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第1話

皇帝には悪名高い息子たちが何人もいたが、その中でも四男リュシアンの評判は群を抜いて最悪だ。 気に入らなければ使用人を鞭打ち、些細な無礼で人を牢へ送る。相手が女であろうと子どもであろうと、容赦することはなかった。 そんな彼が特に執着したのが、公爵家の次男であり、騎士団長でもあるアルベルト・フォン・エーレンベルクだった。 リュシアンは幼い公女までも利用し、アルベルトを跪かせて、自分に隷属させた。 ――という記憶が、佐藤ナオト、すなわち今のリュシアンの頭の中に、一気に流れ込んできた。 驚きで、何かが手から落ちた。 細長い革紐のようなものだった。馬を叩く鞭に似ている。 「えっ、俺……?」 目の前には、赤く腫れた鞭痕が幾筋も走る、逞しい背中。 「なんで……」 そう口にしたとたん、「上手く侍れなかった罰だよ」と笑いながら腕を振り下ろした記憶が頭に蘇った。 「俺が……、打ったの……?」 とんでもないヤツの身体に入り込んでしまった。 夢だと思いたいのに、まとわりつく湿った空気と甘い香水の匂いはここが現実だと告げている。 なぜここにいるのか分からない。 思い返してもサークルや飲み会で楽しく過ごしていた記憶だけだ。 ふと、先程から動かない目の前の男が気になった。 見るからにひどい状態なのに身動き一つしていない。 「あの、大丈夫……ですか?」 恐る恐る、声をかける。 すると、俯いていた金髪が、ゆっくりと上に向いた。 切れ長の瞳と、筋の通った鼻筋を備えた眩しいほどのイケメンがそこにいた。 「問題、ありません」 低く落ち着いた声だった。 かっこいいやつは声までいい。 「いや、いやいや。けっこう腫れてるし。痛いんだろ? 俺こういうのわかんないから……。とりあえず、誰かに手当を……」 助けを呼びに出ていこうとした腕は、素早く掴まれた。 「待ってくれ。どうか……」 先程までは無かった必死さだ。 「え? いや、ただ怪我を見てもらうだけだから」 その言葉に、さらに強く掴まれる。 ーーとりあえず、人を呼ぶのはやめておこう。 「分かった。なら、ちょっと待ってて」 腰を折って目線を合わせる。 「大丈夫。人は呼ばない」 一瞬、腕を掴む力が緩んだ。だが、すぐには離れず、しばらく目が彷徨ったあと、やっと腕が自由になった。 その隙に部屋を出て、治療に使えるものを探す。 そこは中世を思わせる、豪奢だが殺風景な屋敷だった。 「とりあえずは布なんだけど……」 使えそうなものはどこにも無く、仕方ないので厨房に畳んであったシーツときれいな水だけを持ってくる。 その間、誰にも会うことはなかった。 来た道を戻っていると、ふと頭に情報が浮かんだ――この館は、リュシアンがアルベルトを痛めつけるために買ったらしい。 こうやって、一つ一つ思い出していくのだろうか。 男は出ていったときと同じ格好で、床に片膝をついて座っていた。 彼がアルベルトだ。身体の持ち主が執着していた男。 下は黒いズボンだけ。上は裸で、靴下すら履いていない。 リュシアンに侍るときの格好だ。 虚ろな瞳が向けられたので、額に触れた。 「やっぱり、熱持ってるよ」 横にあった寝台を、素早く片付ける。 寝台はひどく乱れていたが、そこには触れないことにした。 「さあ、ここに寝て」 どう受け取ったのか、アルベルトはリュシアンを抱き上げて寝台に寝かせた。 覆いかぶさってきて、すでにはだけていた胸元に吸い付いた。 「うわっ、ちょっと……なにっ? ……っ」 かさついた手に肌を撫でられ、唇が下りてくる。 耳が熱くなった。 こんなこと、ナオトの人生では全く無かったことだ。 「待って……」 分厚い胸板を押し返した。 アルベルトは困惑気味に身を引いた。 「また不手際が?」 「違う。そうじゃなくて」 途端に、再び伸びてきた手を止めた。 「アンタ、熱が出てるって。背中の手当もするからうつ伏せになってよ」 アルベルトはしばらく動かなかった。 (……だよね。中身、俺だし……) 多少、強引に押し倒して、背中に布を押し当てた。 ビクッと肩が跳ね、シーツが握りしめられた。 布が赤く染まっていく。 皮膚がめくれてしまっているところもある。 背中自体が熱を持っていた。 中世だとしたら氷なんて簡単に手にはいらないから、水で冷やすしかない。 清潔にしないと菌とか心配だし……。 こんなになるほど鞭打ったリュシアンが信じられない。 アルベルトのシーツを掴む指は、白くなるほど力がこもっている。 それでも、うめき声一つ漏らさない。 その姿が痛ましいのに、リュシアンの身体だからか、下腹に熱がこもっていく。 (馬鹿。俺はノーマルだろ。それに女の子を好きだし) 頭を振って雑念を振り払う。 血をすべてぬぐい、細長く切ったシーツでぐるぐる巻きにした頃には、アルベルトの意識が朦朧としていた。 無理もない。リュシアンがほとんど寝かせなかった上に、熱まである。 頬に張り付いた髪をよけてやり、額を冷やし、吹き出る汗を拭ってやった。 高かった熱は朝方になって、ようやく下がった。 安心から、ついウトウトする。 そして目が覚めたときには、寝台に寝かされており、アルベルトは床に跪いていた。 「な、何してんの……。まだ調子が悪いでしょ」 言っても動かない。 そればかりか、足の甲にキスしてきた。 「や、めてよ。……っ、ねえ。……ねえってば!」 声が大きくなった。 すると、アルベルトは短くうめき、すぐさま跪いた。 キィーンと甲高い音が首に巻かれたベルトから鳴り、首元へ食い込んでいく。 「なに、それ……?」 単なるおしゃれじゃなかった。 手を伸ばすと、苦し気にゆがめられた目でにらまれた。 明らかな憎悪だった。思わず伸ばした手を引っ込める。 「俺がつけた……の?」 たぶん、リュシアンだ。 なんてひどいことをするんだろうか。 恨まれて当然だ。 その憎悪が、まっすぐ自分に向けられている。 生まれて初めて、これほど強い憎しみを向けられ、背筋が冷えた。 「っ、ごめん……」 それだけ絞り出して、逃げるように走り出した。 自分がやったことじゃない。 でも、この身体がやったのは確かで、その記憶だけが後から後から迫ってくる。 館を出れば、待機していた馬車の扉がすんなり開いて豪邸へと届けられた。 怯えた視線の使用人に傅かれ、すんなりと生活に溶け込んだ。 何不自由なく日々が終わっていく。 誰もナオトの入れ替わりには気づかなかった。 気づくほど近づく人間が、誰もいないのだ。 時たまふと、アルベルトのことが頭をよぎる。 だが、そのたびに頭を振って追い出した。 考えれば、望んでもいないのに記憶が押し寄せてくる。 奴隷につける首輪をつけ、命令に従わせた。 逆らえば罰した。 彼に関する記憶は、そんなものばかりだった。 思い出した途端に罪悪感に押しつぶされそうになる。 そんなある日。 夜空に浮かぶ、地球によく似た満月を見ていたら、記憶が勝手に像を結んだ。 魔法陣の中にうずくまるアルベルトと、黒い外套を目深にかぶった不気味な男たちがそこにいた。 『これで、君は満月になれば僕を抱きたいと"求める"体になったよ。もっとも、心まで縛れるかは……僕にも分からないけどね』 リュシアンはアルベルトに呪いをかけた。 (趣味が悪い。……抱かなければ、どうなるんだ?) と考えれば、リュシアンの声がよみがえる。 『拒否したければしてごらん。死んだほうがましだと思えるほどの苦痛が襲うはずだよ。痛みから逃れようと命を絶った者もいたらしい……フフ』 青くなった。すでに満月は空高く昇っている。 「まずい……」 慌てて馬車をアルベルトのいる館へ走らせた。

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