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## 第1章 午前一時のバー
「そういえば、娘さんの試験どうでした?」
磨いていたグラスを棚へ戻しながら訊くと、カウンターの向こうで男が目を丸くした。
「え?」
「ほら、この前言ってたじゃないですか。第一志望の大学。先週、試験だったでしょ?」
「ああ……受かったよ」
「ほんとですか? よかったじゃないですか!」
思わず笑うと、男も嬉しそうに頬を緩めた。
「いやあ、もう駄目かと思ってたんだけどな。本人も手応えないって言ってたし」
「試験終わった日に電話かかってきて、絶対落ちたって泣いてたんでしたっけ?」
「そうそう。嫁までつられて落ち込んでさ。家ん中、通夜みたいになってた。それが昨日は家族で寿司だよ」
「いいなあ。俺も連れてってくださいよ。俺も一緒に心配してたんで」
「してないだろ」
「してましたって」
笑いながら新しい氷をグラスへ落とすと、カラン、と澄んだ音がした。
「じゃあ今日はお祝いですね。次の一杯、俺から出しますよ。娘さんにですからね。お父さんには奢ってませんけど」
「本人いねえじゃねえか」
「写真撮って送っといてください。知らない男が合格祝いしてるって」
「怖えよ」
男が吹き出す。悠麻も笑いながら棚から一本のボトルを抜いた。
「甘いの苦手でしたよね? じゃあ、さっぱりしたのにしますね」
酒を量り、氷を入れる。
こういう時間が好きだった。
誰かが来て、酒を飲んで、どうでもいい話をする。仕事の愚痴でも、家族の話でも、最近買った靴でも、近所にできたラーメン屋でもいい。特に、前に聞いた話の続きを聞くのが悠麻は好きだった。
あの仕事はどうなったのか。喧嘩した彼女とは仲直りしたのか。具合が悪いと言っていた猫は元気になったのか。今日みたいに、娘の試験はどうだったのか。
何気なく訊けば、大抵の客は少し驚いたあと、嬉しそうに続きを話してくれる。その顔を見るのも好きだった。
「はい。お父さんもお疲れさまでした」
完成したグラスを差し出すと、男は礼を言って一口飲み、満足そうに頷いた。
「うまい。そういうとこだけは一丁前なんだよなあ」
「だけは余計ですよ」
笑いながら壁の時計に目をやると、針はもうすぐ午前一時を指そうとしていた。
「あ、もうこんな時間か。そろそろ帰るわ。明日も仕事だ」
「もう今日ですけどね。起きられなくても俺のせいにしないでくださいよ」
「最後の一杯勧めたのお前だろ」
「お祝いなんでノーカウントです」
「都合いいなあ」
男は笑いながら財布を出した。
悠麻は会計を済ませ、上着を羽織る男をカウンターの外まで見送る。
「娘さんにも、おめでとうって伝えてください」
「おう。また来るわ」
「はい。お待ちしてます」
ドアが閉まると、外の音が遠ざかり、それまで話し声のあった店内が急に静かになった。
「……よし」
悠麻は入口の札を裏返した。
CLOSED。
今日も終わりだ。
カウンターへ戻り、客の使ったグラスをシンクへ運ぶ。残った氷を捨てて洗い、水気を拭って元の場所へ戻す。それから椅子を整え、ボトルの残量を確認し、減っているものをメモする。
何年も繰り返してきた閉店後の作業だった。
酒の匂いが残る店内には、まだ小さく音楽が流れている。
「悠麻」
「ん?」
奥から呼ばれて振り返ると、マスターが帳簿を閉じていた。
「ちょっといいか。座れ」
「まだ片付け終わってないんだけど」
「いいから」
妙に真面目な声だった。
悠麻は手を止め、マスターの顔を見る。
「……なに。怖いんだけど」
「怖い話じゃない」
「そう言って怖くない話だった試しないだろ」
「お前は俺をなんだと思ってるんだ」
「面倒くさいおっさん」
「お前な」
「引退するんだから、もうちょっと優しくしてやろうか?」
軽く返したが、マスターは笑わなかった。
その顔を見て、悠麻も笑みを消す。布巾を置き、カウンター席へ回った。
「……引退の話?」
「ああ。この建物が売りに出る」
「……は?」
予想していなかった言葉に、悠麻は座りかけた姿勢のまま止まった。
マスターが店を辞めるつもりなのは、前から知っている。年齢もあるし、夜の仕事を続けるのもそろそろしんどいらしい。だからその後は悠麻が店を引き継ぐ。それが二人の間では、ほとんど決まった話になっていた。
「オーナーから今日、正式に連絡が来た。買い手もほぼ決まってるらしい」
「でも、持ち主が変わるだけだろ? 新しい人と契約すれば――」
「その話もした。俺が引退したあと、お前が店を引き継ぐ予定だってな。向こうも店を残すこと自体は構わないらしい。ただ、今までと同じ条件じゃ無理だ」
マスターから説明された内容を聞くにつれ、悠麻の顔から表情が消えていった。
家賃が上がるだけではない。契約そのものを結び直すため、新たにまとまった保証金が必要になる。そこへマスターから店を引き継ぐための費用も加わる。
「……合計いくらくらいになるの?」
「ざっと出した」
差し出された一枚の紙を受け取る。
上から順に数字を追った。店を引き継ぐための費用、新しい契約に必要な金、そのほかにも細かな項目がいくつも並んでいる。
最後に書かれた合計額を見て、悠麻はしばらく黙った。
「……高っ」
「だろうな」
「俺の給料知ってる?」
「払ってるからな」
「じゃあ、こんなの持ってないのも知ってるだろ」
「知ってる」
あまりにもあっさり返されて、悠麻はもう一度紙へ目を落とした。
無茶苦茶な額というわけではない。どこかの大富豪でなければ用意できないような金でもないし、店を一つ自分のものとして始めるなら、これくらいの金が動くこともあるのだろう。
ただ、それが一般的にあり得る金額なのかどうかと、自分が用意できるかどうかは別の話だった。
「店のほうはできるだけ抑える。俺もお前から儲けようとは思ってない。だが、新しい契約に必要な金はどうにもならん」
「……いつまで?」
具体的な期限を聞き、悠麻は紙を見ながら頭の中で計算した。
今ある貯金。その間にもらえる給料。生活費を多少削ったとしても、到底届かない。
それでも、明日までに全額用意しろと言われたわけではなかった。
「じゃあ、まだ時間あるじゃん」
「あるにはあるが」
「だったら、なんとかするよ」
顔を上げると、マスターが眉間に皺を寄せた。
「簡単に言うな」
「別に簡単だと思ってないって。貯金もあるし、足りなきゃ銀行に相談するとか、融資とか、なんかあるだろ。そういうの全然調べたことないから、まずそこからやってみる」
口にしながらも、胃の辺りがじわじわ重くなっていた。
自分が今持っている金でどうにかなる額ではない。それくらいは分かる。
けれど、何も試していないうちから諦める気にもなれなかった。
マスターはそんな悠麻をしばらく見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「無理して残す必要はないんだぞ」
「……は?」
「俺が辞めたあと、ここを続けることだけが道じゃない。紹介できる店もある。お前なら場所が変わってもバーテンダーは続けられる」
「俺はここがいいんだけど」
思っていたより強い声が出た。
マスターが黙る。
悠麻も少しだけ視線を逸らした。
「……ここで働きたい」
他の店でも酒は作れる。バーテンダーだって続けられる。ここがなくなったからといって、自分の人生まで終わるわけではない。
そんなことは分かっている。
けれど、酒の並んだ棚も、何年も使ってきたカウンターも、いつも同じ場所に座る客たちも、悠麻にとっては全部ひっくるめてこの店だった。
別の場所に似たような店を作ったところで、同じものにはならない。
「まだ無理って決まったわけじゃないだろ。とりあえず、やれるだけやってみる」
「……そうか」
「意外と簡単に融資通るかもしれないじゃん」
「それは期待しないほうがいい」
「なんで夢壊すんだよ」
「現実の話してんだ」
「じゃあ宝くじも買っとく」
「無駄遣いするな」
「夢も見せてくれないの?」
そこでようやく、マスターが少しだけ笑った。
悠麻もつられて笑う。
そのまま残っていた片付けを済ませると、マスターは先に帰る支度を始めた。
「鍵、頼むぞ」
「はーい。お疲れ」
ドアへ向かったマスターが、途中で一度だけ振り返る。
「悠麻。無茶するなよ」
「しないって」
軽く返したものの、マスターは何か言いたそうな顔をしていた。
結局それ以上は何も言わず、店を出ていく。
ドアが閉まった。
また静かになった。
一人になった悠麻は、カウンターに置かれた紙を手に取った。
さっきは、なんとかすると言った。
銀行に相談すればいい。融資だってある。使える制度も、探せば何か見つかるかもしれない。
実際、まだ何も調べていない。
諦めるには早い。
そう思いながらスマートフォンを取り出し、銀行口座の残高を開いた。
「……」
表示された数字と、紙に書かれた合計額を見比べる。
細かな計算をするまでもなかった。
全然足りない。
「まあ……そりゃそうか」
これで足りるなら、最初から困っていない。
明日になったら銀行へ行こう。
自分がいくら借りられるのか。店を引き継ぐ場合に使える制度はないのか。何が必要で、どこまでなら現実的なのか。
まだ何一つ試していないのだから、諦めるのは全部やってからでいい。
そう決めてスマートフォンを伏せた。
そのとき、ふと店内の静けさが気になった。
顔を上げる。
さっきまで客が座っていた椅子が、きれいに並んでいる。
いつもと同じ店だった。
明日になれば、またドアが開く。いつもの顔が入ってきて、いつもの席へ座り、いつもの酒を頼む。この前の話の続きをして、笑って、帰っていく。
来週も。
来月も。
その先も。
それがずっと続くと思っていた。
マスターが引退したら、今度は自分がこのカウンターの中に立って、この店を続けていく。それもいつの間にか、当たり前の未来になっていた。
悠麻は誰もいなくなった店を、ゆっくりと見渡した。
「……なくなるのか、ここ」
誰もいない店に、その声だけが残った。
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