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第52章 久世さんがいない
和真がいなくなって、一週間が過ぎた。
困ることは、何もなかった。
店は変わらず営業できている。
建物の名義が変わったことで必要になった手続きも、書類ケースの中に連絡先がまとめられていた。分からないことがあれば、そこへ電話すればいい。
マンションも同じだった。
生活に必要なものは残っている。
洗剤も、タオルも、食器もある。
冷蔵庫を開ければ、自分が買った食材が入っている。
悠麻が一人になっても困らないように、何もかも整えられていた。
腹が立つくらいに。
*
「……ただいま」
午前二時過ぎ。
玄関を開ける。
当然、返事はない。
靴を脱いで、リビングの照明をつける。
最初の二、三日は、それでも無意識に待っていた。
――おかえり、ユウ。
ソファから聞こえてくる気がした。
今はもう、聞こえないことを知っている。
それでも「ただいま」だけはやめられなかった。
悠麻は冷蔵庫から水を出した。
一人なら、これでいい。
腹が減っていれば適当に食べればいいし、疲れているならシャワーを浴びて寝ればいい。
誰かに合わせる必要もない。
「……楽じゃん」
誰も聞いていない部屋で言ってみる。
何も楽しくなかった。
*
昼前に目が覚める。
隣には誰もいない。
広すぎるベットにも少しずつ慣れてきた。
キッチンへ行き、冷蔵庫を開ける。
卵がある。
味噌汁くらい作れる。
米も残っている。
そこで手が止まった。
一人分。
「……面倒くさ」
結局、パンを焼いた。
トーストとコーヒーだけをテーブルへ置く。
向かいの椅子は空いている。
テレビをつけた。
朝からやっているクイズ番組が流れていた。
問題が出る。
悠麻は何となく答えた。
外れた。
「これ分かるかよ」
言ってから、向かいを見る。
誰もいない。
テレビの出演者が笑っている。
悠麻はリモコンを取って、電源を切った。
*
休みの日、スーパーへ行った。
大根が安かった。
一本百円を切っている。
「安っ」
思わず手に取った。
今日は煮物にしよう。
鶏肉も買えばいい。
前に作ったとき、和真は全部食べた。
少し多めに作っても――。
そこまで考えて、止まった。
「……いらねえじゃん」
一本を戻し、半分に切られたものを籠へ入れた。
鶏肉も、小さいパックを選ぶ。
買い物籠が軽い。
会計も安い。
前なら得したと喜んでいたはずなのに、今日は何も嬉しくなかった。
*
和真へは何度も連絡した。
電話はつながらない。
メッセージにも返事はない。
最初のうちは腹が立って、何通も送った。
『電話出ろ』
『説明しろよ』
『勝手にいなくなるな』
少し時間を置いて。
『久世さん』
それからは、送るのをやめた。
返ってこない画面を見るほうが嫌だった。
*
生活には、本当に困らなかった。
家賃の心配もない。
店を追い出される心配もない。
住む場所もある。
仕事もある。
金だって、以前よりずっと楽になった。
和真がいなくても生きていける。
そうできるようにしてから、和真は消えた。
完璧だった。
「……馬鹿じゃねえの」
ベッドに横になりながら呟く。
一人でも困らない。
そんなこと、一度も頼んでいない。
欲しかったのは、金でも建物でも、この広い部屋でもなかった。
午前二時に帰ったとき、明かりがついていること。
ただいまと言えば、おかえりと返ってくること。
昼前に起きて、一緒に飯を食うこと。
スーパーで大根が安かったと話せば、よく分かっていないくせに和真が笑うこと。
店の隅に、いつもの顔があること。
それだけだった。
悠麻は目を閉じた。
寝室は静かだった。
静かすぎて、隣に誰もいないことばかり分かる。
生活には何も困っていない。
なのに。
「……つまんねえ」
口にすると、ひどくしっくりきた。
つまらない。
飯を食っても。
テレビを見ても。
買い物をしても。
店から帰ってきても。
何をしても、前より少しだけつまらない。
たった半年だった。
それなのに、自分の日常のあちこちに和真がいる。
いなくなって初めて、それが分かった。
悠麻は寝返りを打った。
反対側の枕が目に入る。
そこに手を伸ばしかけて、やめた。
和真がいなくても、生きていける。
もう十分、分かった。
でも。
生きていけることと、いなくていいことは、全然違った。
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