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第51章 頼んでない
書類ケースを開ける。
一番上に入っていたのは、店の建物に関する書類だった。
悠麻はソファへ座り、ページをめくる。
見慣れない言葉が並んでいる。
契約書。
登記。
所有権。
細かいところまでは分からない。それでも、何について書かれているのかくらいは読めた。
「……は?」
もう一度、最初から見る。
間違いではない。
店のある区画だけではなかった。
建物そのもの。
土地まで含めて、所有者の欄に書かれているのは白河悠麻の名前だった。
「いや……」
思わず笑いが漏れた。
「やりすぎだって……」
店を続けられるようにしてほしいとは頼んだ。
だから契約が終わったあとも、あの場所で営業を続けられるようにしてくれるものだと思っていた。
まさか建物ごと寄越すとは思わない。
でも、いかにも和真らしかった。
必要なものを頼めば、それよりずっと大きなものを用意する。
スーパーへ行くと言えばカードを渡してきた男だ。高い酒をやめろと言っても、笑って次のボトルを入れる。
加減がおかしい。
「こんなのもらえるかよ」
口ではそう言いながら、さっきまで胸の中にあった嫌なものが少しだけ薄れた。
何だ。
これを用意していたのかもしれない。
契約が終わったから、名義を変える手続きでもしていたのだろう。
服を全部持っていった理由は分からないけれど、それだって帰ってきたら聞けばいい。
「絶対文句言ってやる」
勝手に建物ごと渡すな。
せめて先に相談しろ。
そんなことを考えながら、次の書類を取り出した。
目を落とす。
悠麻の表情が止まった。
「……何、これ」
住所を見た。
知っている。
今、自分がいる場所だった。
もう一度読む。
何度読んでも変わらない。
このマンションの一室。
半年間、和真と暮らしたこの部屋。
その所有者まで、白河悠麻になっていた。
「……なんで」
これは聞いていない。
店とは違う。
店を残してほしいとは頼んだ。契約が終わったあともここへ帰ってきていいとも言われた。
けれど、この部屋をくれなんて一度も言っていない。
帰ってきていい。
そういう意味だと思っていた。
二人で暮らす、この家に。
「……久世さん?」
誰もいない部屋で名前を呼ぶ。
返事はない。
急に、朝から見てきたものが頭の中へ戻ってきた。
空になったクローゼット。
一本だけになった歯ブラシ。
なくなった靴。
和真だけが使っていたものだけ、きれいに消えていた洗面所。
悠麻はスマートフォンを掴んだ。
和真へ電話をかける。
耳に当てる。
つながらない。
「……何だよ」
もう一度かけた。
同じだった。
「久世さん」
三度目。
それでもつながらない。
メッセージを開く。
『どこいる?』
送る。
『電話出て』
続けて打つ。
『これ何』
書類の写真を撮ろうとして、やめた。
違う。
こんなのを聞きたいんじゃない。
『帰ってきて』
送信した。
画面を見つめる。
返事は来ない。
電話をかける。
やっぱり、つながらなかった。
「……なんで」
声が掠れた。
もう、分かっていた。
出張じゃない。
仕事でもない。
帰りが遅くなっているわけでもない。
服を全部持っていった。
自分のものだけを、この部屋からなくした。
店を残した。
家を残した。
悠麻が明日から困らないように、必要なものは何もかも置いていった。
それなのに。
和真だけがいない。
「……なんでだよ」
昨夜とは違う声だった。
昨日は腹が立っていた。
触れてくれない和真に、なんでだよ、と怒鳴った。
今日は、怒鳴る相手すらいない。
悠麻はスマートフォンを握ったまま、しばらく動けなかった。
昨日まで、ここにいた。
毎日店に来ていた。
一緒に帰った。
一緒に飯を食った。
同じベッドで眠った。
昨日だって、自分の作ったカクテルを飲んでいた。
――どうせ、これからも作るし。
そう言った。
和真は何も言わなかった。
あのときには、もう決めていたのか。
「……ふざけんなよ」
立ち上がる。
電話をかける。
つながらない。
もう一度。
駄目だった。
「勝手に決めんなよ……」
建物なんていらない。
この部屋だって頼んでいない。
欲しかったのは、そんなものじゃない。
そこまで考えて、悠麻は動きを止めた。
何が欲しかったのか。
答えは、考えるまでもなかった。
和真に帰ってきてほしい。
それだけだった。
スマートフォンを持ったまま、悠麻はキッチンへ向かった。
水でも飲もうと思った。
冷蔵庫を開ける。
そこで、また動けなくなった。
奥に、小さな箱がある。
昨夜、自分で隠したケーキ。
和真が帰ってきたら驚かせるつもりだった。
二人で食べるつもりだった。
契約が終わったことを笑って、半年間お疲れさまと言って。
明日からもよろしくと。
言葉にしなくても、伝わると思っていた。
悠麻は箱へ手を伸ばさなかった。
冷蔵庫の扉を閉める。
静かになった部屋の中で、スマートフォンを握る手に力が入った。
「……頼んでない」
建物も。
この部屋も。
こんな終わり方も。
何一つ、頼んでいなかった。
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