だったでしょ?」 「ああ……受かったよ」 「ほんとですか? よかったじゃないですか!」  思わず笑うと、男も嬉しそうに頬を緩めた。 「いやあ、もう駄目かと思ってたんだけどな。本人も手応えないって言ってたし」 「試験終わった日に電話かかってきて、絶対落ちたって泣いてたんでしたっけ?」 「そうそう。嫁までつられて落ち込んでさ。家ん中、通夜みたいになってた。それが昨日は家族で寿司だよ」 「いいなあ。俺も連れてってくださいよ。俺も一緒に心配してたんで」 「してないだろ」 「してましたって」  笑いながら新しい氷をグラスへ落とすと、カラン、と澄んだ音がした。 「じゃあ今日はお祝いですね。次の一杯、俺から出しますよ。娘さんにですからね。お父さんには奢ってませんけど」 「本人いねえじゃねえか」 「写真撮って送っといてください。知らない男が合格祝いしてるって」 「怖えよ」  男が吹き出す。悠麻も笑いながら棚から一本のボトルを抜いた。 「甘いの苦手でしたよね? じゃあ、さっぱりしたのにしますね」  酒を量り、氷を入れる。  こういう時間が好きだった。  誰かが来て、酒を飲んで、どうでもいい話をする。仕事の愚痴でも、家族の話でも、最近買った靴でも、近所にできたラーメン屋でもいい。特に、前に聞いた話の続きを聞くのが悠麻は好きだった。  あの仕事はどうなったのか。喧嘩した彼女とは仲直りしたのか。具合が悪いと言っていた猫は元気になったのか。今日みたいに、娘の試験はどうだったのか。  何気なく訊けば、大抵の客は少し驚いたあと、嬉しそうに続きを話してくれる。その顔を見るのも好きだった。 「はい。お父さんもお疲れさまでした」  完成したグラスを差し出すと、男は礼を言って一口飲み、満足そうに頷いた。 「うまい。そういうとこだけは一丁前なんだよなあ」 「だけは余計ですよ」  笑いながら壁の時計に目をやると、針はもうすぐ午前一時を指そうとしていた。 「あ、もうこんな時間か。そろそろ帰るわ。明日も仕事だ」 「もう今日ですけどね。起きられなくても俺のせいにしないでくださいよ」 「最後の一杯勧めたのお前だろ」 「お祝いなんでノーカウントです」 「都合いいなあ」  男は笑いながら財布を出した。  悠麻は会計を済ませ、上着を羽織る男をカウンターの外まで見送る。 「娘さんにも、おめでとうって伝えてください」 「おう。また来るわ」 「はい。お待ちしてます」  ドアが閉まると、外の音が遠ざかり、それまで話し声のあった店内が急に静かになった。 「……よし」  悠麻は入口の札を裏返した。  CLOSED。  今日も終わりだ。  カウンターへ戻り、客の使ったグラスをシンクへ運ぶ。残った氷を捨てて洗い、水気を拭って元の場所へ戻す。それから椅子を整え、ボトルの残量を確認し、減っているものをメモする。  何年も繰り返してきた閉店後の作業だった。  酒の匂いが残る店内には、まだ小さく音楽が流れている。 「悠麻」 「ん?」  奥から呼ばれて振り返ると、マスターが帳簿を閉じていた。 「ちょっといいか。座れ」 「まだ片付け終わってないんだけど」 「いいから」  妙に真面目な声だった。  悠麻は手を止め、マスターの顔を見る。 「……なに。怖いんだけど」 「怖い話じゃない」 「そう言って怖くない話だった試しないだろ」 「お前は俺をなんだと思ってるんだ」 「面倒くさいおっさん」 「お前な」 「引退するんだから、もうちょっと優しくしてやろうか?」  軽く返したが、マスターは笑わなかった。  その顔を見て、悠麻も笑みを消す。布巾を置き、カウンター席へ回った。 「……引退の話?」 「ああ。この建物が売りに出る」 「……は?」  予想していなかった言葉に、悠麻は座りかけた姿勢のまま止まった。  マスターが店を辞めるつもりなのは、前から知っている。年齢もあるし、夜の仕事を続けるのもそろそろしんどいらしい。だからその後は悠麻が店を引き継ぐ。それが二人の間では、ほとんど決まった話になっていた。 「オーナーから今日、正式に連絡が来た。買い手もほぼ決まってるらしい」 「でも、持ち主が変わるだけだろ? 新しい人と契約すれば――」 「その話もした。俺が引退したあと、お前が店を引き継ぐ予定だってな。向こうも店を残すこと自体は構わないらしい。ただ、今までと同じ条件じゃ無理だ」  マスターから説明された内容を聞くにつれ、悠麻の顔から表情が消えていった。  家賃が上がるだけではない。契約そのものを結び直すため、新たにまとまった保証金が必要になる。そこへマスターから店を引き継ぐための費用も加わる。 「……合計いくらくらいになるの?」 「ざっと出した」  差し出された一枚の紙を受け取る。  上から順に数字を追った。店を引き継ぐための費用、新しい契約に必要な金、そのほかにも細かな項目がいくつも並んでいる。  最後に書かれた合計額を見て、悠麻はしばらく黙った。 「……高っ」 「だろうな」 「俺の給料知ってる?」 「払ってるからな」 「じゃあ、こんなの持ってないのも知ってるだろ」 「知ってる」  あまりにもあっさり返されて、悠麻はもう一度紙へ目を落とした。  無茶苦茶な額というわけではない。どこかの大富豪でなければ用意できないような金でもないし、店を一つ自分のものとして始めるなら、これくらいの金が動くこともあるのだろう。  ただ、それが一般的にあり得る金額なのかどうかと、自分が用意できるかどうかは別の話だった。 「店のほうはできるだけ抑える。俺もお前から儲けようとは思ってない。だが、新しい契約に必要な金はどうにもならん」 「……いつまで?」  具体的な期限を聞き、悠麻は紙を見ながら頭の中で計算した。  今ある貯金。その間にもらえる給料。生活費を多少削ったとしても、到底届かない。  それでも、明日までに全額用意しろと言われたわけではなかった。 「じゃあ、まだ時間あるじゃん」 「あるにはあるが」 「だったら、なんとかするよ」  顔を上げると、マスターが眉間に皺を寄せた。 「簡単に言うな」 「別に簡単だと思ってないって。貯金もあるし、足りなきゃ銀行に相談するとか、融資とか、なんかあるだろ。そういうの全然調べたことないから、まずそこからやってみる」  口にしながらも、胃の辺りがじわじわ重くなっていた。  自分が今持っている金でどうにかなる額ではない。それくらいは分かる。  けれど、何も試していないうちから諦める気にもなれなかった。  マスターはそんな悠麻をしばらく見ていたが、やがて小さく息を吐いた。 「無理して残す必要はないんだぞ」 「……は?」 「俺が辞めたあと、ここを続けることだけが道じゃない。紹介できる店もある。お前なら場所が変わってもバーテンダーは続けられる」 「俺はここがいいんだけど」  思っていたより強い声が出た。  マスターが黙る。  悠麻も少しだけ視線を逸らした。 「……ここで働きたい」  他の店でも酒は作れる。バーテンダーだって続けられる。ここがなくなったからといって、自分の人生まで終わるわけではない。  そんなことは分かっている。  けれど、酒の並んだ棚も、何年も使ってきたカウンターも、いつも同じ場所に座る客たちも、悠麻にとっては全部ひっくるめてこの店だった。  別の場所に似たような店を作ったところで、同じものにはならない。 「まだ無理って決まったわけじゃないだろ。とりあえず、やれるだけやってみる」 「……そうか」 「意外と簡単に融資通るかもしれないじゃん」 「それは期待しないほうがいい」 「なんで夢壊すんだよ」 「現実の話してんだ」 「じゃあ宝くじも買っとく」 「無駄遣いするな」 「夢も見せてくれないの?」  そこでようやく、マスターが少しだけ笑った。  悠麻もつられて笑う。  そのまま残っていた片付けを済ませると、マスターは先に帰る支度を始めた。 「鍵、頼むぞ」 「はーい。お疲れ」  ドアへ向かったマスターが、途中で一度だけ振り返る。 「悠麻。無茶するなよ」 「しないって」  軽く返したものの、マスターは何か言いたそうな顔をしていた。  結局それ以上は何も言わず、店を出ていく。  ドアが閉まった。  また静かになった。  一人になった悠麻は、カウンターに置かれた紙を手に取った。  さっきは、なんとかすると言った。  銀行に相談すればいい。融資だってある。使える制度も、探せば何か見つかるかもしれない。  実際、まだ何も調べていない。  諦めるには早い。  そう思いながらスマートフォンを取り出し、銀行口座の残高を開いた。 「……」  表示された数字と、紙に書かれた合計額を見比べる。  細かな計算をするまでもなかった。  全然足りない。 「まあ……そりゃそうか」  これで足りるなら、最初から困っていない。  明日になったら銀行へ行こう。  自分がいくら借りられるのか。店を引き継ぐ場合に使える制度はないのか。何が必要で、どこまでなら現実的なのか。  まだ何一つ試していないのだから、諦めるのは全部やってからでいい。  そう決めてスマートフォンを伏せた。  そのとき、ふと店内の静けさが気になった。  顔を上げる。  さっきまで客が座っていた椅子が、きれいに並んでいる。  いつもと同じ店だった。  明日になれば、またドアが開く。いつもの顔が入ってきて、いつもの席へ座り、いつもの酒を頼む。この前の話の続きをして、笑って、帰っていく。  来週も。  来月も。  その先も。  それがずっと続くと思っていた。  マスターが引退したら、今度は自分がこのカウンターの中に立って、この店を続けていく。それもいつの間にか、当たり前の未来になっていた。  悠麻は誰もいなくなった店を、ゆっくりと見渡した。 「……なくなるのか、ここ」  誰もいない店に、その声だけが残った。

ともだちにシェアしよう!