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最終章 今度は俺が選ぶ
会社の場所は覚えていた。
以前、和真が忘れた革のケースを届けに来たことがある。
あのときと同じビルへ入り、受付へ向かう。
「あの、すみません」
「はい」
「久世和真さんに会いたいんですけど」
受付の女性が悠麻を見る。
一瞬だけ、顔に見覚えがあるような反応をした。
「お約束はございますか?」
「ないです」
「恐れ入りますが、アポイントのない方はお取次ぎできないことになっておりまして」
「じゃあ、ここで待ちます」
「え?」
「久世さんが出てくるまで」
「ですが……」
「お願いします」
受付の女性が明らかに困った顔をした。
悠麻だって、無茶を言っているのは分かっている。
けれど電話には出ない。
メッセージにも返事はない。
他にどうしろというのだ。
「白河様、でしたよね?」
名前を呼ばれて、悠麻は顔を上げた。
「覚えてるんですか」
「以前、一度いらっしゃいましたよね」
「ああ……はい」
あのときは、和真の忘れ物を届けに来た。
受付から連絡を入れてもらい、そのまま上へ通された。
今日は違う。
届けるものもなければ、会う約束もない。
「少々お待ちいただけますか」
女性が内線へ手を伸ばした。
「あ、でも無理なら俺ここで――」
「確認だけいたしますので」
受話器を上げる。
悠麻はその場で待った。
「受付です。久世社長にお客様が……はい。アポイントはいただいておりません。白河悠麻様と――」
そこで、女性の声が止まった。
「あ、はい。かしこまりました」
受話器を置く。
さっきまで困っていた表情が、少しだけ変わっていた。
「白河様、上へご案内いたします」
「……いいんですか?」
「久世から、お通しするようにとのことです」
前にも聞いた言葉だった。
「ありがとうございます」
案内され、エレベーターへ向かう。
一度来た場所だから、もう驚かない。
上へ昇っていく階数表示を見ながら、悠麻は別のことを考えていた。
和真はいる。
当たり前なのに、それだけで少しだけ胸が騒いだ。
何週間も会っていない。
毎日見ていた顔なのに。
何を言うかは、ここへ来るまで散々考えた。
ふざけんな。
勝手に消えるな。
マンションなんかいらない。
建物まで寄越すな。
客まで勝手に回すな。
言いたいことはいくらでもある。
けれど結局、一番言いたいことは一つしかなかった。
到着音が鳴る。
扉が開いた。
以前と同じフロアだった。
忙しそうに行き交う人たちの間を抜け、そのまま奥へ案内される。
大きな扉の前で足が止まった。
ここも覚えている。
前に来たときは、忘れ物を渡して、そのあと和真と食事へ行った。
今日は違う。
案内してくれた女性が扉をノックした。
「白河様がお見えです」
「どうぞ」
久しぶりに聞く声だった。
胸の奥が大きく鳴る。
扉が開いた。
大きな窓。
広いデスク。
応接用のソファ。
前と何も変わっていない。
その向こうに、和真がいた。
デスクに向かっていた顔が上がる。
目が合った。
和真の表情が止まった。
「ユウ?」
名前を呼ばれて、悠麻は足を止めた。
「……久世さん」
「どうしたの」
和真がすぐに立ち上がる。
驚いている。
当然だ。
もう自分から連絡することはないと思っていたのだろう。
けれど、それより先に和真の顔に浮かんだのは心配だった。
「何かあった?」
悠麻は、こくんと頷いた。
和真の表情が変わる。
「店?」
悠麻は首を振った。
「建物で何か問題が出た?」
「違う」
「じゃあ、マンション?」
「違うって」
和真が眉を寄せた。
本気で分からないらしい。
「じゃあ、どうしたの」
悠麻は和真を見た。
久しぶりに見る顔だった。
毎日見ていたのに。
昼前に起きればいて、午前二時に帰れば待っていた男が、今は目の前にいる。
「……久世さんがいない」
「え?」
「帰っても、久世さんがいない」
和真が黙った。
「店はある。建物もある。家もある。客も来る。何も困ってない」
「……うん」
「でも、久世さんがいない」
言葉にしたら、それだけだった。
この何週間も、自分が何に困っていたのか、ようやく分かった。
「だから来た」
和真は何も言わない。
悠麻は一歩、近づいた。
「戻ってきてよ、久世さん」
「ユウ」
「俺、何もいらないから」
店も。
建物も。
あのマンションも。
欲しかったのは、そんなものじゃなかった。
「久世さんに戻ってきてほしい」
和真の顔が、わずかに歪んだ。
「……それはできない」
「なんで」
「契約は終わったから」
悠麻は一瞬黙った。
それから、眉を寄せる。
「だから来たんだろ」
「え?」
「契約、終わったじゃん」
「……うん」
「俺、もう久世さんの言うこと聞かなくていいんだろ」
「そうだよ」
「店もある。家もある。客も来る。金にも困ってない」
「うん」
「だったら分かるだろ」
悠麻は和真をまっすぐ見た。
「今度は俺が選んで来たんだよ」
和真が息を止めた。
「契約だからじゃない。店を助けてほしいからでもない。久世さんに何かもらいたくて来たんでもない」
一歩、近づく。
「俺が久世さんといたいから来た」
「……ユウ」
「なのに、なんで何も言わずにいなくなるんだよ」
思い出したら、また腹が立ってきた。
「服全部なくなってるし、電話は繋がらないし。店も家も勝手に俺名義にして、客まで寄越して」
「ユウが困らないようにしたかったんだ」
「困ってるよ!」
声が大きくなった。
「久世さんがいないから困ってんだよ!」
和真が黙る。
「帰っても誰もいないし、飯食うのも一人だし、店閉めても待ってないし」
言っているうちに、余計に腹が立ってくる。
「大根安くても言う相手いねえし」
「……大根?」
「そこはどうでもいい!」
和真がほんの少し笑った。
「笑うなよ」
「ごめん」
「謝るとこもそこじゃない!」
少しだけ、いつもの空気が戻った。
けれど、和真の笑みはすぐに消えた。
「……俺がいたら、また同じことをすると思ったんだ」
「何が」
「七年前のことを聞いたから」
悠麻の表情が止まる。
「俺が金を使ったせいで、ユウは店で目をつけられた」
「……」
「喜ばせたいと思ってた。No.1にすれば喜ぶと思った。でも、俺がやったことでユウは追い詰められた」
和真が視線を落とす。
「俺が好きだった笑顔まで、俺が奪った」
「久世さん」
「それなのに、また同じことをした」
店を買った。
金を出した。
半年という条件をつけた。
「ユウが困ってるところに入っていって、また金で自分のそばに置いた」
「……」
「一緒に暮らして、ユウが笑ってくれて、自分から触れてくれるようになって」
和真の声が少しだけ掠れた。
「嬉しかった」
悠麻は黙って聞く。
「ずっと続けばいいと思ったよ」
店へ行って。
一緒に帰って。
同じ部屋で眠る。
「でも、それも俺が都合よく意味をつけてるだけかもしれないって思った」
「だから消えたの?」
「……うん」
「俺に聞かないで?」
和真が黙った。
悠麻は大きく息を吐いた。
「久世さんさ」
「うん」
「七年前は、俺が喜んでるって勝手に決めたんだろ」
「……うん」
「今回は、俺が久世さんなんかいないほうが幸せだって勝手に決めた」
和真が顔を上げる。
「同じじゃん」
金を使って幸せにする。
自分が消えて幸せにする。
やっていることは正反対なのに、どちらも悠麻の気持ちは置き去りだった。
「勝手に決める方向が逆になっただけじゃん」
「……そうだね」
「分かんないなら聞けよ」
悠麻は和真を見た。
「俺がどうしたいか、俺に聞けよ」
しばらく、和真は何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「……じゃあ、聞いていい?」
「うん」
「ユウは、どうしたい?」
やっと聞いた。
悠麻は少しだけ笑った。
「久世さんと帰りたい」
和真の目が揺れる。
「一緒に飯食いたい。店にも来てほしい。閉店したら一緒に帰りたい」
「……うん」
「休みの日も、またどっか行きたい」
「うん」
「あと、勝手にいなくなるの禁止」
「分かった」
「絶対だからな」
「うん」
ようやく和真が笑った。
何週間ぶりかに見る、いつもの笑い方だった。
それを見たら、悠麻まで笑ってしまう。
ようやく和真が笑った。
何週間ぶりかに見る、いつもの笑い方だった。
それを見たら、悠麻まで笑ってしまう。
*
久しぶりに二人で帰ったマンションは、あの頃と何も変わっていなかった。
「久世さん、荷物どうすんの」
「明日から少しずつ持ってくるよ」
「服、一着残らず持ってったもんな」
「もう戻らないつもりだったからね」
「歯ブラシまでなくなってて、マジで腹立った」
「ごめん」
「マフラーだけ残ってたけど」
和真が少し驚いた顔をした。
「あれ、あった?」
「あったよ」
「気づかなかった」
「俺、あれ抱いて寝てた」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
けれど和真は笑わなかった。
悠麻を見て、それから少しだけ目を細める。
「じゃあ今日は、マフラーじゃなくて俺を抱いて寝てくれる?」
「……久世さんさ」
「何?」
「そういうこと普通に言うよな」
「嫌?」
「嫌だったら迎えに行ってねえよ」
そう返すと、和真が笑った。
悠麻もつられて笑う。
ほんの少し前まで、物音一つしなかった部屋だった。
一人で食事をして、一人で眠っていた部屋に。
久しぶりに、二人分の笑い声があふれていた。
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