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第53章 久世さんが残したもの
最近、店がおかしい。
「これ、ボトルで」
差されたメニューを見て、悠麻は一瞬黙った。
「……こちらですか?」
「うん」
「かしこまりました」
笑顔で受けながら、内心では首を傾げる。
まただ。
今日だけで三本目。
しかも安い酒ではない。
ここ一週間ほど、新規の客が急に増えた。
それだけならありがたい話だ。
問題は、妙に羽振りのいい客ばかり来ることだった。
「悠麻くん、最近すごいね」
常連客がカウンターの端から声をかけてくる。
「俺もびっくりしてます」
「どっかで紹介された?」
「いや、何もしてないんですけどね」
「口コミかな」
「だったら嬉しいですけど」
新しいボトルを開ける。
グラスへ注ぎながら、ふとカウンターの隅を見た。
空いている。
そこだけは、今も何となく誰も座らない。
「そういや最近、あの人見ないね」
悠麻の手が止まりかけた。
「あの人?」
「ほら。いつもそこにいた」
「ああ」
平静を装って、ボトルを置く。
「仕事、忙しいんじゃないですか」
「へえ。毎日いたのにね」
「暇だったんじゃないですか」
軽く笑ってみせる。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
久世さんがいなくなった。
そんなことを他人に説明したくなかった。
ましてや、契約が終わった途端、家も店も置いて消えたなんて。
「悠麻くん、こっち追加」
「はい」
呼ばれて、話は終わった。
*
その日も、新しい客が来た。
三十代半ばくらいの男で、初めての店とは思えないほど自然にカウンターへ座った。
「いい店だね。落ち着く」
「ありがとうございます」
「もっと早く来ればよかった」
「お近くなんですか?」
「いや、普段この辺来ないんだよ」
「じゃあ、どうしてうちに?」
「久世さんにいい店あるって聞いて」
悠麻の手が止まった。
「……久世さん?」
「うん。久世――」
男が急に口を閉じる。
「あ」
「何ですか」
「これ、言っちゃ駄目だった」
「……は?」
「ごめん。紹介されたって言うなって言われてたんだった」
悪びれた様子もなく笑う。
悠麻はしばらく男を見つめた。
「いつ、聞いたんですか」
「少し前かな。近く行くなら寄ってやってって」
「……」
「俺から聞いたっていうのは内緒で」
「もう聞きましたけど」
「あはは。だよね」
男は楽しそうに酒を飲んでいる。
悠麻は笑えなかった。
最近増えた客。
高い酒を惜しげもなく頼む客。
自分は何もしていない。
それなのに、契約が終わった途端に店が忙しくなった。
まさか。
「……他にも、久世さんから聞いた人っています?」
「いるんじゃない? あの人、顔広いから」
やっぱり。
腹が立った。
また勝手に。
店も。
マンションも。
今度は客まで。
どこまでやれば気が済むんだ。
文句を言いたいのに、その相手は電話にすら出ない。
「そういや最近、久世さんまた動き始めたよな」
隣にいた別の客が口を挟んだ。
「ああ。助かったよ。半年くらい全然予定取れなかったから」
「珍しかったよな。仕事かなり絞ってたんだろ?」
「そうそう。こっちは大変だったっていうのに」
悠麻は顔を上げた。
「……半年?」
「ん?」
「半年くらい、忙しくなかったんですか」
「忙しくないっていうか、逆。仕事を減らしてたんだよ。久世さんのほうが」
「……」
「最近やっと戻ってきたから助かってる」
客はそれだけ言って、また隣同士で話し始めた。
悠麻だけが動けなかった。
半年。
たまたまではない。
契約が始まった時期から、終わった日まで。
ぴったりだった。
毎日、店に来た。
何時に来ても、閉店までいた。
午前二時を過ぎれば、一緒に帰った。
昼前に起きれば、飯を食った。
休みの日には出かけた。
スーパーにもついてきた。
悠麻はずっと、金持ちって暇なんだなと思っていた。
違った。
暇だったんじゃない。
暇にしていた。
悠麻と過ごすために。
「……何だよ、それ」
「ん?」
「あ、いえ。何でもないです」
仕事へ戻る。
注文を取る。
酒を作る。
笑って客と話す。
いつも通りに。
けれど、頭の中には和真しかいなかった。
毎日店に来たのも。
一緒に帰ったのも。
昼前まで家にいたのも。
余った時間をくれていたわけじゃない。
自分のために空けていた。
半年間。
何も言わずに。
そして契約が終われば、全部元に戻して消えた。
悠麻はカウンターの隅を見る。
今日もそこには誰もいない。
その席が空いている理由を、今さら知った気がした。
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