2 / 7
第2話 外見で決められた値段
謁見の間に、巨大な氷塊が浮かんでいた。
中心には、翼を広げた魔獣が封じ込められている。
牙の先から毒液が垂れた形のまま、透明な氷の中で止まっていた。
「西塔の結界を破り、ロビン様の居室へ侵入しようとしたものです」
エドガーが片手を上げる。
氷塊が音もなく砕けた。
魔獣だけが床へ落ちる。拘束の術式が全身を締め上げ、巨体を石床へ縫いつけた。
「飼い主を特定しろ」
「はっ」
衛兵たちが魔獣を運び出す。
騒ぎが収まると、エドガーは何事もなかったように黒い手袋を直した。
玉座に座るロビンは、頬杖をついて彼を見ていた。
「エドガー」
「はい」
「僕の部屋まで来てたら、どうした?」
「侵入者を滅ぼします」
「その後は?」
「西塔の警備責任者を処分し、結界を三重にします」
「僕のことは?」
エドガーは問いの意味を測るように、ロビンを見た。
「お怪我がないか確認いたします」
「抱きしめる?」
「必要であれば」
「必要じゃなかったら?」
エドガーの眉がわずかに動いた。
「朝から随分と楽しそうなお話ですね」
謁見の間の扉から、パスカルが入ってきた。
その後ろを、衣装箱を抱えた小悪魔たちが列になって続く。
箱は一つや二つではない。最後尾がまだ廊下の角から現れていなかった。
エドガーが冷たい目を向ける。
「それをどこへ運び込むつもりだ」
「ロビン様の衣装室です」
「すでに十分ある」
「人間界では季節が変わりました」
「十日で着られなくなる服を、百着も用意するな」
「百三十七着です」
「増やすな」
パスカルは玉座の前へ進み出た。
「陛下。次のお仕事が決まりました」
「何をするの?」
「人間への贈り物を、ご自分で選んでいただきます」
ロビンは目を輝かせた。
「誰に?」
「それをお決めになるところから、お仕事です」
エドガーが口を挟む。
「城内の贈答品は、相手の地位と功績に応じて目録から選定できます」
「それはエドガーが選んでるでしょう」
「最終的なご署名はロビン様からいただいております」
「名前を書いてるだけだよ」
エドガーは答えなかった。
パスカルが両手を広げる。
「贈りたい相手を思い浮かべ、その者のためだけに品を選ぶ。人間界では、なかなか楽しい行為ですよ」
ロビンは少し考えた。
視線が、自然とエドガーへ向く。
エドガーは衛兵から受け取った報告書へ目を落としていた。
黒い正装。
磨かれた留め具。
魔獣を一瞬で封じた手は、今は紙を静かにめくっている。
「決めた」
「どなたです?」
「まだ言わない」
ロビンが笑うと、パスカルは察したように目を細めた。
「承知いたしました。では、贈り物を選ぶにふさわしい装いにいたしましょう」
衣装箱が一斉に開いた。
色とりどりの布地、靴、装飾品が、謁見の間いっぱいに浮かび上がる。
エドガーの顔が険しくなった。
「ここで着替えさせる気か」
「陛下の御身を衆目へさらすほど無作法ではありません」
「お前の衣装選び自体が無作法だ」
****
一時間後。
ロビンは鏡の前で、自分の姿を見つめていた。
白いシャツは柔らかな光沢を持ち、襟元が普段より少し広く開いている。
淡い灰青色の細身の上着には、銀糸の刺繍。
腰の位置が高く見える黒いパンツと、細い鎖の装飾。
派手ではないのに、立っているだけで目を引く。
パスカルが満足そうに頷いた。
「実にお美しい」
「少し、細く見えすぎない?」
「陛下の優美な体つきが引き立っております」
「人間界で浮かない?」
「道行く者の時間が止まる程度でしょう」
「浮くんじゃないか」
衣装室の扉が開いた。
エドガーが入ってくる。
ロビンは鏡越しに彼を見た。
歩みが止まる。
いつもなら一目で衣装の乱れを見つける男が、何も言わなかった。
その視線だけが、襟元から腰、足元へゆっくり落ちていく。
「どう?」
ロビンは体ごと振り返った。
エドガーは返事をせず、壁に掛けられていた黒い外套を取る。
ロビンの肩へ掛け、開いていた襟元まで覆った。
「エドガー」
「人間界へ赴く服装としては不用心です」
「似合ってない?」
「そのようなことは申し上げておりません」
「じゃあ、どう?」
「目立ちます」
「パスカルは綺麗だって言ったよ」
「パスカルは呼吸をするように軽薄な言葉を吐きます」
「少なくとも答えてはくれる」
エドガーの手が止まった。
ロビンは鏡の方を向く。
黒い外套に隠れ、せっかく選んだ上着はほとんど見えなくなっていた。
「もういい」
外套を外そうとすると、エドガーが襟元を押さえた。
「このままお召しください」
「嫌だよ。変なら着替える」
「変だとは申しておりません」
「何も言わないじゃないか」
ロビンはその手を避け、外套を椅子へ置いた。
パスカルが二人の間へ入る。
「出発のお時間です。陛下をお待たせしている人間がおりますので」
「誰も待ってないでしょう」
「今から待つことになります」
パスカルが差し出した手を、ロビンは取らなかった。
一人で扉へ向かう。
エドガーのそばを通る時も、顔を見なかった。
****
田中彩香は、開店前の鏡に向かって笑顔を作った。
口角を上げる。
少し下げる。
歯を見せすぎず、親しみやすく。
高級フレグランスとボディケアを扱う店舗では、商品知識と同じくらい、立ち姿や笑顔も評価される。
彩香は毎朝、髪を整え、肌を作り、制服に皺がないことを確認している。
今日の口紅は、普段より少し鮮やかな色を選んだ。
店長の高瀬が、朝礼前にスタッフを見回す。
視線が彩香の顔で止まった。
「田中さん、今日は頑張ったね」
彩香は笑った。
「昨日までは頑張ってなかったみたいに聞こえますけど」
「そういう意味じゃないよ。ただ、うちのブランドは第一印象も大事だから」
「了解です。明日は発光するくらい塗ってきます」
隣で佐伯玲奈が小さく笑った。
玲奈は背が高く、化粧も制服もよく似合う。
本人が悪いわけではない。
それでも、開店後の初回接客は、ほとんど玲奈へ割り振られる。
彩香は購入後の相談、香りの交換、苦情対応を任されることが多かった。
高瀬はそれを、
「田中さんは親しみやすいから、お客様が本音を話しやすい」
と褒める。
親しみやすい。
褒め言葉に聞こえる。
ブランドの顔にはしないが、面倒な客の相手はさせられる。
開店から一時間後、玲奈が困った顔でバックヤードへ入ってきた。
「彩香ちゃん、少しいい?」
その顔を見ただけで、内容が分かった。
「はい出た、緊急救援要請」
「ごめん。昨日、香水を買われたお客様が、香りが違うって」
「試したものと買ったものが違う?」
「同じなんだけど、ご自宅で使ったら強すぎたみたい」
「肌につけた?」
「紙だけ」
彩香は一度、目を閉じた。
香りは紙と肌で変わる。
体温でも、時間でも違う。
店内で一度も肌へ試さず、高価な一本を勧めたらしい。
「分かった。行ってくる」
「助かる」
玲奈は心からほっとした顔をした。
彩香は売場へ出た。
客は紙袋を膝へ置き、硬い表情で座っていた。
「お待たせいたしました。田中と申します」
「昨日買ったばかりなんです。店ではよかったのに、家でつけたら頭が痛くなるくらい甘くて」
「ご不快な思いをさせてしまって、申し訳ありません」
彩香はすぐに交換を勧めなかった。
使用した場所、量、普段使っている香り、苦手な系統を一つずつ聞く。
客の好みは、甘い香りではなく、最初に試した時の爽やかな部分だった。
しかし時間がたつと、濃い甘さが残る。
「でしたら、同じシリーズではなく、こちらを試してみませんか。最初は少し硬く感じますけど、肌へなじむと木の香りが柔らかく残ります」
今度は客の手首へ少量つける。
十分待ち、変化を一緒に確かめる。
客の表情がようやく緩んだ。
「これなら使えそう」
「今日はお持ち帰りにならず、もう少し様子を見ても大丈夫です。外の空気でも印象が変わりますから」
「売らなくていいの?」
「合わないものを二本目まで買っていただく方が困ります」
客は少し笑った。
最終的に、香水は別の商品へ交換となった。
帰り際、客は彩香へ頭を下げた。
「昨日も、あなたに相談すればよかった」
「次は最初から呼んでください。待ってます」
客が帰った後、高瀬が売上端末を確認していた。
交換処理の担当者名は彩香。
しかし最初の売上実績は、玲奈のまま残る。
「田中さん、うまく収めてくれて助かったよ」
「元の売上、あたしにつけ替えてもいいです?」
冗談めかして言うと、高瀬も笑った。
「それは無理だよ。最初に接客したのは佐伯さんだから」
「ですよね」
「でも、田中さんにはこういう役割が合ってる。お客様も話しやすそうだったし」
「初回から話してもらえたら、交換にならなかったと思いますけど」
高瀬の笑顔が少しだけ薄くなる。
「うちの客層に最初に見せる人は、ブランドの印象も背負うから」
彩香は自分の制服を見下ろした。
髪も整えている。
化粧もしている。
商品知識もある。
それでも、自分はブランドの印象には足りないらしい。
「分かりました」
声は明るく出た。
バックヤードへ戻り、鏡の前へ立つ。
朝より鮮やかに塗った口紅が、少しだけ浮いて見えた。
「本日のあたし、愛想百点、売上ゼロ」
鏡の中の自分へ笑いかける。
「お疲れさまでした」
目の奥が熱くなった。
泣くほどのことではない。
昨日も、その前も似たようなものだった。
彩香は目元を指で押さえ、売場へ戻った。
****
午後。
店内の空気が急にざわついた。
彩香が振り返ると、入口に二人の男が立っている。
一人は柔らかな栗色の髪をした、美しい青年。
白と灰青色の服がよく似合っている。
もう一人は赤い上着の長身の男で、周囲から視線を集めることに慣れているような笑みを浮かべていた。
玲奈がすぐに姿勢を正す。
高瀬も売場へ出てくる。
「いらっしゃいませ」
二人へ向かう声が、普段より一段明るい。
彩香は少し離れた場所で、入荷商品を棚へ並べていた。
栗色の青年は、勧められるまま高価な香水を試している。
「こちらは今年の限定品でございます」
「希少な花を使っておりまして」
「お客様の雰囲気に、非常によくお似合いです」
青年の前に瓶が増えていく。
「これ、贈り物にも使える?」
玲奈が微笑む。
「もちろんです。大切な女性への贈り物でしょうか」
「男の人」
玲奈の笑顔が一瞬だけ止まった。
「でしたら、こちらの男性向けラインが」
黒い瓶が並べられる。
青年は一本を手に取った。
「これは、どんな人が使うの?」
「力強く、自信のある男性をイメージしております」
「自信はあると思う」
「では、ぴったりです」
「でも、その人は香水をつけないよ」
「初めての一本としてもおすすめです」
「使わなかったら?」
玲奈が返答に迷う。
高瀬がすぐに別の商品を持ってきた。
「こちらでしたら、より控えめでございます」
青年の前に、さらに瓶が増えた。
彩香は棚越しに様子を見ていた。
選んでいるというより、店側が売りたいものを順番に出している。
青年の顔がいいから、きっと高額な物を買う。
身なりがいいから、贈る相手も高級品を喜ぶ。
全部、見た目だけで決めている。
青年が小さく息を吐いた。
「パスカル。分からなくなった」
「困りましたね」
赤い男は困っているようには見えなかった。
むしろ誰かを待っているように、店内を見回す。
その視線が彩香で止まった。
微笑まれる。
嫌な予感がした。
パスカルが、展示台の銀色の縁を指先で一度なぞった。
次の瞬間、高瀬の持つ接客用端末が鳴った。
画面の担当表示が切り替わる。
《次回担当 田中彩香》
高瀬が眉を寄せた。
「おかしいな」
「正式なローテーションじゃないですか?」
彩香が言う。
これまで高瀬が手動で変更していた担当順が、初期状態へ戻っていた。
「でも今のお客様は、佐伯さんが――」
栗色の青年が彩香を見た。
「あの人に聞きたい」
高瀬が黙る。
彩香は売場へ出た。
「お待たせしました。田中です」
「贈り物を選びたいんだけど、何を買えばいいか分からない」
「でしょうね」
青年が目を丸くする。
玲奈と高瀬も固まった。
彩香はテーブルいっぱいに並んだ香水を見る。
「相手が香水を使わないって言ってるのに、香水が増えてますから」
青年が少し笑った。
「やっぱり変?」
「顔がいいからって、何を持っても正解になるわけじゃないですよ」
「顔は関係ある?」
「この店では、ありすぎたみたいですね」
赤い男が声を立てずに笑った。
彩香は青年の正面へ座る。
「贈る相手のことを教えてください」
「どんなこと?」
「普段、何を使うか。仕事。好きな香り。困ってること。自分では買わないけど、もらったら使いそうなもの」
青年は考える。
「仕事は、ずっとしてる」
「休まない人?」
「僕が止めないと休まない」
「面倒ですね」
「うん」
青年はすぐに同意した。
「服は黒が多い。紅茶をよく飲む。香水はつけない。いつも手袋をしてる」
「手袋を外した時は?」
「手が少し荒れてる時がある。でも、何も塗らない」
「それを言ったら?」
「必要ないって言うと思う」
「はい出た、自分のこと後回しにする人」
青年が身を乗り出す。
「分かる?」
「分かります。そういう人は、香水より使い道がはっきりしてるものの方がいいです」
彩香は棚から、細い黒い容器を取った。
「手袋の下でもべたつきにくいハンドバーム。香りは黒茶と杉。かなり弱いので、仕事中でも邪魔になりません」
青年は蓋を開け、香りを確かめた。
目が少し明るくなる。
「その人の部屋みたい」
「じゃあ候補ですね」
「これにする」
「即決ですか」
「うん。これなら使ってほしい」
「一応、試しましょう。贈る相手と肌質が同じとは限らないけど、感触は分かります」
彩香は青年の手へ少量を取った。
「反対の手で伸ばしてください」
青年がぎこちなく手をこする。
塗る範囲が狭すぎて、同じ場所だけが光っている。
「そこだけ磨いてどうするんですか」
「違う?」
「貸してください」
彩香が手の甲へ伸ばしてやると、青年は真剣に見ていた。
「指の間も。爪の周りも乾きやすいです」
「贈る時に教える」
「自分で塗ってあげる気です?」
青年の耳が少し赤くなった。
「使い方を知らなかったら」
「仲がいいんですね」
「ずっと一緒にいるから」
答えた声が、少しだけ柔らかい。
赤い男が、横から顔をのぞかせた。
「陛下。私にも何かお選びくださいませんか」
「パスカルは自分で何でも買うでしょう」
「あなたが選んでくださることに価値があるのです」
「今日は一人分って決めた」
「残念です」
笑っているが、本当に少し残念そうだった。
彩香は商品を包む。
「名入れもできます。完成まで一週間です」
青年は少し迷い、頷いた。
「待つ」
「お名前は?」
「路敏」
「贈る相手は?」
青年が答える前に、赤い男が楽しそうに言った。
「江戸雅様です」
「パスカル」
「名入れに必要でしょう」
彩香は注文票へ記入した。
変わった名前の二人だと思ったが、口にはしなかった。
「一週間後にお渡しします」
「田中さんがいる?」
「今のところは」
高瀬が背後で咳払いをした。
「担当者はシフトによります」
青年は高瀬を見てから、彩香へ視線を戻す。
「田中さんにお願いしたい」
「あたしを指名?」
「うん。僕が何を贈りたいのか、最初に聞いてくれたから」
彩香は一瞬、言葉を失った。
すぐに笑顔を戻す。
「承りました。来週、お待ちしてます」
****
翌朝。
接客用端末の担当順は、元へ戻らなかった。
高瀬が何度変更しても、正式なローテーションへ戻る。
「システム部に連絡する」
「規定の順番だから、問題ないんじゃないですか?」
彩香が言うと、高瀬は不満そうに端末を置いた。
「初回接客は、ブランドの印象を考えないと」
「じゃあ、今日一日だけ試してください」
「何を?」
「あたしがブランドを壊すかどうか」
自分で言ってから、喉が乾いた。
高瀬が驚いた顔をする。
以前なら、冗談で終わらせていた。
今日は笑わなかった。
「正式な順番なんですよね。結果が悪ければ、明日から戻してください」
高瀬はしばらく考え、頷いた。
「分かった。ただし、無理に売上を取ろうとしないで」
「それ、佐伯さんにも言いました?」
「田中さん」
「すみません。了解です」
最初の客は、若い女性だった。
店内へ入ってもスタッフへ声をかけず、棚の端にある小さな商品を見ている。
彩香が近づくと、女性は身構えた。
「何かお探しですか」
「姉へのプレゼントなんですけど、こういう店、慣れてなくて」
「予算だけ聞いてもいいです?」
「五千円くらいで」
「十分選べます」
女性は少し安心した顔をした。
姉は甘い香りが苦手。
仕事で手を洗う回数が多い。
見た目が華やかすぎる物は、かえって使わない。
彩香は小さなハンドケアセットを提案した。
高額商品ではない。
それでも女性は、包みを両手で受け取った。
「押し売りされるかと思ってました」
「五千円って言われて、一万円の物を出すほど根性悪くないです」
女性が笑った。
「次、自分のを買う時も相談していいですか」
「もちろんです」
二人目は、妻への贈り物を探す年配の男性。
三人目は、香りを試すだけで帰るつもりだった大学生。
四人目は、以前に別の商品で肌が荒れ、何を選べばよいか分からない女性。
彩香はすぐに商品を出さず、話を聞いた。
使う場面。
好み。
予算。
困っていること。
買わない方がよい場合は、そう伝えた。
閉店後、高瀬が売上画面を見つめていた。
彩香の客単価は、玲奈より低い。
しかし購入率は高く、予約と再来店希望が最も多かった。
「今日は、たまたま相談の多いお客様が続いたから」
高瀬はそう言った。
彩香は笑う。
「相談しにくそうな人に、相談は来ませんからね」
「嫌味?」
「半分くらいです」
玲奈が端末をのぞき込む。
「彩香ちゃん、すごいね。私、予算を聞くと安い物を探してるみたいで失礼かと思ってた」
「先に聞いた方が、客も安心するよ」
「今度、やり方教えて」
素直に頼まれ、彩香は拍子抜けした。
「いいよ。交換対応一件につき、コーヒー一杯ね」
「高い」
「玲奈の売上に比べたら格安です」
****
一週間後。
彩香は開店と同時に、三件の指名予約を抱えていた。
接客用端末には、正式な担当者として名前が表示されている。
高瀬は朝礼で言った。
「しばらく、初回接客もローテーションで行います」
しばらく。
完全に認めるには、まだ抵抗があるらしい。
それでも、入口には立てる。
結果を取れば、自分の名前につく。
「田中さん」
入口から声がした。
路敏が手を振っている。
今日も目を引く服装だったが、前回より襟元は少し狭い。
赤い男も一緒だ。
彩香は包みを持って売場へ出た。
「お待たせしました。確認します?」
黒い箱を開く。
小さな銀の文字で、Edgarと刻まれている。
路敏は指先で名前をなぞった。
「うん。これがいい」
「渡す時、使い方も説明してくださいね」
「覚えたよ」
「同じ場所だけ磨かない?」
「もう大丈夫」
少し自信がある顔をしている。
彩香は包みを渡した。
路敏は代金を自分で支払い、釣り銭も確認した。
前回より手際がいい。
「田中さん、最初のところに立ってるね」
「今だけかもしれないけど」
「でも、いるでしょう」
路敏は当然のように言った。
彩香は少し笑った。
「そうだね。今はいる」
赤い男が、店内の予約表へ目を向ける。
「随分とお忙しくなられたようで」
「急に正式な順番へ戻ったおかげですかね」
彩香が言うと、男は涼しい顔で微笑んだ。
「機械というものは、時折、正しさを思い出すものです」
「便利ですね」
「人間よりは素直です」
路敏がパスカルの袖を引く。
「帰ろう。早く渡したい」
パスカルは彩香へ一礼した。
「陛下がお世話になりました」
「こちらこそ。次はご自分のを選んでもらえるといいですね」
「その際も、ぜひあなたに」
「指名料を取りますよ」
「望むところです」
二人が店を出る。
彩香は次の客を迎えるため、入口へ戻った。
以前なら、玲奈の後ろで待っていた場所だった。
一人の女性が店内をのぞき、彩香と目が合う。
「いらっしゃいませ」
今度は最初から、自分の声で迎えた。
****
魔王城では、エドガーが軍議を終えたところだった。
長机の周囲から将軍たちが立ち上がる。
「南部境界の増援は、先ほど決定した配置で進めろ。変更が必要な場合は、私を通せ」
「承知いたしました」
最後の将軍が退室する。
扉が閉じるより先に、ロビンが入ってきた。
エドガーの顔がわずかに緩む。
その変化を見て、ロビンの足取りも軽くなった。
「ただいま」
「お帰りなさいませ」
エドガーはすぐにロビンの前へ来る。
今日は手を取らず、襟元へ指をかけた。
「この留め方なら問題ございません」
「前より隠れてるから?」
「人間界の往来には、こちらが適切です」
ロビンの気分が少し沈む。
一週間前のことを、まだ覚えていた。
「やっぱり、前の服は似合ってなかったんだ」
「なぜ、その結論になるのです」
「何も言ってくれなかったから」
エドガーが黙る。
パスカルは部屋の端に立ち、面白そうに二人を見ている。
ロビンは黒い包みを差し出した。
「これ」
「何でしょう」
「エドガーに」
エドガーは受け取らなかった。
「私に?」
「僕が選んだ」
「私へ品をお与えになる必要はございません」
ロビンの手が下がりかける。
「いらない?」
エドガーの表情が変わった。
すぐに箱を受け取る。
「そのようなことは申し上げておりません」
「必要ないって言った」
「ロビン様のお手を煩わせる必要がないと――」
「僕があげたいんだよ」
ロビンはエドガーを見上げた。
「それじゃ駄目?」
エドガーの喉が動く。
「……ありがたく頂戴いたします」
箱を開く。
黒茶と杉の香りが、かすかに広がった。
銀色の名前を見たエドガーが、指先で文字へ触れる。
「私の名が」
「他の人のを入れたら変でしょう」
「どのようにお選びになったのです」
「使う人のことを考えて選んだ」
「私のことを?」
「エドガーにあげるんだから」
当然のこととして答えると、エドガーは再び黙った。
パスカルが静寂を破る。
「陛下は、あなたが手袋の下で手を荒らしていることまでご存じでしたよ」
エドガーの目がパスカルへ向く。
「なぜお前が知っている」
「陛下から伺いました」
「贈答の内容を他人へ話す必要はない」
「選定の補助をしただけです」
「選んだのは僕だよ」
ロビンが間へ入る。
エドガーは箱を大切そうに持ち直した。
「使い方は分かる?」
「手へ塗るのでしょう」
「知ってるんだ」
「私を何だと思っておられるのです」
「何でも必要ないって言う人」
エドガーが言葉を失う。
ロビンは容器を取り出した。
「手を出して」
「ロビン様」
「店で練習したから、今度はちゃんとできる」
エドガーはしばらく抵抗していたが、やがて右手の手袋を外した。
大きな手が差し出される。
指の付け根が、少し乾いている。
ロビンは少量のバームを取り、手の甲へ置いた。
「少ないのでは?」
「最初から多いと、べたべたするんだって」
教わった通り、手の甲から指先へ伸ばす。
エドガーの手は温かかった。
魔獣を氷へ閉じ込め、将軍たちを黙らせる手が、自分の掌の中で動かずにいる。
ロビンの指が、長い指の間へ入る。
エドガーの呼吸がわずかに乱れた。
「痛い?」
「いいえ」
「くすぐったい?」
「問題ございません」
声が少し低い。
ロビンは爪の周りまで丁寧に塗る。
最後に、両手でエドガーの手を包んだ。
「終わり」
「ありがとうございます」
エドガーは手を引かず、ロビンの指を握った。
かすかな香りが、二人の間へ残る。
パスカルが壁際から言う。
「陛下。私も手荒れがひどいようです」
「嘘でしょう」
「ご確認になりますか」
差し出された手を、エドガーが冷たい目で見た。
「自分で塗れ」
「私への贈り物ではありませんので、持っておりません」
「買え」
「陛下からいただきたいのです」
ロビンは少し考えた。
「次に何かできるようになったら、パスカルにも選ぶよ」
エドガーの指が強く絡んだ。
「その必要はございません」
「どうしてエドガーが決めるの?」
「パスカルは百年以上、自分で贈答品を選んでおります」
「あなたも数千年、自分の手入れくらいできたでしょう」
パスカルが返す。
二人の間に冷たい空気が走る。
ロビンは握られた手を軽く振った。
「エドガー」
「はい」
「前の服、どうだった?」
逃げ道を与えずに尋ねる。
エドガーの視線がわずかに逸れた。
「人間界では目を引きすぎます」
「それは聞いた」
「襟元も不用心でした」
「それも聞いた」
「パスカルの趣味が過剰です」
「僕に似合ってた?」
沈黙。
パスカルが口を挟まずに待っている。
ロビンはエドガーの手を握ったまま、顔を見上げた。
「パスカルは、綺麗だって言ってくれた」
エドガーは観念したように、息を吐いた。
「似合っていなかったのではありません」
「じゃあ?」
「あまりにも、お似合いでした」
ロビンが瞬く。
エドガーは苦い顔のまま続けた。
「誰もがロビン様を見ておりました。あのような姿で人間界を歩かれることを、私は好ましく思いません」
「僕が変だからじゃなくて?」
「逆です」
「見られたくなかった?」
「……はい」
胸の奥が、ふわりと軽くなった。
ロビンは笑う。
「そう言ってくれればよかったのに」
「申し上げられる内容ではございません」
「今、言ったよ」
エドガーは苦々しく黙った。
ロビンは彼の手へ頬を寄せる。
塗ったばかりの香りがした。
「次は、隠さないでね」
「衣装をですか」
「言いたいことを」
エドガーの目が揺れる。
「努力いたします」
「約束?」
「……お約束いたします」
パスカルが静かに拍手した。
「大きな一歩ですね」
エドガーが睨む。
「お前はいつまでいる」
「陛下から次の贈り物をいただくまで」
「今すぐ帰れ」
「ここが私の城でもあることをお忘れなく」
「じゃあ、二人とも今日は紅茶にしよう」
ロビンがエドガーの手を引いた。
「僕が淹れる」
「おやめください」
「どうして?」
「贈り物をいただいた直後に、厨房を燃やされたくありません」
「燃やさないよ」
「前回は茶葉を鍋で煮込みました」
「今日は教えてくれればできる」
エドガーが答える前に、パスカルがロビンの反対側へ並ぶ。
「私は陛下のお茶なら、どのような状態でも喜んでいただきます」
「お前は飲むな」
「陛下。エドガーが独占を始めました」
「いつものことでしょう」
ロビンは二人の間で笑った。
エドガーの手は、最後まで離れなかった。
ともだちにシェアしよう!

