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## 第2章 足りない金
翌日の昼、悠麻は銀行にいた。
「こちらが直近二年分になります」
「ありがとうございます」
差し出された書類を受け取ると、担当者が一枚ずつ確認していく。悠麻は向かいの椅子に座ったまま膝の上で手を組み、こっそり欠伸を噛み殺した。
眠い。普段なら、まだ寝ている時間だ。
昨日は店を出て家に帰ってからも、マスターにもらった紙をローテーブルに広げて、しばらく数字と睨み合っていた。
貯金を確認し、これからの生活費をできるだけ削った場合まで計算した。店を引き継ぐために必要な金額から、用意できそうな金を片っ端から引いていったが、それでもかなりの額が残った。
何度計算し直しても、当然ながら結果は変わらない。
「白河様。現在お勤めの店舗を引き継いで、ご自身で経営される予定ということでよろしいでしょうか」
「はい。今のマスターが引退するので」
担当者は頷き、店を引き継ぐための費用や、新たな賃貸契約に必要となる保証金について確認していった。
こういう場所は苦手だった。
聞き慣れない言葉が多いうえに、金利だの返済期間だの、普段の生活では考えもしない数字が次々に出てくる。それでも、自分の店のことなのだから、分からないまま適当に頷いて帰るわけにはいかない。
「すみません。そこのところ、もう一回説明してもらってもいいですか?」
「もちろんです」
分からないところは聞き直した。
自己資金を増やせば借りられる額も増えるのか。返済期間を変えたらどうなるのか。店の現在の売上や収支も見てもらい、引き継いだあとも営業を続けた場合の見込みについて相談した。
思いつくことは一通り聞いた。
一時間近く経った頃、担当者が一枚の紙を悠麻の前へ置いた。
「現時点では、こちらの金額が一つの目安になるかと思います」
「……そうですか」
紙に書かれた数字を見る。
まったく借りられないわけではなかった。それなりの額ではあるし、昨日まで融資について何も知らなかった悠麻が想像していたより、きちんと相談にも乗ってもらえた。
それでも。
足りない。
「分かりました。ありがとうございます」
頭を下げて銀行を出た。
自動ドアを抜け、外の空気に触れたところで、悠麻は溜めていた息を一気に吐き出した。
「……全然足りねえ」
スマートフォンの電卓を開き、提示された金額と自分の貯金を足してみる。それを必要額から引けば、見たくもない数字が残った。
念のため、もう一度計算する。
同じ数字が出る。
「知ってるよ」
電卓に文句を言って画面を消した。
計算し直したところで、金が増えるわけではない。
時刻を確認すると、店へ行くまでにはまだ時間があった。
昨日までなら寝ていた時間だ。
けれど今は、眠っている時間のほうが惜しかった。
*
それから数日、悠麻は昼間になると金のために動き回った。
別の金融機関にも相談した。事業向けの融資を調べ、使えそうな制度を見つけては、自分が対象になるのか問い合わせた。必要だと言われた書類を揃え、マスターにも店の売上や収支が分かる資料を出してもらった。
自分の金も、改めて全部洗い出した。
普段使っている口座だけでなく、ほとんど触っていないものや、昔作ったまま放置していた口座まで確認する。
「……あった」
久しぶりに開いた口座の残高は、二万八千四百円だった。
「ないのと一緒じゃん」
そう呟きながらも、計算にはきっちり足した。二万八千四百円だって金は金だ。
次は、売れるものがないか部屋の中を探した。
昔はもう少し高い服も持っていたし、時計やアクセサリーもあった。けれど、ホストを辞めてから少しずつ手放している。
今残っているのは、普通の服と普通の家具、それに仕事で使うものくらいだった。
念のためクローゼットの奥まで漁ったものの、まとまった金になりそうなものは何一つ出てこない。
「俺、健全になったなあ」
床に座り込んだまま呟いて、少し笑った。
昔なら、何もない自分の部屋を見て、こんなふうには笑えなかったかもしれない。
今の店を諦めて、別の場所へ移ることも考えた。
同じ場所にこだわらなければ、必要な金額は下がる。そう思って物件を探し、家賃や広さ、立地、初期費用を一つずつ見比べた。すぐに営業を始められそうな居抜き物件の中には、今の自分でも手が届くかもしれないと思えるところまであった。
けれど、何軒見ても内見の問い合わせをする気にはなれなかった。
「……違うんだよな」
スマートフォンに映った、知らない店のカウンターを眺める。
新しいバーを開きたいわけではない。
自分の店を持つこと自体が目的なら、ここまで困っていない。もっと安い場所を探して、一から始めればいい。
残したいのは、あの店だった。
何年も立ってきたカウンターがあって、酒の並んだ棚があって、あのドアを開けていつもの客が入ってくる。
そういうものを全部まとめて、失いたくなかった。
安い物件を見つけるたび、かえってそのことだけがはっきりした。
*
「悠麻くん、今日なんか疲れてない?」
その夜、カウンターの向こうから言われ、悠麻は苦笑した。
「分かります?」
「分かるよ。顔死んでる」
「ひどいなあ。最近ちょっと昼間に用事が多くて」
「夜の男が昼間に動くもんじゃないよ」
「俺、吸血鬼かなんかですか?」
客が笑う。
悠麻も笑いながら、いつものボトルへ手を伸ばした。
「昨日飲みすぎたって言ってたんで、今日は少し薄めにしときますね」
「あれ、言ったっけ」
「言ってましたよ。帰ったら奥さんに怒られたって」
「余計なことばっか覚えてんなあ」
「大事なことですよ」
氷の入ったグラスへ酒を注ぎ、客の前へ置く。
「今日はこれくらいにしといてくださいね」
「商売する気あんの?」
「長く通ってもらうほうが大事なんで」
そう返すと、客は笑いながらグラスを傾けた。
悠麻も笑って、別の客に呼ばれたほうへ向かう。
仕事をしている間だけは、金のことを考えずに済んだ。
注文を聞いて、酒を作る。前に聞いた話の続きを聞き、笑う。空いたグラスを洗っているうちに、また別の注文が入る。
何年も繰り返してきた、いつもの夜だった。
けれど今は、その当たり前の光景を見るたびに、ここがなくなるかもしれないという事実が頭の隅に引っかかる。
昼間に見た物件の写真が浮かんだ。
もっと安い店はあった。
そこで同じ酒を作ることだってできる。
それでも、違う。
カウンター越しに客の笑い声を聞きながら、悠麻は改めて思った。
やっぱり、この場所をなくしたくない。
*
「……これは無理だろ」
友人は、悠麻のスマートフォンに表示された数字を見て顔をしかめた。
学生の頃からの付き合いで、悠麻がホストを始めたことも、辞めたことも知っている。今の店で働き始めた頃には三日で辞めると言われたが、気づけばもう何年も経っていた。
「足りない分?」
「うん。貯金も、今のところ借りられそうな金も全部入れたあと」
「俺に相談する額じゃねえじゃん」
「金貸してくれって言ってないだろ。なんか方法ないかって聞いてんの」
悠麻がこれまで試したことを話すと、友人はしばらく考えていたが、やがて困ったように頭を掻いた。
「そこまでやって駄目なら、もう金持ちの知り合いにでも頼むしかなくね?」
「そんな都合のいいやつ――」
言葉が、一瞬だけ止まった。
「――いるわけねえだろ」
友人は気づかなかったらしく、「だよなあ」と頷いただけだった。
悠麻は水を一口飲む。
頭に浮かんだものを、そのまま沈めた。
「でも、お前がここまで必死になるとは思わなかったわ」
「なにそれ」
「昔は仕事なんかなんでもいいって感じだったじゃん。ホスト辞めたときも、次どうすんのって聞いたら『なんとかする』しか言わなかったし」
言われてみれば、そうだったかもしれない。
あの頃のことは、あまり思い出したくない。
自分だって悪かった。
それだけで十分だった。
「……好きなんだよ、今の仕事」
悠麻はテーブルの上の資料へ目を落とした。
「店も、客も。だから残したい」
友人は少しだけ意外そうな顔をしたあと、「そっか」と頷いた。
結局、金を用意する方法は見つからなかった。
それでも別れ際、何か思いついたら連絡すると言ってくれた。
悠麻は礼を言った。
期待はしていなかった。
友人にどうにかできる額ではないことくらい、自分が一番よく分かっていた。
*
それでも、金は増えなかった。
返事を待っていた融資も希望額には届かず、使えると思っていた制度は条件が合わなかった。そのあとも思いつく方法を調べてみたが、何度計算しても、何を足しても、必要な額には届かない。
閉店後、結果を聞いたマスターは、しばらく黙ってから言った。
「もういいんじゃないか。十分やっただろ」
「……もうちょっと探す」
「店なんか、また作れる。場所が変わっても、お前についてくる客はいる。ここにこだわって無茶な借金する必要はない」
「分かってるよ」
マスターの言うことは正しい。
ここがなくなっても人生が終わるわけではない。バーテンダーは続けられるし、別の店で働きながら金を貯めて、いつか自分の店を持つことだってできる。
そっちのほうが、ずっと現実的だった。
それでも。
「……もうちょっとだけ、やらせて」
マスターはしばらく悠麻を見ていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「好きにしろ。ただし、無茶はするなよ」
「分かってるって」
「それが一番信用ならん」
「ひどいなあ」
笑って返した。
マスターも、それ以上は止めなかった。
*
家に帰ったのは、午前二時を過ぎていた。
明かりをつけ、上着を椅子へ掛ける。冷蔵庫から水を出してローテーブルの前に座ると、ここ数日で集めた書類が目に入った。
融資の資料。
使えるかもしれないと思って調べた制度。
店の収支。
新しい契約に必要な金額。
自分の貯金。
何度も計算して、書き直した数字。
悠麻は電卓を手に取り、もう一度だけ計算した。
貯金に、借りられる金を足す。ほかに用意できそうなものも全部入れて、それを必要な額から引く。
「……足りねえなあ」
結果は変わらなかった。
普通に借りられる範囲では足りない。
友人一人に頼める額でもなければ、何人かから少しずつ集めてどうにかなるような金額でもない。
必要なのは、まとまった金を出せる人間だった。
それも、この不足額を見せられても顔色を変えないような人間。
『もう金持ちの知り合いにでも頼むしかなくね?』
友人の言葉が蘇った。
悠麻は水を一口飲んだ。
いる。
一人だけ。
昼間は反射的に否定した。
けれど本当は、友人に言われるよりずっと前から、頭のどこかには浮かんでいた。
だからこそ、考えないようにしていた。
「……いや」
小さく呟く。
それは駄目だ。
スマートフォンを手に取り、時刻を見る。
午前二時四十三分。
画面を消そうとして、指が止まった。
しばらくそのまま動かなかったが、やがてもう一度ロックを解除する。
連絡先を開いた。
昔の知り合いや、もう何年も話していない人間の名前が並んでいる。ホストを辞めてから必要のなくなった連絡先はかなり消した。
七年も前だ。
残っているとは限らない。
そう思いながら探している時点で、自分が何をしようとしているのかくらい分かっていた。
「……何やってんだろ」
指を滑らせる。
そして。
ある名前のところで、ぴたりと止まった。
「……あ」
残っていた。
名前を見ただけで、胸の奥が重くなる。
七年間、一度も連絡していない。
向こうから連絡が来たこともない。それは当然だと思っている。
自分は、辞めることすら伝えなかった。
誰よりも金を使ってくれた人だった。あの人がいなければ、自分があそこまで売れることもなかった。
それなのに最後は、何も言わずに店を辞めた。
それっきりだ。
今さら電話して、何を言う。
久しぶりです。
元気でしたか。
俺は今、バーで働いてます。
それで。
店を残すのに金がいるんです。
助けてもらえませんか。
「……最悪じゃん」
乾いた声が漏れた。
七年間、一度も連絡しなかった。
謝りもしなかった。
会いたくなったわけでも、声が聞きたくなったわけでもない。
自分が困って。
金が必要になって。
それで思い出した。
そんな連絡を受けたら、自分ならどう思う。
「無理だろ……」
画面を閉じようとする。
けれど、指が動かなかった。
そこには、七年前に登録したままの名前が残っている。
**久世和真**
電話番号も消えていない。
今も同じ番号を使っているのかは分からない。和真のほうは、悠麻の番号などとっくに消しているかもしれない。
出ない可能性だってある。
むしろ、そのほうが当然だった。
親指が、ゆっくり名前の上まで動く。
触れればいい。
それだけで電話はかかる。
「……」
けれど、あと少しのところで止まった。
七年。
その長さが、数ミリの距離をどうしても埋めさせてくれなかった。
悠麻はしばらく画面を見つめたあと、親指を離した。
スマートフォンを伏せる。
「……今日は無理」
誰に言うでもなく呟いた。
静かな部屋には、何の返事もない。
七年間、一度もかけなかった番号に。
その夜も、電話をかけることはできなかった。
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