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第50章 何もない
目が覚めたとき、部屋は明るかった。
カーテンの隙間から差し込む光に目を細め、枕元のスマートフォンへ手を伸ばす。十一時四十七分。
「……寝た」
身体を起こしかけて、隣を見る。
誰もいない。
「久世さん?」
返事はなかった。
もう起きているのだろう。帰ってきたことにも気づかなかったらしい。
昨日は何時に帰ってきたんだ。
あとで聞こうと思いながらスマートフォンを見る。通知はない。和真からの連絡もなかった。
「……?」
少しだけ引っかかって、ベッドを出た。
リビングを覗く。
「久世さん」
いない。
キッチンにも姿はなく、食事をした形跡もない。玄関へ向かうと、和真の靴もなかった。
「……まだ帰ってない?」
そこでようやく、眠気が消えた。
昨日、店を出てから一度も帰ってきていないのか。
もう一度スマートフォンを確認する。着信もメッセージもない。
何かあったのか。
そこまで考えて、昨日見た男が頭をよぎった。
「……まさか」
すぐに打ち消す。
何もないと言っていた。仕事かもしれないし、昨日の用事が長引いただけかもしれない。
それなら一言くらい連絡しろよ、とは思うけれど。
「帰ってきたら絶対文句言う」
独り言を吐きながら寝室へ戻った。
とりあえず着替えようとクローゼットを開ける。
手が止まった。
何かがおかしい。
自分の服はある。ジャケットもシャツも、昨日までと同じ場所に並んでいる。
その隣だけが、妙に空いていた。
「……え?」
和真の服がない。
仕事用のスーツも、シャツも、普段着も、コートも。
昨日まできれいに並んでいたはずなのに、一着もない。残っているのは空のハンガーだけだった。
悠麻はしばらく、その空間を見つめた。
場所を間違えたのかと思った。そんなはずはないのに、一度扉を閉め、もう一度開ける。
やっぱり、ない。
「……は?」
引き出しを開けた。
そこも空いている。
その下も。
和真がよく着ていた黒いシャツも、部屋着も、何も残っていない。
「クリーニング……?」
口に出した瞬間、自分で否定した。
全部まとめて出すわけがない。
悠麻はそのまま洗面所へ向かった。
ぱっと見たところ、昨日までと変わらない。歯磨き粉もタオルも洗剤もある。棚を開けば、買い置きまできちんと入っていた。
けれど、歯ブラシは一本しかない。
和真の髭剃りも、香水もなかった。
悠麻が使うものと、二人で使っていたものだけが残されている。
「……何だよ、これ」
何もかもなくなったわけではない。
和真のものだけがない。
しかも、悠麻が一人で使うものには困らないように残してある。
偶然こうなったわけではない。
和真が、自分で選んで持っていった。
そこまで考えた途端、心臓が速くなった。
寝室へ戻り、もう一度クローゼットを見る。
やっぱり空いている。
旅行や出張なら、こんなことはしない。
そんな話も聞いていない。
頭の中に浮かびかけたものを、すぐに打ち消した。
違う。
そんなわけない。
昨日だって普通だった。
店に来て、自分の作ったカクテルを飲んだ。
おいしいと言ってくれた。
また作ると言えば、「うん」と答えた。
――じゃあ、あとでな。
――うん。
「……久世さん」
スマートフォンを握る。
電話をかけようとして、指が止まった。
その前に、何が起きているのか確かめたかった。
リビングへ戻る。
そこで、ようやく気づいた。
テーブルの中央に、見慣れない書類ケースが置かれている。
昨夜はケーキを隠すことばかり考えていて、目にも入っていなかった。
悠麻はその場で立ち止まった。
急に、開けたくなくなった。
何が入っているのか分からない。
それなのに、これを見れば何かが決定的になる気がした。
「……何だよ」
それでも近づいて、手を伸ばす。
書類ケースに触れた指先が、わずかに震えていた。
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