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第1話 裏方の名前

魔王の朝食には、十二本の銀器が並ぶ。 ロビンは右端の一本を持ち上げ、隣のものと見比べた。 「エドガー。これは?」 「魚料理用でございます」 「こっちは?」 「前菜用です」 「僕が間違えて使ったら?」 「私が取り替えます」 エドガーはティーポットを傾けながら答えた。 茶葉の濃さも、湯の温度も、ロビンが最も好む状態に整っている。カップへ注ぎ終えると、砂糖を二粒落とした。 ロビンが頼むより先だった。 「今日の予定は?」 「午前は北境侯からの陳情、午後は財務官との協議です。その後、謁見を三件」 「衣装は?」 「すでに用意しております」 「今日も僕がすること、ほとんど残ってないね」 「ロビン様に煩雑な支度をさせる理由がございません」 エドガーは当然のこととして言った。 その時、食堂の扉が開いた。 伝令の悪魔が青ざめた顔で飛び込み、片膝をつく。 「ご報告いたします。北部交易門にて、黒狼族と石鬼族が衝突。互いに通行権を主張し、門が封鎖されました」 エドガーはロビンの皿へ温野菜を取り分けたまま、伝令へ視線を向ける。 「交易門を一時的に二分しろ。黒狼族は東路、石鬼族は西路を使わせる。過去三年の通行税記録を正午までに提出させ、虚偽の申告があった側へ閉鎖中の損失を負担させろ」 「はっ」 「現場で武器を抜いた者は、種族を問わず拘束。魔王陛下の道を私闘で塞いだと伝えろ」 伝令は深々と頭を下げ、駆け去った。 エドガーは何事もなかったようにロビンの皿を整える。 低い声で命令を下す横顔は、いつ見ても隙がない。 あれほど恐ろしい声を出すのに、ロビンの前へ置く皿は音ひとつ立てない。 ロビンは温野菜を一口食べた。 「エドガーは何でもできるね」 「当然の務めです」 「だから、僕も何かできるようになりたい」 エドガーの手が止まった。 ほんの一瞬だった。 「何をなさるおつもりです」 「まだ決めてない。自分で探したいんだ」 「必要ございません」 返事が早い。 ロビンはフォークを置いた。 「どうして?」 「ロビン様には私がおります」 「エドガーがいることと、僕が何もできないことは別でしょう」 「陛下には、陛下にしか果たせない役目がございます。人間どもの細々とした作業を覚える必要は――」 「おはようございます、我が麗しき魔王陛下」 食堂の扉が、今度は赤い花びらとともに開いた。 パスカルが深紅の上着を翻して入ってくる。 床へ落ちる直前、花びらは黒い蝶へ変わり、跡形もなく消えた。 エドガーの眉間に皺が寄る。 「朝から騒々しい」 「花一輪ない朝食より健全でしょう」 パスカルはエドガーを一瞥し、ロビンの前で優雅に一礼した。 「一人でできることをお探しでしたら、ちょうどよい催しがございます」 「何?」 「人間界の文化祭典です。舞台、展示、音楽、飲食。大勢の人間を楽しませるため、裏側では数え切れない仕事が動いております」 ロビンの目が輝いた。 「僕も手伝える?」 「簡単な作業からでしたら」 「却下だ」 エドガーの声が食堂を冷やした。 パスカルは笑みを崩さない。 「陛下がお尋ねになっているのは、あなたの許可ではありませんよ」 「人間界へお連れするなら、危険性を先に説明しろ」 「私がお守りします」 「それが最も信用できん」 ロビンは二人を見比べた。 「僕、行きたい」 エドガーの顎がわずかに固くなる。 「ロビン様」 「分からない時は聞く。勝手に危ないものへ触らない。日が暮れる前に帰ってくる」 「しかし」 「僕が決めたよ」 短い沈黙が落ちた。 扉のそばで控えていた侍従たちが息を潜める。 エドガーはロビンを見つめた。 やがて一歩下がり、胸へ手を当てる。 「承知いたしました」 その声に不満は残っている。 それでも、他の者の前でロビンの決定を覆そうとはしなかった。 「転移門を正午に開け。帰還予定は日没前。護衛はパスカル一名とする」 「かしこまりました」 侍従が下がる。 パスカルが面白そうにエドガーを見る。 「随分と聞き分けがよろしい」 「陛下のご決定だ。お前の提案に従ったのではない」 「結構。私は結果をいただきます」 「何の結果だ」 ロビンは椅子から立ち上がった。 「人間界の服に着替えてくる」 「こちらに」 エドガーはすでに上着を用意していた。 「いつ準備したの?」 「パスカルが文化祭典と口にした時点で」 「反対してたのに」 「反対と準備不足は別問題です」 エドガーはロビンの背後へ回り、淡い色の上着を肩へ掛けた。 襟を整える指が、首筋をかすめる。 ロビンの背筋が小さく震えた。 「苦しいですか」 耳元で低い声がする。 「平気」 留め具を締める大きな手を、ロビンは目で追った。 パスカルなら、美しい、似合うと十種類は言葉を並べる。 エドガーは襟の角度を直し、裾の皺を払った。 「人間界では目立つ行動をお控えください」 それだけだった。 ロビンは少しだけ頬を膨らませる。 「変じゃない?」 エドガーの目が、ロビンの姿を上から下へゆっくりとなぞった。 一拍遅れて、視線が逸れる。 「問題ございません」 パスカルが肩を震わせた。 「見事な衣装ですね、陛下。柔らかな色が瞳を引き立てております」 「聞いてないよ、パスカル」 「これは失礼」 ロビンはもう一度エドガーを見た。 エドガーは無言で、ロビンの袖口を整えている。 何も言わないくせに、誰より長く見ている。 それを知っているから、余計に言葉が欲しくなった。 **** 会場へ着いた時、山本美咲は三人分の仕事を抱えていた。 右手に無線機。左手に進行変更表。肩には工具と備品を詰めたスタッフバッグ。 「美咲ちゃん、受付の名札が足りない」 「事務局の青い箱。右から二番目に予備があります」 「出演者控室の水、追加できる?」 「倉庫に二箱あります。台車を使ってください」 「司会台本の最終版ってどれ?」 「共有フォルダの末尾がゼロ七です。印刷分は進行卓に置きました」 「あ、ついでにコーヒー頼める?」 美咲は一拍だけ黙った。 「はいはい、分かりました」 無線を切り、誰にも聞こえない声で呟く。 「コーヒーは自分で買え」 市が主催する文化イベント。 美咲の所属する運営会社が、会館内の舞台と屋外広場を担当している。 美咲の正式な担当は進行管理だった。 資料の作成、出演者の時間調整、ステージ間の連携を行う仕事だ。 ところが現場へ来れば、 受付の穴埋め。 備品の補充。 控室の飲み物。 出演者の愚痴。 スタッフ同士の仲裁。 年上の男性社員が忘れた連絡の確認。 どれも美咲へ集まってくる。 朝、現場責任者の神谷は笑っていた。 「美咲ちゃんがいると助かるよ。女の子は細かいところに気づくから」 褒めているつもりなのだろう。 美咲も笑った。 「大丈夫です。なんとかします」 大丈夫ではない。 私が大丈夫にしているだけだ。 通路を曲がったところで、見慣れない若い男がケーブルの束を前に固まっていた。 柔らかな栗色の髪。白い肌。 スタッフ用の簡素な上着を着ているのに、妙に目を引く。 その隣には、赤いジャケットの派手な男が立っていた。 こちらはどう見ても運営スタッフではない。 「何か困ってます?」 美咲が声をかけると、栗色の男が振り向いた。 「これを、舞台袖の機械につなぐように言われたんだけど」 手に持っているのは音声用のケーブルだった。 指されたらしい場所には、照明用の分電盤がある。 「そこにはつながないでください」 「やっぱり?」 「合わないと思ってたんですか」 「形が違ったから」 「気づいてよかったです。合わないものを、力で入れないでくださいね」 「入れてないよ」 少し誇らしそうに言う。 美咲はケーブルを受け取り、タグを確認した。 「これは客席後方の音響卓です」 「客席後方」 「場所、分かります?」 「たぶん」 「たぶんで進まない。分からなかったら聞く」 「うん」 男は素直に頷いた。 胸元のスタッフ証には、路敏(ろびん)と書かれている。 珍しい名前だった。 「山本さんは、何でも分かるんだね」 「今日使うものを覚えてるだけです」 「それでも、すごいよ」 まっすぐ言われ、美咲は返事に詰まった。 愛想がいい。 気が利く。 助かる。 いつも褒められるのは、そんなことばかりだった。 仕事そのものを認められたのは、久しぶりな気がした。 「……落とさないで運んでください」 「任せて」 路敏は両腕でケーブルを抱えた。 赤い服の男が、美咲へ優雅に頭を下げる。 「ご親切に感謝いたします」 「あなたは?」 「彼の監督です」 「保護者ではなく?」 「似たようなものです」 「違うよ、パスカル」 路敏が振り返る。 その拍子に壁へぶつかりそうになり、パスカルが肩を引いた。 美咲は額を押さえた。 「客席後方まで一緒に行ってあげてください」 「もちろんです」 「僕、一人でできるよ」 「迷子を捜す仕事を増やさないでください」 路敏は少し考え、頷いた。 「それは困るね」 二人が去った直後、無線が鳴る。 『山本さん、控室で出演者同士が揉めてる』 「今行きます」 『美咲ちゃん、コーヒーは?』 美咲は足を止めた。 「神谷さん」 『うん?』 「自動販売機、受付の横にあります」 無線の向こうが静かになる。 『ああ。じゃあ自分で買うよ』 「お願いします」 美咲は無線を下ろした。 小さなことだった。 それでも、一つ断っただけで少し呼吸が楽になった。 **** 昼のリハーサルが始まる頃、進行は十二分遅れていた。 出演者の一組が到着していない。 展示ブースでは机が足りない。 屋外ステージでは風が強くなっていた。 神谷はメインステージ前で、市の担当者と話している。 「全体の進行は、こちらで綿密に管理しております」 手に持っている進行表は、美咲が前夜までかけて作ったものだった。 変更時の代替案も、雨天時の導線も、機材トラブルへの対応も入っている。 市の担当者が感心したようにページをめくる。 「ここまで細かく準備していただけると安心です」 「現場経験がありますから」 美咲は少し離れた場所で、風に飛ばされた案内表示を貼り直していた。 聞こえていないふりをした。 美咲ちゃん、テープは? 美咲ちゃん、出演者の昼食どうなってる? 美咲ちゃん、受付の子が泣いてる。 名前を呼ばれるたび、自分の仕事だけが増えていく。 それなのに、成功した時に呼ばれる名前は別の人間のものだ。 「山本さん」 路敏がそばへ来た。 額に汗が浮いている。髪も少し乱れていた。 「ケーブル、運べました?」 「うん。音響の人にも、ここでいいか聞いた」 「完璧です」 路敏の顔が明るくなる。 子どもみたいな反応だと思ったが、口にはしなかった。 「その紙、山本さんが作ったの?」 路敏が、神谷の持つ進行表を見ている。 「そうですよ」 「あの人、自分が作ったみたいに話してる」 美咲の手が止まった。 「責任者ですから。説明するのも仕事です」 「山本さんの名前は言わないの?」 「そういうものなんです」 言った瞬間、自分で嫌になった。 そういうもの。 納得できないことを飲み込む時に使う、便利な言葉だ。 路敏は神谷を見た。 「変なの」 「変でも、現場は回さないといけないので」 「山本さんが回してるのに?」 無線が激しく鳴った。 『山本さん、屋外ステージの電源が落ちた!』 美咲は走り出した。 **** 屋外ステージでは、音響も照明も停止していた。 出演を待つ子どもたちが舞台袖で不安そうにしている。 客席の保護者たちが立ち上がり、ざわめきが広がっていた。 神谷は分電盤の前でスタッフを怒鳴っている。 「誰が落としたんだ!」 美咲は盤面を確認した。 屋外飲食ブースの追加機材が、舞台設備と同じ系統につながっている。 午前中、美咲が負荷を分けるよう神谷へ伝えた場所だった。 神谷は、 「一時間くらいなら平気だろう」 と取り合わなかった。 「飲食ブースの機材を止めてください。舞台は予備系統へ切り替えます」 「そんなことをしたら、飲食側から苦情が来る」 「このままだと舞台が始まりません」 「先に原因を調べろ」 「原因は負荷です。確認は復旧後にできます」 神谷の顔が険しくなる。 「山本さん。言い方が強いよ」 胸の奥が熱くなった。 舞台は止まっている。 子どもたちは待っている。 客席はざわついている。 それでも、自分の口調の方が問題らしい。 美咲は息を吸った。 泣くのも怒鳴るのも後でいい。 「飲食ブースへ連絡します。音響さんは予備電源へ。司会には十分遅れと伝えてください。出演順を二組入れ替えます」 「勝手に決めるな」 「判断を待っている時間がありません」 神谷が一歩近づいた。 その時、路敏が美咲の横へ並んだ。 「何をすればいい?」 美咲は彼を見る。 「客席後方の音響卓へ行って、出演順が変わると伝えてください。走らない。転ばない」 「分かった」 「パスカルさんは飲食ブースへ。追加機材を一度止めてもらってください」 「承知しました」 パスカルは優雅に歩き出す。 神谷が声を荒らげた。 「部外者に指示を出すな!」 パスカルが振り返った。 笑っている。 「部外者にも分かる混乱を、責任者殿が収めてくださらないので」 「何だと」 「神谷さん」 美咲が遮った。 「あとで叱ってください。今は舞台を戻します」 飲食ブースの機材が止まった。 予備系統へ切り替わり、音響卓のランプが一つずつ点灯する。 照明が戻った瞬間、客席から小さな拍手が起きた。 美咲は無線を取る。 「司会、つないでください。次の団体を先に出します」 『了解』 「受付、遅延案内を掲示」 『はい』 「誘導、客席へ戻してください」 『分かりました』 指示を出すたび、止まっていた現場が動き始める。 神谷は分電盤の前に立ったままだった。 路敏が音響卓から戻ってくる。 「伝えたよ。次は?」 「もう大丈夫です」 「本当に?」 美咲は舞台を見た。 音楽が流れ、子どもたちが踊り始める。 「大丈夫。なんとかしました」 「山本さんが?」 美咲は少し笑った。 「私たちが、です」 **** イベント終了後、関係者は会館の小会議室へ集まった。 その日の報告と、翌日の改善点を確認するためだった。 神谷が前方へ立つ。 「電源トラブルはございましたが、私の判断で迅速に系統を切り替え、無事に進行を戻しました」 美咲は後方で、パソコンと資料を片づけていた。 驚きはなかった。 ああ、まただ。 怒りより先に、疲れが来る。 この後の報告書も、自分が書くのだろう。 神谷の名前で提出される報告書を。 「神谷様」 壁際にいたパスカルが声を上げた。 「対応記録もご覧になってはいかがでしょう」 「対応記録?」 「この催しでは、変更や連絡が運営システムに残るのでしょう」 パスカルが机上の端末へ指を置く。 正面のモニターへ報告画面が映った。 折り畳まれていた作業者欄が開く。 作業時刻。 変更内容。 対応者。 画面の大半に、山本美咲の名前が並んだ。 進行表作成――山本美咲。 出演者変更対応――山本美咲。 電源負荷警告――山本美咲。 予備系統切替指示――山本美咲。 出演順変更――山本美咲。 遅延案内――山本美咲。 神谷の顔が固まった。 「端末を操作した者の記録です。判断自体は私が――」 市の担当者が画面を指す。 「午前十時十二分。山本さんから電源負荷への警告が出ていますね」 「念のための確認です」 「神谷さんが却下、とあります」 会議室が静かになる。 「一時的な使用でしたので、問題ないと判断しました」 「その結果、停止した?」 神谷の口がわずかに開く。 「最終的には、私の指揮で復旧しました」 担当者は次の記録を見る。 「予備系統への切り替えも、出演順変更も、山本さんの判断となっています」 神谷は答えない。 「山本さん」 呼ばれ、美咲は顔を上げた。 「はい」 「電源停止後の対応を説明していただけますか」 美咲はパソコンを置き、前へ出た。 「飲食ブースの追加機材が、屋外ステージと同じ系統へ接続されていました。負荷が上限を超えたため、飲食側を一時停止し、舞台設備を予備系統へ切り替えました」 「出演順の変更は?」 「復旧に十分必要でした。音響確認が済んでいた二組を入れ替え、最終的な遅延を三分まで戻しました」 「この進行表も、山本さんが?」 「はい」 たった二文字だった。 それでも、口にするまでが長かった。 自分が作った。 自分が判断した。 自分が現場を戻した。 市の担当者は資料を閉じた。 「次回の運営責任者は、山本さんにお願いしたいです」 神谷が顔を上げる。 「山本はまだ若く、経験が――」 「今日、最も現場を把握していたのは山本さんでしょう」 穏やかな声だった。 「会社として責任者への任命が難しければ、少なくとも運営統括として正式に配置してください。権限と手当も、見積もりへ反映をお願いします」 神谷は何も言えなかった。 会議が終わり、美咲は一人で廊下へ出た。 足に力が入らない。 嬉しいはずだった。 それなのに胸が詰まり、呼吸がうまくできない。 こんなことで泣くのは大げさだ。 何度もそうやって飲み込んできた。 「山本さん」 路敏が廊下の向こうから歩いてくる。 その後ろにパスカルもいた。 「名前、ちゃんと出たね」 美咲は笑おうとした。 うまくいかなかった。 「そうですね」 声が震えた。 路敏は何もからかわない。 「よかった」 それだけ言った。 美咲は目元を指で押さえた。 「今日、化粧直す時間なかったのに」 「泣いてる?」 「泣いてません」 「そう?」 「少し疲れただけです」 路敏は考え込んだ。 「じゃあ、疲れた人に言う言葉を言うね」 まっすぐ美咲を見る。 「お疲れさま。山本さんがいてくれて、僕も助かったよ」 美咲は片手で顔を覆った。 「今、それ言います?」 「遅かった?」 「一番駄目なタイミングです」 それでも笑った。 今度は、ちゃんと。 **** 魔王城へ戻ると、大広間には数十人の悪魔が並んでいた。 北部交易門の問題を報告するため、黒狼族と石鬼族の代表が呼び出されている。 玉座の前に立つエドガーは、黒い正装に身を包んでいた。 冷たい眼差しを向けられた二人の代表は、巨大な体を縮めている。 「双方の通行税記録を確認した」 エドガーの声が広間へ響く。 「申告を偽ったのは石鬼族側だ。閉鎖中の損失と修復費を負担しろ。黒狼族は報復として東路の標識を破壊した。そちらも弁済すること」 誰も反論しない。 「魔王陛下の領内で、種族の面子を理由に道を塞ぐことは許さん。次はない」 「承知いたしました」 二人の代表が同時に頭を下げた。 エドガーが手を上げる。 「下がれ」 悪魔たちが一斉に退室する。 最後の扉が閉じた瞬間、エドガーの視線がロビンへ向いた。 先ほどまでの冷たさが消える。 その変化を、ロビンは昔から知っていた。 自分へ向けられる時だけ、エドガーの目は少し柔らかくなる。 「お帰りなさいませ、ロビン様」 「ただいま」 エドガーはすぐにロビンの前へ来た。 肩、腕、手首へ目を走らせる。 「お怪我は」 「ないよ」 「手を」 ロビンは素直に両手を差し出した。 エドガーの大きな手が、指先を包む。 傷がないか一本ずつ確かめられるうちに、ロビンの胸が落ち着いていく。 パスカルが後ろから笑う。 「陛下は立派にお仕事をなさいましたよ」 「何をなさったのです」 「ケーブルを運んだ」 ロビンが先に答えた。 「場所が分からなかったから、ちゃんと聞いた。落とさずに最後まで運べたよ」 エドガーはロビンの手を見たまま、しばらく黙っていた。 ロビンは待った。 パスカルには何度も褒められた。 それでも、欲しい言葉は別にある。 「よくなさいました」 顔を上げる。 エドガーはロビンを見ていた。 「分からぬことを確認し、任された仕事を最後まで果たされた。初めての場所で、それができたのであれば十分です」 ロビンの頬が緩む。 「本当に?」 「私は、ロビン様へ心にもない言葉を申し上げません」 「知ってる」 嬉しくて、差し出した手を引っ込める気になれなかった。 エドガーも離さない。 パスカルが二人の手元を見て、薄く笑った。 「ところで、会場で小さな事故がございまして」 エドガーの視線が鋭くなる。 「事故?」 「火花が散った際、陛下が私の袖をおつかみになりました」 握られていたロビンの手に、エドガーの指が強く絡む。 「少しだけだよ」 「随分と愛らしく、ぎゅっと」 「ぎゅっとじゃない」 「私は陛下を抱き留めるべきか迷いましたが――」 「抱き留めてないでしょう」 エドガーがロビンの腰へ腕を回した。 一息で、硬い胸板へ引き寄せられる。 「エドガー?」 「次回、危険が生じた際は私をお呼びください」 耳元で低い声がした。 人間界で何度も聞いた音楽より、近く響くその声の方が胸へ残る。 「人間界まで来るの?」 「参ります」 「会議中でも?」 「中止します」 「北部の悪魔たちがまた喧嘩してても?」 「一度滅ぼしてから参ります」 「それは駄目」 ロビンは笑った。 エドガーの腕に力が入る。 怖い顔をしているのに、抱きしめ方だけは優しい。 パスカルが、わざとらしくため息をついた。 「陛下。過度の束縛は成長を妨げます」 「お前は黙れ」 「陛下が私へ触れた程度で、その有様ですか」 「程度?」 黒い雷が広間の天井を走った。 パスカルは一歩も退かない。 「ええ。陛下は私の袖をおつかみになっただけです。あなたのように、腰へ腕を回して離さない者とは違う」 エドガーは黙った。 ロビンも、初めて自分の状態を意識した。 背中にはエドガーの腕。 頬のすぐ横には黒い正装の胸元。 離れようと思えば、離れられる。 けれど、まだこのままでいたかった。 エドガーがロビンの顔をのぞき込む。 「苦しいですか」 「平気」 「では、しばらくこのままで」 パスカルが笑った。 「忠誠心とは、抱擁まで要求するものなのですね」 「これは安全確認だ」 「陛下はすでに帰城なさっています」 「余計な口を閉じろ」 「ロビン様ご本人が離れたいとおっしゃれば、私は黙りますよ」 二人の視線がロビンへ集まった。 ロビンは少し考えた。 「まだ、いい」 エドガーの腕がわずかに固まる。 パスカルが目を細めた。 ロビンはエドガーの胸へ頬を寄せる。 「今日は疲れたから」 言い訳をすると、エドガーの手が背中をゆっくり撫でた。 「承知いたしました」 その声だけが、少し掠れていた。 パスカルは二人を眺め、口元へ手を添える。 「なるほど。これは私も、もう少し本気を出した方がよさそうだ」 「何の話?」 ロビンが尋ねる。 エドガーは答える前に、ロビンを自分の外套で包んだ。 「聞く必要はございません」 「ありますよ。陛下に関わる重要な話です」 「お前には関係ない」 「最も関係のある男の一人ですが」 再び雷が鳴る。 ロビンはエドガーの腕の中で笑った。 パスカルも笑っている。 エドガーだけが恐ろしい顔をしていた。 そのくせ、ロビンの背を撫でる手は、最後まで止まらなかった。

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