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## 第3章 久世さん
翌朝、目を覚ました悠麻が最初に見たのは、ローテーブルの上に伏せたスマートフォンだった。
布団の中からしばらくそれを眺める。
昨夜、七年前と変わらない名前で連絡先に残っているのを見つけた。
久世和真。
電話はしなかった。
正確には、できなかった。
「……仕事行こ」
まだ出勤するには早すぎる時間だと分かっていながら、悠麻は現実逃避するように布団を頭まで被った。
*
その日も、店はいつも通りだった。
「悠麻くん、ビール。あとなんか食べるものある?」
「この前のホットサンドにします? 気に入ってたでしょ」
「あれ、なんだっけ」
「生ハムとチーズのやつ」
「ああ、それ。よく覚えてんなあ」
「仕事なんで」
そう言ってビールを注ぐ。
客が来て、酒を作り、話を聞く。
昨日までと何も変わらない夜のはずだった。
それなのに、ふとした瞬間にズボンのポケットへ意識が向いてしまう。
そこにはスマートフォンが入っている。
その中には、久世の番号がある。
電話しようと思えば、いつだってできる。
「悠麻くん」
「あ、はい」
「ビール」
「え?」
「溢れてる」
慌てて手を止める。
グラスの縁から泡が流れ、手元まで濡れていた。
「うわ。すみません、作り直します」
「珍しいな」
「ちょっとぼーっとしてました」
苦笑しながら新しいグラスを取る。
こんなことで仕事にまで影響を出してどうする。
そう思っても、ポケットの中のスマートフォンは一晩中、妙に重かった。
*
七年前。
久世和真は、悠麻の客だった。
正確には、悠麻がホストだった頃の源氏名――HARUの客だ。
久世は、とにかく金を使った。
「かなり」なんて言葉では足りない。当時の悠麻には想像もつかなかった額を一晩で平然と使うこともあり、久世が来るようになってからHARUの売上は一気に伸びた。
順位が上がれば、新しい客も増えた。
そこで客を掴めたのは自分の力だったと思う。相手の話を聞き、前に話していたことを覚え、次に来たときにはその続きを聞いた。どうすればまた来てもらえるのか、自分なりに考えて働いた。
けれど、自分があそこまで上がる最初のきっかけを作ったのが誰だったのかは、悠麻自身が一番よく分かっている。
久世さんだった。
あの人がいなければ、自分はきっと、あそこまで売れていない。
それなのに。
最後に自分がしたことは、何も言わずに店を辞めることだった。
「……最低だよなあ」
帰宅した悠麻はベッドへ寝転がり、目元を腕で覆った。
辞めることは伝えなかった。
今までありがとうございましたとも、今日で最後ですとも言わなかった。
本当に、何も。
久世はそのあと、店へ来たのだろうか。
いつものようにHARUを指名して、そこで初めて知らされたのかもしれない。
『HARUなら辞めましたよ』
そんなふうに。
そのとき久世がどう思ったのかは分からない。
考えたくなくて、七年間ずっと考えないようにしてきた。
あの頃のことは、今でもあまり思い出したくない。
自分だって悪かった。
それだけは分かっている。
だからといって、久世に何も言わず消えてよかったことにはならない。
どんな事情があったにせよ、少なくともあの人には、自分の口から伝えるべきだった。
「……今さらだよな」
謝るつもりなら、もっと前にできた。
一年後でも、二年後でも。
番号はずっと残っていたのだから、一度くらい連絡できたはずだ。
それを七年間放っておいて。
金に困った今になって、久世を思い出した。
会いたくなったからではない。
声が聞きたくなったわけでもない。
金が必要だからだ。
それが、何より嫌だった。
七年前にあれだけ世話になった相手へ、七年ぶりにする連絡が金の無心。
そんな人間にだけはなりたくなかった。
だから、電話ができなかった。
*
数日後、返事を待っていた金融機関から連絡が来た。
「……はい。分かりました」
ローテーブルの前に座り、相手の説明を最後まで聞く。
「ありがとうございます。失礼します」
電話を切った。
少しの間、そのまま動かなかった。
「……駄目か」
融資自体が通らなかったわけではない。
けれど、希望した額には届かなかった。
これでまた一つ、道が消えた。
借りられる金額を書き直し、電卓を叩く。
残った数字を見て、悠麻はすぐに電卓を置いた。
もう計算し直す気にもならなかった。
足りない。
何度やっても同じだ。
銀行を回った。使えそうな制度も調べた。貯金も全部出すつもりでいる。友人にも相談したし、今の場所を諦めて移転することまで考えた。
やれることは、やった。
それでも駄目なら、諦める。
たぶん、それが普通だ。
悠麻はスマートフォンを握ったまま、ローテーブルに広がる書類を見つめた。
諦めれば。
あの店はなくなる。
*
その夜も、悠麻は午前一時まで店に立った。
最後の客を見送り、入口の札を裏返す。
グラスを洗い、水気を拭って棚へ戻す。ボトルの残量を確認し、椅子を整える。
何年も繰り返してきた作業だった。
けれど今日は、一つ一つが妙に目についた。
このカウンターも。
酒の並んだ棚も。
いつもの客が座る椅子も。
諦めれば、ここではなくなる。
「……」
悠麻はポケットからスマートフォンを取り出した。
連絡先を開く。
もう探す必要はなかった。
久世和真。
名前をタップすると、七年前から残ったままの電話番号が表示された。
その下にある発信のマークへ指を近づける。
けれど、押せなかった。
「合わせる顔ねえよ……」
七年も連絡していない。
あれだけ金を使ってもらったのに、何も言わずに辞めた。
それで今さら、助けてほしい。
そんなことを、どんな顔で言えばいいのか分からない。
「悠麻」
奥から呼ばれて顔を上げた。
マスターが帰る支度をしていた。
「俺、先帰るぞ。鍵頼むな」
「ん。お疲れ」
ドアが閉まる。
一人になった店内で、悠麻はもう一度画面を見た。
押せないまま、やがてスマートフォンを閉じた。
*
家に帰り、風呂から上がっても、久世の名前が頭から離れなかった。
ベッドへ腰を下ろす。
スマートフォンは手の中にある。
電話するなら、すればいい。
できないなら、諦めればいい。
結局は、その二つしかない。
久世に連絡しなければ、少なくとも今さら軽蔑されることはない。
七年前の自分のまま、もう二度と関わらずにいればいい。
その代わり。
店を失う。
「……」
目を閉じる。
浮かんできたのは、今日も立っていたカウンターだった。
酒の並んだ棚。
いつもの席。
前に聞いた話の続きを、次に来たとき嬉しそうに聞かせてくれる客たち。
午前一時になれば最後の客を見送り、入口の札をCLOSEDに変える。
何年も続けてきた、なんでもない毎日。
それを失いたくなくて、ここまでやった。
眠い昼間に銀行へ行った。
聞いたこともない言葉を調べた。
貯金を全部数えた。
別の物件まで探した。
友人にも相談した。
そこまでしておいて。
最後に残った一人へ電話するのが怖いから、諦めるのか。
「……くそ」
悠麻は目を開けた。
起き上がる。
スマートフォンの画面をつけると、もう迷わず連絡先を開いた。
久世和真。
名前をタップする。
発信のマークへ親指を乗せた。
怖い。
久世が今どうしているのかも分からない。
結婚しているかもしれない。
恋人がいるかもしれない。
自分のことなんて、とっくに忘れているかもしれない。
あるいは。
まだ怒っているかもしれない。
それでも。
何もしないで店を失ったら、きっと後悔する。
親指に力を入れた。
発信。
「……っ」
画面が切り替わる。
慌ててスマートフォンを耳へ当てると、心臓が一気に速くなった。
呼び出し音。
一回。
二回。
今ならまだ切れる。
三回。
出ないでほしい。
そんなことを思った。
電話をかけたのは自分なのに。
四回。
「……出ないか」
思わず息を吐いた。
安堵している自分がいた。
番号が変わっているのかもしれない。
知らない番号だから出ないだけかもしれない。
でも、自分はかけた。
出なかったのなら仕方がない。
これで――
『もしもし』
息が止まった。
「……」
『もしもし?』
聞き覚えのある声だった。
七年も経っている。
記憶の中より、少し低くなったような気がした。
それでも、分かった。
久世さんだ。
何か言わなければならない。
謝らなければならないことがある。
七年間、言えなかったこともある。
頼みたいことまである。
それなのに、いざ声を聞いた途端、用意していたはずの言葉は全部消えた。
悠麻はスマートフォンを強く握った。
ようやく出てきたのは、たった一言だった。
「……久世さん?」
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