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## 第4章 売れないHARU

 七年前。  久世和真がその店を訪れたのは、ホストクラブに興味があったからではない。 「一回くらいいいじゃないですか。社会勉強だと思って」  仕事関係の男にそう言われ、食事のあと半ば強引に連れてこられただけだった。 「三十一にもなって社会勉強?」 「三十一だからですよ。久世さん、こういうところ絶対来ないでしょ」 「来ないね」 「ほら」  何が「ほら」なのかは分からなかったが、一時間程度なら付き合ってもいい。そう思って入った店は、和真が普段酒を飲む場所とは何もかもが違っていた。  明るい照明に大きな音楽、華やかな格好をした男たち。あちこちで笑い声が上がり、グラスの触れ合う音が絶えず聞こえてくる。  案内された席には、すぐに何人かのホストが代わる代わるついた。  どの男も話がうまかった。  和真の時計に気づき、スーツを褒め、仕事を訊く。答えればそこから話を広げ、会話が途切れそうになれば次の話題を持ってくる。  それ以上に印象に残ったのは、距離の近さだった。  酒を作るために伸ばした手が腕へ触れる。笑えば肩が寄る。話をするときだけ少し顔を近づける。  露骨というほどではない。おそらく、相手に不快感を与えない距離を見極めながらやっているのだろう。  よくできた接客だと思う。  ただ、普段は一人で静かに飲むことの多い和真には、少しばかり忙しかった。 「久世さん、もう疲れてるでしょ」  向かいに座る連れに笑われた。 「そんなに顔に出てる?」 「出てますよ。接待されるの向いてないんじゃないですか?」 「そうかもね」  和真が苦笑したところで、それまで席についていたホストと入れ替わるように、一人の青年がやってきた。 「失礼します。HARUです」  若い。  最初にそう思った。  あとで二十四歳だと知ったが、年齢より少し幼く見える。整った顔をしているし、笑えば目を引きそうではあるものの、ここまで席についた男たちと比べると格好も髪型もおとなしかった。  そして、座った位置が遠い。  普通に会話するには何の問題もない距離だ。それでも、先ほどまでの男たちが当たり前のように肩や膝が触れそうなところまで寄ってきていたせいで、二人の間に妙な空間があるように感じられた。 「久世さん、今日初めてなんですよね?」 「そう」 「どうです? ホストクラブ」 「本人に訊くんだ」 「気になるじゃないですか」  正直に答えていいものか少し迷ったが、HARUは本当に知りたそうにこちらを見ている。 「ちょっと疲れたかな」  すると一瞬目を丸くしたあと、HARUが声を上げて笑った。 「あはは、やっぱり?」 「やっぱりって?」 「さっきから、あんまり自分から喋ってなかったから。こういう賑やかなところ苦手なのかなって」  どうやら、席につく前から少し見ていたらしい。  HARUは和真のグラスを確認すると、同じ酒を作りながら普段はどこで飲むのかと訊いてきた。 「家が多いかな」 「一人で?」 「だいたい」 「じゃあ静かなほうが好きなんだ」  その返しが、和真には少し意外だった。  自分なら楽しくさせられるとも、この店も悪くないでしょうとも言わない。ただ答えをそのまま受け取って、そこから仕事の帰宅時間や家で何をして過ごすのかへ話を広げていく。  質問ばかりというわけでもなかった。  和真が話し始めれば途中で奪わず、言葉に詰まれば急かさない。何気なく口にしたことにもきちんと反応するので、相槌だけ打って聞いているふりをされている感じもしなかった。  聞くのがうまい。  それに、やはり距離が変わらない。  話が盛り上がってHARUが笑っても、肩を寄せてくることはない。腕にも触れないし、膝がぶつかるほど近づくこともなかった。  だからといって、よそよそしいわけでもない。  目を見て話す。  よく笑う。  こちらが口にした話題には興味を示し、自然に話を広げる。  接客が下手には思えなかった。 「HARUって新人なんですよ」  向かいにいた連れが言った。 「三か月くらいだっけ?」 「はい」 「へえ」 「でも話しやすいって評判はいいんですよ。売上は全然ですけど」 「それは言わなくていいじゃないですか」  HARUが困ったように笑う。 「だってお前、この前もボトル一回断られただけで引いただろ。もうちょっと押せって言われてんじゃん」 「……はい」  先ほどまでとは少し違う笑い方だった。  反論するわけでもなく、素直に頷いている。 「高い酒を勧めるの苦手なの?」  和真が訊くと、HARUは少し考えた。 「勧めるのは平気ですよ。値段も特徴も覚えてますし。でも、一回いらないって言われたあとに押すのが、ちょっと苦手で」 「嫌がられそうだから?」 「はい」  それだけで、売れない理由がなんとなく分かった。  接客ができないわけではない。  むしろ話しているだけなら、ここまでついた中でもかなりうまいほうだと思う。  けれど、この仕事は客に気持ちよく話をさせるだけでは売上にならない。  高い酒を頼ませる。  次の来店を約束させる。  自分を選ばせる。  そのためには、ときに相手の懐へ踏み込み、欲しがられ、断られてももう一歩押す必要があるのだろう。  HARUには、その最後の一歩がない。  妙に身体へ触れないことも、おそらく同じだった。  できないというより、相手が求めているか分からないことを自分からするのが苦手なのかもしれない。 「接客は自信あるんですけどね」  HARUが少しだけ笑った。 「そこはあるんだ?」 「ありますよ。人と話すの好きだし、人の話聞くのも好きなんで」 「でも営業は苦手」 「……そこは練習中です」  少し情けなさそうに付け足す。  和真はテーブルのメニューを手に取った。  当然ながら、普段自分が飲んでいる店では見ないような値段が並んでいる。 「じゃあ練習してみたら?」 「え?」 「俺に営業」  HARUは少し驚いたあと、和真の持っているメニューを覗き込んだ。  しばらく考えて、一つのボトルを指す。 「じゃあ、これ。俺は好きです」 「美味しい?」 「甘すぎないし、飲みやすいですよ」 「いくら?」  HARUはすぐに値段を答えた。  さすがにそこは迷わない。 「今日はいいかな」 「分かりました」  あっさり引いた。  和真は思わず笑った。 「今ので終わり?」 「あ」  HARUも気づいたらしい。  けれど、すぐに困ったような顔になる。 「……でも、いらないんですよね?」 「うん」 「じゃあ、やっぱりいいです」 「売れなさそうだね」 「久世さんまで言うんですか?」  傷つくなあ、と言いながらHARUが笑う。  その笑顔に嫌味はなかった。  結局、自分が売れないことより、客に嫌な顔をされるほうが嫌なのだろう。  そのあと、連れが仕事の話を始めた。  そこから和真の会社の名前が出て、余計なことまで話される。 「久世さん、自分じゃ言わないけど結構すごい人なんですよ」 「余計なこと言わなくていいよ」  HARUは会社名を聞いて「ああ」と声を上げた。 「知ってます」 「でしょ?」 「久世さんの会社だったんだ」  さらに話が進み、和真が単なる会社員でも雇われの経営者でもなく、相当な資産を持っていることまで伝わった。 「……めちゃくちゃ金持ちじゃないですか」 「言い方」 「だってそうなんでしょ?」 「まあ、金には困ってないかな」 「いいなあ」  HARUは素直に羨ましそうな顔をした。  和真は何も言わず、その横顔を見た。  これまでにも何度も経験している。  金があると分かった瞬間、人の態度は変わる。  急に丁寧になる者もいる。  距離を縮めてくる者もいる。  それまで興味を示さなかったことを知りたがる者もいる。  まして、ここは客に金を使わせる場所だ。  ついさっき、高いボトルを一度断られただけで引いてしまうと注意されたばかりでもある。  今度こそ、もう一度勧めてくるかもしれない。  ところがHARUが次に口にしたのは、酒の話ではなかった。 「そういえば、さっき遅い日は日付変わってから帰るって言ってましたよね」 「うん」 「朝は?」 「早い日は八時くらいかな」 「寝る時間なくないですか?」  金の話は、それで終わった。  座る位置も変わらない。  身体にも触れない。  さっき断ったボトルの名前も出てこない。  財力を知る前と同じ調子で、睡眠時間が短すぎるだの、家で飲むなら何か食べたほうがいいだのと話している。 「何ですか?」  見ていたことに気づいたHARUが首を傾げた。 「いや。なんでもない」 「変なの」  そう言って笑った。  目尻が下がる。  その笑顔も、金の話をする前と何も変わっていなかった。  和真はほんの少し、その顔を見つめた。  ここへ来てから、何人もの笑顔を見た。  どれも綺麗だったし、客を気分よくさせるためのものとして完成されていた。  HARUだってホストなのだから、笑顔のすべてが素のものだとは思わない。  それでも今の顔は、自分が金を持っているから向けられたものではないように見えた。 「久世さん、さっきより楽しそうですね」 「そう?」 「はい。最初、ちょっと疲れてたから」 「君と話してると楽なのかもね」  HARUが少し驚いた顔をした。  それから、嬉しそうに笑った。 「よかった」  ただ、それだけだった。  そこから指名の話へ持っていくわけでもない。  次にいつ来るのかと訊くこともない。  その商売っ気のなさに呆れる一方で、和真にはそれが心地よかった。  何かを求められている感じがしない。  自分の反応を試されている感じもしない。  ただ話している。  気づけば、店へ入ってから思っていた以上に時間が経っていた。 「そろそろ帰ろうかな」 「明日も仕事ですもんね。早いんでしょ?」  HARUはすぐに頷いた。 「ありがとうございました」 「止めないんだ?」 「え?」 「いや、なんでもない」  また来てくださいくらいは言うだろうと思っていた。  けれどHARUは和真が席を立つと一緒に入口まで来て、初めてのホストクラブはどうだったかと訊いただけだった。 「思ってたより楽しかったよ」 「ほんとですか?」 「うん」 「よかった」  その瞬間、ぱっと表情が明るくなった。  和真が金を使ったときよりも――と言っても、今日は大したものを頼んでいないが――自分と話して楽しかったと言われたことのほうが嬉しいらしい。 「じゃあ、また来てくださいね」 「それは営業?」 「営業です。これくらいは俺もします」 「次はいつ来て、とか言わないの?」  HARUは少し考えた。 「……来たくなったら?」 「俺に委ねるんだ」 「だって、忙しいんでしょ?」  やはり売れなさそうだ。  和真は笑った。 「じゃあね、HARU」 「はい。おやすみなさい、久世さん」  店を出た。  その時点では、HARUに特別な感情を持ったつもりはなかった。  顔が特別好みだったわけでもない。  もっと華やかで、もっと客の扱いがうまくて、もっと自分を楽しませようとしてくれた男はいくらでもいた。  ただ。  一緒にいて疲れなかった。  金があると知る前と知ったあとで、何も変わらなかった。  そして、よく笑う男だった。  その三つだけが、妙に印象に残った。  *  それから十日ほど経った夜。  仕事を終えた和真は、一人で同じ店を訪れた。  前回連れてきた男はいない。  その日は朝から予定が詰まり、一日中誰かと話していた。ようやく仕事を終えた頃には、誰かと飲みたい気分など残っていなかった。  家へ帰って、一人で静かに酒を飲む。  いつもなら、それでよかった。  けれど車の中で、ふとあの店を思い出した。  正確には。  あの男を。 「いらっしゃいませ」  スタッフに迎えられる。 「本日、ご指名はございますか?」  和真は一瞬だけ黙った。  どうしても会いたかったわけではない。  まだ、そんなものではなかった。  ただ今日みたいな夜に隣へ座られるなら、必要以上に触れてこなくて、何かを買わせようと必死にならなくて、こちらが話せばきちんと聞いてくれる男がよかった。 「HARUで」 「かしこまりました」  席へ案内されて間もなく、店の奥からHARUがやってきた。  和真を見つけた瞬間、少し驚いた顔をする。 「……久世さん?」 「こんばんは」 「ほんとに来た」  その顔が、すぐに崩れた。  嬉しそうに笑う。 「俺、営業成功した?」 「そうみたいだね」 「やった」  HARUが隣へ腰を下ろした。  肩は触れない。  膝も触れない。  十日前と同じ距離だった。  和真はそれを見て、なぜか少しだけ安心した。

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