1 / 1
第1話 『恋』
外はようやく夏の馬鹿馬鹿しくなるほどの暑さが落ち着いて、秋の高く澄んだ青い空が広がっていた。
「ここの文章では、恋とは、ある意味で『究極の非合理』と作者は述べています。コスパを求めがちな現代社会において、なぜ、人はあえて自らの心を乱し、『恋』という狂気に落ちるのか、を説いています」
大教室では、あの人の澄んだ声が響いてる。
「次の授業では、配布したレジュメの短編を扱います。主人公の言葉から、合理的な選択をどうしてしないのか、作者が述べたい『究極の非合理』を読み解いてみましょう」
そう、淡々と話す口元をずっと見ていた。
現代文学、別に興味ない。
ただ、その人を眺めるのにちょうどいいから。
二センチ。
けっこうな大怪我だったんじゃないかなって。
綺麗な顔をしているから余計に目立つんだ。
その顎から二センチ、唇へ向けて薄っすらと見える傷痕。それがとても不似合いでずっと見てた。
あの人って証拠になる傷痕。
見た時は、ひとりで声を上げるくらいに驚いたんだ。
夏が終わって、大学が始まって、散々、夏の間は日照り続きだったのに、大学が始まったころからずっと雨が続いてた。その日の帰り際もまた雨だった。しかも土砂降り。そのせいで靴も何もかもびしょ濡れで。これなら面倒だと思った飲み会に参加してた方がマシだったかもしれなんて思いながら、ゴロゴロしてたんだ。何気なくスマホを触って。
『あぁっ、ダメっ、イッちゃうっ』
そう、スマホの画面の向こうで喘ぐ、同じ傷痕を見つけた。
唇へ向けて薄っすらとだけ見える二センチの傷痕。
そんなものが全く同じように付いてる人なんていないでしょ。
じゃあ……この人は。
このスマホの画面の中の人は。
『あ、あ、あぁン』
驚きと、それから、なんだろう、なんとも説明のできない感情が浮き上がってきて。
「それでは教科書を……」
へぇ、そうなんだ。
あの人もその『究極の非合理』ってやつをするんだ、って。
手のひらの中、小さな画面の向こうの『非合理』を眺めてた。
「あれっ、佐久(さく)くんだっ」
「……おはよー」
「やった。今日、めちゃ暑かったけど、来てよかったぁ。佐久くんの隣ゲットォ」
「……今日、本当に暑いよね」
にこやかに笑いながら。
「ねー。もう秋なんですけどー暑いー」
退屈な会話、って内心溜め息をついた。
っていうか、この子、誰だっけ? 同じ学部、だろうけど。
「あ、ね、ね、佐久くん、夜、空いてる?」
「あー……今日の、夜ってこと?」
「そそっ、飲み会やるんだぁ。一緒に行こ?」
え、無理。っていうか、この講義が終わるの夕方じゃん。そこからその飲み会まで何してんの? おしゃべり? 不毛。ムリ。つか、ムダ。
「あー、ごめ、」
今日は無理なんだって、ずっとにこやかにしてる顔のまま答えようとしたところで、教授が大教室に入ってきた。
「それでは、講義を始めます」
教授、じゃなくて准教授だった。へぇ、あのおじい教授は今日も休んで、准教授に仕事ぶん投げてるのか。いいなぁ、アシスタントがいて。なんでも代わりにやってもらえてさ。
俺も、俺の代わりに講義に出てくれて、俺の代わりに人間関係構築してくれる「アシスタント」がいればいいのに。
(ね、ね、今日の講義、お姫様じゃん)
(……あー、うん)
(ラッキーだね)
(そうだね)
いまだに名前を思い出せない隣の席になぜか座った彼女との、当たり障りのない、そして何にも実りのない、薄っぺらい会話をしながらも、鉄仮面の笑顔を向けて頷いた。
退屈だけど笑っておけば大体のことが問題なく進むからさ。
「それでは、今日は『現代文学における感情の変遷』についてです」
そう澄んだ声が大教室に響いた。
大教室だと大体の人がマイクを使うけど、このお姫様って言われてる「彼」はマイクを使わない。かといって、声が大きいわけでもない。もちろん、後ろの方に座ったり、場所、角度が悪いとちっとも聞こえない。聞こえないし、経済学部としてはそんなに興味があるジャンルでもない。となると睡魔に襲われるんだけど。このお姫様は決して学生を注意するようなこともしないし、居眠りをしていてもあまり気に留めていないらしく。って、まぁ、そうでしょ。本来は現代文学の教授が講義をするべきところなのに、いつもどこかに出張だ、学会がと言って、講義を全てあの准教授に押し付けてるわけだから。押し付けられた方としては面倒でたまらないだろうし、なんだったら、自分は代理なのだからとモチベは下がるだろう。
逆に学生たちにしてみれば昼寝の時間を提供してくれてるようなもので。
で、結果的に、さっきの彼女の「ラッキー」となる。
「今日はその感情の変遷の最たるもの、移り変わりが激しく、心のあり方がとても変化していくものを掘り下げていこうと思います」
寝ても大丈夫。ただの朗読会となんら変わりがない。
「つまりは、恋、です」
学生に問いかけるわけでもなく、淡々と彼の話す声だけが響いてく。
窓の外は真っ青な空が眩しくて、隙間から差し込む光は、大教室の空間に漂う塵すらなんだか綺麗なものののように見せかけて。
「恋とは――」
いつの間にか、隣に座った彼女が居眠りを始めてくれた。これで、疲れる愛想笑いをしないで済むと、安堵の溜め息を小さく一つこぼして。
「一見すると極めて個人的なものである、と、ここで作者が述べていますが」
猛暑日と言われていた夏が過ぎ去ったのに、今日は快晴なせいかやたらと暑い。来るだけでも汗だくだと面倒くさそうに座っている学生たちが次々と眠りにつく中で、その中心で『恋』について語り始めた彼を眺めてた。
「純粋で、普遍的な感情のように思うと」
本当に、怒らないんだな。
机に突っ伏して寝てる奴もいるのに。
「それでは――」
あまりに怒らないのが不思議でずっと眺めてた。
そして、気がついた。
(……)
傷、痕?
顎のところに、ほら、二センチくらい、何か傷痕がある。あれは――。
「現代文学ではどのように表現されているのか見てきたいと思います」
澄んだ声に耳を傾けながら、止まることなく『恋』を語る、その口元を眺めていた。
ともだちにシェアしよう!

