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# 第5章 覚えている男

 二度目に店を訪れた夜も、HARUは十日前と同じ距離に座った。 「今日もウイスキーでいいですか?」 「覚えてたんだ」 「そりゃ覚えてますよ」  HARUは当たり前のように答え、グラスを用意する。 「今日は家で飲んできてないですよね?」 「飲んでないよ」 「よかった」  和真はHARUを見た。 「それも覚えてるの?」 「仕事遅くなっても家で飲むことあるって言ってたじゃないですか」 「十日前だよ?」 「話したから覚えてるだけですよ」  何でもないことのように言う。  和真にとっては、そのほうが不思議だった。  初めて会った日に話したのは、どれも大したことではない。  仕事が忙しいこと。  家で一人で飲むことが多いこと。  帰りが遅くなる日もあること。  空腹のまま酒を飲むことがあること。  金額の大きな注文をしたわけでもない。HARUにとって特別な客になるようなことは、何もしていなかった。  それなのに覚えている。 「今日はちゃんと飯食いました?」 「食べたよ」 「ほんとに?」 「疑うね」 「前科あるから」 「一回聞いただけで?」 「俺の中ではあります」  HARUが笑う。  つられて和真も笑った。  やはり、楽だった。  HARUはよく喋るし、よく訊く。けれど、自分のしたい話へ無理に持っていくことはない。  和真が話せば聞く。  そこから気になったことを訊く。  そして、一度聞いたことをよく覚えていた。 「そういえば、初めて来た次の日、朝から仕事だったんですよね。ちゃんと起きられました?」 「そんなことまで覚えてるの?」 「疲れてるって言ってたから」 「起きたよ」 「よかった」  HARUは本当に安心したように笑った。  作っているというより、思ったことがそのまま顔に出ているような笑い方だった。  和真は、その顔を見るのが少しずつ好きになっていた。  *  二度目の来店でも、HARUは高い酒をねだらなかった。  メニューを見ていた和真に新しく入った酒を説明してくれたことはある。 「この三本なら、久世さんはこれかな」  HARUが指したのは、その中で一番安いものだった。 「それ?」 「甘すぎるの、そんなに好きじゃないでしょ?」 「覚えてるんだ」 「この前言ってたから」  高いほうが売上になるはずなのに、HARUは値段ではなく和真の好みで選んだ。 「じゃあ、それにしようかな」 「いいんですか?」 「君が勧めたんでしょ」 「あ、そうだった」  HARUが笑う。  十二万。  安い酒ではない。  けれど和真にとっては、注文を迷うような額でもなかった。  それをHARUも知っているはずなのに、もっと高いものへ誘導しようとはしなかった。  帰り際、美味しかったと伝えると、 「ほんと? よかった」  また嬉しそうに笑った。  その顔を見ながら、ふと思う。  この男は、何をしたらもっと喜ぶのだろう。  すぐに、妙なことを考えたと思い直した。  *  三度目は、五日後だった。  その日は朝から予定が狂い続けた。  半年近く進めていた案件がほとんど白紙に戻り、その処理で会議が長引き、終わったと思えば別件の電話が入った。  会社を出る頃には、誰とも話したくないほど疲れていた。  車へ乗り込み、一度は自宅を告げた。  けれど数分後。 「行き先、変えてもらえる?」  口にしたのは、あの店の住所だった。  自分でも少し可笑しかった。  初めて来た日は、騒がしくて疲れる店だと思ったのに。  今は疲れたから、そこへ向かっている。  ただし、会いたいのは店ではなかった。 「本日、ご指名はございますか?」 「HARUで」  もう迷わなかった。  ほどなくしてHARUがやってくる。 「久世さん。今日早くないですか?」 「そう?」 「五日ですよ」 「数えてたの?」 「また来てくれたらいいなと思ってたから」  さらりと言って、HARUはいつもの場所へ座った。 「今日も仕事帰り?」 「今終わったところ」 「飯は?」 「まだ」  HARUの手が止まる。 「また?」 「またって」 「空腹で飲むの駄目だって言ったじゃないですか」 「本当によく覚えてるね」 「久世さんが同じことするからでしょ」  少し呆れながら笑う。  その顔を見ているだけで、仕事中ずっと張っていたものが少し緩んだ。  しばらくしてHARUが和真を見た。 「今日、なんかありました?」 「どうして?」 「疲れてる」  初めて来た日にも言われた。  けれど今日は、誤魔化す気にならなかった。 「半年くらい進めてた仕事が、今日ほとんど白紙になってね」 「半年?」 「うん」 「それはきついな」  HARUはそれ以上すぐには訊かなかった。  励ますこともしない。  大丈夫だとも言わない。  だからなのか、和真のほうから続きを話していた。  自分のミスではないこと。  それでも結局は自分が立て直さなければならないこと。  また一から調整が必要になること。  HARUは黙って聞いていた。 「やり直すんですか?」 「そのつもり」 「じゃあ、終わってないじゃないですか」 「……そうだね」 「だったら今日はムカつくだけムカついて、明日また考えればいいですよ」  あまりにも簡単に言うので、和真は笑った。 「簡単に言うね」 「だって俺、会社のこと分かんないし。俺が考えて解決するなら考えますけど」 「それもそうだ」  今日初めて、まともに笑った気がした。  HARUも笑う。  和真はその顔を見ながら思った。  ここへ来てよかった。  * 「HARU」  近くを通ったホストが声をかけた。 「ちょっといい?」 「あ、はい」  HARUは立ち上がり、少し離れたところへ向かった。  聞くつもりはなかった。  けれど、一部だけ耳に入った。 「今日締め日だぞ」 「はい」 「あとちょっとなんだから、もう少し頑張れよ」 「……はい」  短いやり取りだった。  戻ってきたHARUは何事もなかったように座る。 「すみません」 「今日、締め日なんだ?」 「ああ、聞こえました?」 「うん」 「月末なんで」  それだけ言って、HARUは和真のグラスを確認した。  売上の話をする気はないらしい。 「今、何位なの?」 「え?」 「ランキング」  HARUは少し困ったように笑った。 「下のほうですよ」 「上がるには、あとどれくらい?」 「なんでそんなこと訊くんです?」 「気になったから」  HARUは少し迷ってから、おおよその金額を答えた。  次の順位までなら、大した額ではなかった。  和真はメニューを開く。  並んだ酒を見て、一つを指した。 「じゃあ、これ」  HARUがメニューを覗き込み、目を見開いた。 「……久世さん、これ高いですよ」 「知ってる」 「さっきの聞いたから?」 「それもある」 「だったら、そんなに使わなくていいですよ」  やはり止める。  普通なら逆なのではないかと思う。  和真がこれまで席についたホストなら、少なくとも注文を撤回させるようなことはしなかっただろう。 「HARU」 「はい」 「俺が入れたいんだよ」  それだけ言うと、HARUは黙った。  和真はもう一度、メニューを指す。 「これで」 「……ほんとに?」 「うん」  まだ少し迷っていたが、HARUはようやくスタッフを呼んだ。  注文が通る。  店内の空気が変わった。  スタッフの声が上がり、人が集まってくる。  和真には馴染みのない騒がしさだった。  テーブルへ酒が運ばれ、HARUの売上として計上されていく。  その結果、HARUの順位も上がるらしい。  けれど当の本人は、周囲ほど浮かれてはいなかった。  騒ぎが落ち着いたあと、HARUが和真を見る。 「久世さん」 「ん?」 「ありがとうございます」 「うん」 「……ほんとに、こんなに使わなくてよかったのに」  困ったように笑っている。  順位が上がったことより、和真が大金を使ったことのほうを気にしているらしい。 「嬉しくない?」 「嬉しいですよ。そりゃ」  HARUは少し考えてから続けた。 「でも、順位は別に……上がったら上がったで嬉しいけど」 「その程度なんだ」 「だって、一位になりたくてホスト始めたわけじゃないし」  あっさりしたものだった。  和真には、そのほうが面白かった。  周りは順位を上げろと言う。  売上を作れと言う。  本人も仕事だから従っている。  けれど、それ自体を強く欲しがっているわけではない。 「変なの」 「久世さんに言われたくないですよ」 「なんで?」 「こんな金使っといて」  HARUが笑った。  いつもの笑顔だった。  初めて会った夜。  和真が何者なのか知らなかったときと同じ。  金持ちだと知ったあとも。  大きな金を使った今も。  笑い方は変わらない。  和真はその顔を見つめた。  順位そのものには大して興味がないらしい。  なら。  もっと上まで行ったら、この男はどうするのだろう。  周りの扱いが変わるほど。  店の誰もがHARUの名前を知るほど。  もっと大きな金を使ったら。  そのときも、同じ顔で笑うのだろうか。  和真はグラスを傾けた。  自分でもまだ気づいていなかった。  この夜から。  HARUが欲しがってもいないランキングを上げることに、和真のほうが興味を持ち始めていた。

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