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第54章 いらない
「ただいま」
返事はなかった。
分かっているのに、今日も言ってしまった。
靴を脱ぎ、リビングの照明をつける。
広い部屋が明るくなる。
全部、自分のものだ。
この部屋も。
店の入った建物も。
今日も店は忙しかった。
売上も上がっている。
家賃を払う必要もない。
店を失う心配もない。
一人で生きていくには、十分すぎるほどのものがある。
その全部を和真が残した。
「……いらない」
声にすると、思っていたより簡単に出た。
「こんなの、欲しかったんじゃない」
店がいらないわけではない。
大切だ。
ずっと守りたかった。
あの場所で働き続けたかったから、七年ぶりに和真へ連絡した。
でも、今は違う。
もう店はある。
家もある。
金にも困っていない。
和真に助けてもらわなければならない理由なんて、一つもない。
それでも会いたい。
「……久世さんがいねえじゃん」
ようやく口から出た。
欲しかったのは、これじゃない。
午前二時に帰れば、おかえりと言ってほしかった。
飯を作れば、向かいで食べてほしかった。
店へ来て、いつもの席に座っていてほしかった。
高い酒を頼んで、また悠麻に怒られてほしかった。
くだらないことで笑って。
一緒に寝て。
朝になっても、隣にいてほしかった。
久世さんにいてほしかった。
「……何で分かんねえんだよ」
腹が立った。
和真にも。
今まで気づかなかった自分にも。
何もかも残していったくせに、一番欲しいものだけ持っていった。
悠麻は立ち上がった。
寝室へ行き、クローゼットを開ける。
空いたままの一角を見る。
「何かねえの」
自分でも何をしているのか分からなかった。
引き出しを開ける。
何もない。
別の収納も開ける。
和真のものは残っていない。
「全部持ってくなよ……」
次の扉を開ける。
奥に手を入れたところで、指先に柔らかいものが触れた。
「……あ」
引っ張り出す。
マフラーだった。
以前、和真が貸してくれたもの。
悠麻が使ったあと、そのままこちらへ置いていた。
唯一残った、和真のもの。
しばらく見つめてから、顔へ寄せる。
もうほとんど残っていない。
それでも、わずかに知っている匂いがした。
「……久世さん」
胸が苦しくなった。
会いたい。
今度は、迷わなかった。
金なんていらない。
店を助けてほしいわけでもない。
住む場所をもらう必要もない。
何かをしてほしいわけですらない。
ただ、そばにいてほしい。
それだけだった。
*
その夜、悠麻はマフラーを抱えてベッドへ入った。
和真が使っていた側へ身体を寄せる。
マフラーへ顔を埋めると、胸の奥が少しだけ落ち着いた。
七年前。
和真が悠麻を選んだ。
頼んでもいないのに金を使って、No.1にした。
半年前。
今度は悠麻から和真へ連絡した。
でも、それは店を守るためだった。
どちらにも、金があった。
だから今度は違う。
店はある。
家もある。
何も困っていない。
契約だって、もうない。
それでも会いたい。
なら、もう答えは決まっていた。
悠麻はマフラーを握った。
「……待ってろよ」
電話に出ないなら、会いに行けばいい。
逃げるなら、追えばいい。
勝手に全部渡して終わったつもりなら、そんなもの知るか。
今度は、自分が決める。
金でもない。
契約でもない。
久世和真を。
自分が選ぶ。
悠麻は目を閉じた。
明日。
会いに行く。
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