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第3話 消された名前

魔王城の大記録庫では、三百年分の陳情書が空を飛んでいた。 羊皮紙、石板、獣皮、炎で文字を刻んだ契約書。 本来は年代と地域ごとに整列している記録が、天井近くで巨大な渦を作っている。 「触らないでください、ロビン様」 「まだ触ってないよ」 ロビンが伸ばしかけた手首を、エドガーが後ろからつかんだ。 今日は黒い手袋をしていない。 長い指から、黒茶と杉の香りがかすかに漂った。 ロビンは手を止めたまま、少しだけ笑う。 「使ってるんだ」 「何をでしょう」 「贈ったもの」 エドガーは答えず、ロビンの手を自分の背後へ下ろした。 耳が少し赤い。 「記録庫の術式は複雑です。下手に触れれば、建国以前の記録まで混ざります」 「僕なら、そこまで大きな失敗はしないよ」 「その自信が最も危険です」 「失礼だな」 記録官たちは、二人の会話を聞こえないふりで作業している。 一人の記録官が青ざめた顔で駆け寄った。 「エドガー様。南部領の支給記録が見つかりません。索引上では存在しているのですが、保管庫へ接続できず……」 エドガーの顔から、ロビンへ向けていた柔らかさが消えた。 「索引を出せ」 記録官が石板を差し出す。 エドガーは一度目を通しただけで、宙を回る記録の渦へ手を向けた。 床一面に青白い術式が走る。 空を飛んでいた数千の記録が、一斉に止まった。 「南部領の索引が二重に書き換えられている」 指を動かす。 記録の渦から三枚の石板が引き出され、エドガーの前へ並んだ。 「一枚目が正規の索引。二枚目は昨夜作られた偽造品。三枚目が、偽造品を正規記録へ接続した操作履歴だ」 記録官たちが息をのむ。 ロビンも石板をのぞき込んだ。 「名前は?」 「消去されています」 「誰がやったか分からないの?」 「消去した者が、操作履歴から自分の名も削ったようです」 エドガーは三枚目の石板を裏返した。 何も刻まれていない黒い面へ、素手の指を押し当てる。 黒い光が走った。 削られた文字が、傷跡のように浮かび上がる。 一人の記録官の名前が現れた。 部屋の隅で、若い悪魔が膝から崩れる。 「違います! 私は命じられただけです!」 エドガーは石板から目を上げた。 「誰に命じられた」 若い悪魔は口をつぐむ。 エドガーが視線を向けただけで、記録庫の灯火が一斉に細くなった。 「魔王陛下の統治記録を偽り、民へ渡る支給を奪った者を庇うなら、お前も同じ罪で裁く」 声を荒らげてはいない。 それでも若い悪魔の額から汗が流れた。 「財務官補佐のグレム様です! 南部領への支給額を減らし、差額を別口座へ移すよう命じられました!」 「拘束しろ」 衛兵たちが若い悪魔を連れていく。 エドガーは残った記録官へ指示を飛ばした。 「正規索引を復元。過去半年の南部領支給記録をすべて照合しろ。今後、消去履歴は別系統へ保存する」 「承知いたしました」 記録官たちが一斉に動き出す。 ロビンは、エドガーの横顔を見上げた。 誰も気づかなかった偽造を、ほんの数分で見つけた。 命令を下す低い声。 長い指が術式を切り分けるたび、数百年分の記録が正しい位置へ戻っていく。 自分の手を止めた時は優しかった指が、今は刃のようだった。 「エドガー」 「はい」 「格好よかった」 エドガーの指が止まった。 作業中の記録官たちまで、一瞬動きを止める。 エドガーが冷たい視線を巡らせると、全員が慌てて手元へ戻った。 「当然の務めを果たしただけです」 「それでも格好よかったよ」 「……ありがとうございます」 返事は小さかった。 耳は、先ほどより赤い。 ロビンは機嫌よく、エドガーの素手へ自分の指を重ねた。 「僕も、消した記録を戻せるようになりたい」 「おやめください」 即答だった。 「どうして?」 「ロビン様の好奇心は、段階を三つほど飛ばします」 「失礼だな」 「事実です」 「でしたら、まずは人間の簡単な記録から始めましょう」 頭上から声が降ってきた。 パスカルが記録棚の上に腰掛けている。 赤い上着の裾を揺らし、軽やかに床へ降りた。 「本日は、人間界で初心者向けの情報機器体験会が開かれます。文書の作成、保存、削除、復元。陛下の学習にちょうどよろしいかと」 エドガーが眉を寄せる。 「いつからそこにいた」 「陛下があなたを格好いいとお褒めになった少し前から」 「今すぐ出ていけ」 「せっかくですから、もっと聞かせていただけばよろしいのに」 「パスカル」 ロビンが呼ぶ。 「何でしょう、陛下」 「初心者でも本当にできる?」 「説明を聞けば」 「行く」 エドガーが口を開く前に、記録棚の端から一通の封書が滑り落ちた。 紫色の封蝋。 銀色の翼を持つ蛇の紋章。 パスカルが床へ落ちる前に拾う。 「これはまた、熱心な方ですね」 エドガーの表情が変わった。 パスカルから封書を奪い、黒い書類ケースへ入れる。 「何、それ」 ロビンが尋ねる。 「西方宮からの招待状です」 「僕宛て?」 「形式的なものです。出席する必要はございません」 パスカルが笑う。 「春夜会へ、ロビン様お一人をご招待とは。あちらの王子は、形式以上の期待を抱いておられるようですが」 「パスカル」 エドガーの声が低くなる。 「何です?」 「黙れ」 ロビンは黒いケースを見た。 「僕一人?」 「護衛を伴わず出席させる意図の招待です。お受けする価値はございません」 「誰からなの?」 「陛下がお知りになる必要はありません」 ロビンの表情が少し曇る。 エドガーはすぐに気づいた。 「危険を避けるためです」 「分かった」 ロビンはそれ以上聞かなかった。 エドガーが何か言いかける。 しかし、口を閉じた。 パスカルは二人を見比べたが、何も言わなかった。 「午後は空いてるよね」 ロビンが話を戻す。 「夕刻に、各領主への書簡をご確認いただきます」 「帰ってからやる」 エドガーは少し考えた。 「承知いたしました。帰還後、必要な箇所だけ私がご説明します」 「全部代わりに読まない?」 「いたしません」 「約束ね」 「はい」 エドガーは反対を飲み込み、記録官へ転移門の準備を命じた。 ロビンの決定を、他の者の前で覆さない。 それを知っているから、ロビンも安心して背を向けられた。 **** 伊藤麻衣は、会議で話すタイミングが分からない。 分からないというより、正確な言葉を選んでいる間に、その時間が消える。 「体験会では、通信が不安定な環境も想定した方がいいと思います」 佐久間圭介が言った。 部長の宮本が頷く。 「確かに。会場は来場者が多いからな」 麻衣は自分の資料を見た。 三日前に共有した設計案の二ページ目。 《通信切断時の一時保存機能を、体験版にも実装する》 そう書いてある。 言え。 今言え、私。 それは私が提案しました。 口を開く。 「あの」 佐久間が先に続けた。 「伊藤さんが実装してくれているので、今日中には試せると思います」 宮本が笑う。 「さすが佐久間。先のことまで見てるな」 「いえ。技術チームのおかげです」 佐久間は麻衣へ穏やかに微笑んだ。 「伊藤さん、今日中にいける?」 「昨日、完了しています」 「さすが。仕事が早い」 違う。 早いのではない。 提案したのも、設計したのも、実装したのも自分だ。 「それから、明日の製品説明は佐久間に任せる」 宮本が次の資料を開く。 麻衣は顔を上げた。 「技術質問が出た場合は」 「伊藤さんも会場にはいてくれ。細かいところは、後ろから補足を頼む」 「私が説明した方が」 声が細くなった。 宮本には届かなかったらしい。 「佐久間は話がうまいからな。対外説明は、聞きやすさも大事だ」 佐久間が麻衣へ笑いかける。 「大丈夫。答えが必要になったら、僕から聞くから」 それでは遅い。 相手がどこで困り、どの言葉へ反応したか。 その場でしか分からないことがある。 けれど、会議は次の議題へ進んでいた。 麻衣は自分の記録へ一行追加する。 《製品説明担当:佐久間圭介。技術補助:伊藤麻衣》 事実を残す。 それだけは、誰にも止められない。 会議後、佐久間が麻衣の席へ来た。 「明日のスライド、ありがとう。少し見やすく直しておいたよ」 共有画面を開く。 表紙には、 《企画・設計 佐久間圭介》 と書かれていた。 麻衣は瞬きをした。 昨日までは、 《設計・開発 伊藤麻衣》 だった。 「ここ」 「うん?」 「作成者名が変わっています」 「ああ」 佐久間は軽く頷いた。 「発表する人間の名前を前へ出した方が、先方も分かりやすいから」 「設計したのは私です」 言えた。 佐久間は少し困ったように笑った。 「もちろん分かってるよ。でも、チームの成果でしょう?」 「私の名前を消す必要はありません」 「消してないよ。最後のページに、開発担当として入れてある」 麻衣は資料の最終ページを見る。 小さな文字で、複数の社員名が並んでいる。 その三番目に、伊藤麻衣。 「表紙に二人載せると、散らかるから」 「では、設計を企画へ変えてください」 佐久間の笑顔が薄くなる。 「そこまで気にする?」 喉の奥が詰まった。 気にする。 自分が作ったものだから。 「伊藤さんは技術があるんだから、それでいいじゃない。僕は説明を担当する。得意なことを分けてるだけだよ」 「説明担当が、設計者になるのは違います」 「そんなに強く言わなくても」 声を荒らげてはいない。 むしろ、いつもより小さかった。 近くの社員たちがこちらを見ている。 麻衣は椅子へ座り直した。 「修正してください」 佐久間はしばらく黙っていた。 「宮本さんに確認するよ」 数分後、宮本から短いメッセージが届く。 《今回は佐久間名義で統一します。伊藤さんは実演サポートをお願いします》 麻衣は画面を閉じた。 **** 帰宅したのは、午後十一時を過ぎていた。 電気をつける。 机の上には、朝に飲み残したコーヒーがある。 冷蔵庫を開く気力もなく、カップ麺へ湯を注いだ。 待っている間、仕事用の端末を開く。 開発履歴。 設計書。 更新記録。 一行ずつ、自分の名前が並んでいる。 発案。 設計。 実装。 試験。 修正。 全部、私。 麻衣はメールを開いた。 宛先に宮本と佐久間の名を入れる。 《明日の説明資料について、作成者表記の訂正を求めます》 そこまで打った。 続きが出てこない。 感情的だと思われない文章。 協調性がないと思われない文章。 けれど、自分が作ったと分かる文章。 カーソルだけが点滅している。 言え。 今言え、私。 麻衣はメールを下書きへ保存した。 送信はしなかった。 カップ麺は、汁をほとんど吸っていた。 一口食べる。 味がしない。 画面の文字がにじんだ。 麻衣は眼鏡を外し、目元を手の甲で押さえた。 自分が泣いている理由まで、正確な文章にできなかった。 **** 翌日の体験会場は、人であふれていた。 企業ごとに設けられたブースで、来場者が新しい機器やサービスを試している。 麻衣の会社は、店舗向け予約・在庫管理システムを展示していた。 佐久間はブースの前に立ち、来場者へ明るく声をかけている。 麻衣は後方の机で、端末の状態を確認していた。 「伊藤さん」 宮本が声を潜める。 「来場者対応は佐久間に任せて。あなたは何か起きた時だけ出てくれればいいから」 「分かりました」 「あと、表情が硬いよ。お客様が不安になるから、もう少し笑って」 麻衣は口元を動かした。 笑顔になっているか、自分では分からない。 宮本は満足しなかったようだが、別の来場者へ呼ばれて離れた。 少しして、柔らかな栗色の髪をした青年が、体験用端末の前へ座った。 隣には、赤い上着を着た長身の男がいる。 青年は画面を真剣に見ていた。 説明用の矢印に従い、顧客名を入力する。 予約時刻を選ぶ。 商品を一件登録する。 そこまでは順調だった。 青年の指が、画面右上の赤い表示へ触れる。 《全データを削除しますか》 確認画面が出る。 青年は首を傾げた。 《はい》 を押す。 画面から、すべての予約が消えた。 青年が固まった。 隣の男は、口元を押さえて笑っている。 麻衣は席を立った。 「何をしました?」 青年が振り返る。 「全部、消した」 「どの操作をしましたか」 「赤いところを押したら、全部消すか聞かれた」 「はいを押しました?」 「うん」 「なぜですか」 「分からなかったから」 「分からない時は、押す前に聞いてください」 「ごめんなさい」 素直だった。 麻衣は端末の前へ座る。 「最後に保存された時刻を確認します」 「戻せる?」 「戻せます」 青年が隣に立った。 近い。 「少し離れてください」 「邪魔?」 「画面が見えません」 「あ、ごめん」 すぐに一歩下がる。 麻衣は操作履歴を開いた。 削除時刻。 対象範囲。 直前の自動保存。 一つずつ確認する。 青年は何も言わなかった。 急かさない。 画面をのぞき込まない。 ただ、黙って待っている。 麻衣は復元を実行した。 予約一覧が戻る。 青年が息を吐いた。 「戻った」 「はい」 「すごい」 「自動保存の機能です」 「伊藤さんが作ったの?」 胸元の名札を読んだらしい。 麻衣は答えるまでに少し時間がかかった。 「……はい」 「やっぱり」 「なぜ分かったんですか」 「使い方を知ってたから」 「作った人でなくても、説明書を読めば分かります」 「でも、伊藤さんは画面を見た時、どこを直せばいいか分かってた」 青年は何のためらいもなく言った。 「格好いいね」 麻衣は視線を画面へ戻した。 返事が見つからない。 「次は、押す前に聞きます」 「そうしてください」 「伊藤さんが考えてる時は、待った方がいい?」 麻衣は青年を見る。 「何をですか」 「話しかけない方が、答えが逃げないでしょう?」 数秒、黙る。 「……その方が助かります」 青年は笑った。 「分かった」 赤い上着の男が、麻衣へ丁寧に頭を下げる。 「陛下がお世話になりました」 「陛下?」 「彼の愛称です」 「違うよ、パスカル」 青年が抗議する。 麻衣はそれ以上聞かなかった。 理解する必要のない会話だった。 「路敏様」 佐久間が近づいてきた。 受付で登録した名前を見たらしい。 「こちらのシステムは、私が中心となって企画、設計したものです。よろしければ、正式なご説明を」 麻衣の指が止まる 路敏が麻衣を見る。 「伊藤さんが作ったんじゃないの?」 佐久間の笑顔がわずかに固まった。 「もちろん、開発チームの一員です。私は全体設計とプロジェクト管理を担当しています」 違う。 麻衣は口を開く。 声が出ない。 佐久間は話を続ける。 「伊藤さんは、細かな実装が得意なんです。対外説明は私が担当しています」 パスカルが麻衣を見た。 何も言わない。 ただ、待っている。 言え。 今言え、私。 「全体設計も」 声が小さかった。 佐久間が振り返る。 麻衣は息を吸った。 「全体設計も、私です」 佐久間の表情から笑みが消える。 周囲の音が、急に大きく聞こえた。 来場者の話し声。 端末の電子音。 隣のブースの音楽。 麻衣は喉の震えを押さえた。 「佐久間さんは、進行管理と営業調整を担当しています」 言えた。 佐久間は一瞬黙り、すぐに笑顔を作り直した。 「そういう役割分担も含めて、チームで作った製品です」 「そうですね」 麻衣は答えた。 それ以上は続かなかった。 けれど、今度は黙ったままにしなかった。 **** 午後の製品説明会。 会場中央のステージには、導入を検討する企業担当者と一般来場者が集まっていた。 佐久間がマイクを持つ。 「私たちは、店舗で働く方が直感的に使えるシステムを目指しました」 スクリーンへ資料が映る。 《企画・設計 佐久間圭介》 麻衣はステージ脇の操作卓にいた。 表紙は修正されていない。 佐久間は滑らかに話す。 予約と在庫を一つの画面で管理できること。 機械に慣れていない人でも操作できること。 通信が切れてもデータを失わないこと。 麻衣が作った言葉が、佐久間の声で会場へ流れる。 拍手が起きる。 腹の奥が冷たくなった。 説明が終わり、質疑応答へ入る。 最前列の企業担当者が手を上げた。 「先ほど、削除した予約を復元できると説明されましたね」 「はい」 「実際の手順を見せていただけますか」 「もちろんです」 佐久間は操作端末へ移る。 予約を一件削除する。 そこまではできた。 復元メニューを探す。 画面を二度、三度切り替える。 目的の項目へたどり着かない。 「少々お待ちください」 会場の空気が変わる。 宮本が舞台袖から麻衣を見る。 出ろという目だった。 佐久間は端末を触り続ける。 「この体験版では、管理者権限が制限されていまして」 違う。 権限はある。 操作を知らないだけだ。 客席の端で、パスカルが退屈そうに案内冊子をめくった。 その指先が、冊子の銀色の縁を一度だけなぞる。 スクリーンの右端に、それまで閉じられていた細い欄が開いた。 《開発履歴》 画面構成――伊藤麻衣。 復元機能設計――伊藤麻衣。 通信切断時保存――伊藤麻衣。 監査記録――伊藤麻衣。 試験・修正――伊藤麻衣。 パスカルは、何事もなかったように次のページを開いた。 佐久間が慌てて画面へ触れる。 「これは内部用の表示です」 欄は閉じない。 企業担当者がスクリーンを見上げた。 「復元機能を設計したのは、伊藤さんとありますね」 「チーム内の作業分担として――」 「でしたら、伊藤さんに実演をお願いできますか」 麻衣はステージへ上がった。 足が重い。 マイクを渡される。 視線が集まる。 頭の中に言葉はある。 けれど、どこから出せばいいのか分からない。 客席の端に、路敏が座っていた。 目が合う。 彼は急かさない。 何も言わずに待っている。 麻衣は端末の前へ立った。 「削除されたデータは、すぐには完全消去されません」 声が少し震えた。 「操作履歴と、直前の保存状態が別に残ります」 復元画面を開く。 削除時刻を選ぶ。 戻す範囲を確認する。 実行。 消えた予約が画面へ戻った。 会場から、小さなどよめきが起きる。 企業担当者が尋ねた。 「通信が切れた状態で入力した場合は?」 「端末内へ一時保存します。接続が戻った後、サーバー側の更新と衝突しないか確認します」 「同じ予約を、別の端末でも変更していたら?」 「自動では上書きしません。変更箇所を並べ、利用者が選べるようにしています」 スクリーンへ比較画面を出す。 企業担当者は頷いた。 「この設計を考えたのも、伊藤さんですか」 マイクを握る指に力が入る。 「はい」 声が会場へ届いた。 「私が設計し、実装しました」 今度は、はっきり言えた。 「話すことは得意ではありません。でも、このシステムのことなら説明できます」 一拍遅れて、拍手が起きた。 派手なものではない。 それでも麻衣の耳には、十分大きく聞こえた。 企業担当者が宮本へ向き直る。 「導入検討の技術窓口は、伊藤さんにお願いできますか」 宮本は一瞬戸惑い、すぐに頷く。 「もちろんです」 「資料にも、設計責任者としてお名前を入れてください」 佐久間はマイクを持ったまま立っていた。 企業担当者が彼へ尋ねる。 「佐久間さんは、プロジェクト管理をご担当なのですね」 「……はい」 「では、今後の進行調整をお願いします。技術判断は伊藤さんへ確認します」 佐久間は頷くしかなかった。 説明会後、宮本が麻衣を呼び止めた。 「伊藤さん。さっきの説明、よかったよ」 「ありがとうございます」 「今後は、技術説明にも出てもらうことになる。話し方は練習が必要だけど」 褒めた後にも、必ず不足を付け足す。 麻衣は少し考えた。 「資料の表記を修正してください」 宮本が目を瞬く。 「表紙です」 「ああ。もちろん」 「過去に提出した資料も、可能な範囲で訂正をお願いします」 「そこまで?」 「設計者が違うまま残ると、問い合わせ先も誤ります」 感情ではなく、業務上の問題として言えた。 宮本は渋い顔をしたが、頷いた。 「分かった。確認する」 少し離れた場所に佐久間が立っている。 麻衣と目が合うと、こちらへ来た。 「伊藤さん」 「はい」 「悪かった。説明する人間の名前を出した方がいいと思ってた」 「説明担当と設計者を、両方載せればよかったと思います」 「……そうだね」 佐久間は言い訳を続けなかった。 完全に納得した顔ではない。 それでも、麻衣の名前を消したまま進めることはできなくなった。 **** 片づけを終えた麻衣が会場を出ると、外はもう暗かった。 建物の前で、路敏とパスカルが待っていた。 「伊藤さん」 路敏が手を上げる。 麻衣は足を止めた。 「何か、まだ不具合が?」 「ないよ。お礼を言いたかった」 「復元機能は、体験会のためのものです」 「それでも、僕が消したものを戻してくれた」 路敏は少し考える。 「あと、ちゃんと言えてたね」 麻衣の肩がわずかに固まった。 「聞いていたんですか」 「うん」 「忘れてください」 「どうして?」 「恥ずかしいので」 「格好よかったのに」 麻衣は返事を探した。 見つからない。 パスカルが笑みを浮かべる。 「陛下は、本日覚えたことを早く試したくて仕方がないようです」 「保存の仕方を覚えた」 路敏が言う。 「次は、消す前に聞く」 「それがいいと思います」 「伊藤さんも、言う前にずっと考えてた?」 「はい」 「でも、言えたね」 麻衣はしばらく黙った。 「……はい」 夜の風が少し冷たい。 麻衣は鞄の中の端末を思い出した。 下書きのまま残っているメール。 もう、あの文章を送る必要はない。 代わりに、正式な表記修正の依頼を送る。 「では」 麻衣は二人へ頭を下げた。 「お疲れさまでした」 路敏も笑う。 「お疲れさま」 麻衣は駅へ向かって歩き出した。 途中で端末を取り出す。 《設計責任者表記の訂正について》 新しいメールを作る。 対象となる資料名と、正しい表記を箇条書きにする。 送信。 画面に《送信しました》と表示された。 麻衣は端末を鞄へ戻した。 **** 魔王城へ帰ったロビンは、まっすぐエドガーの執務室へ向かった。 扉を開けると、エドガーは領主宛ての書簡へ目を通していた。 机の端には、黒いハンドバームが置かれている。 ロビンが近づくと、エドガーはすぐに書類を伏せた。 「お帰りなさいませ」 「ただいま。見せたいものがある」 ロビンは、人間界から借りてきた薄い端末を机へ置いた。 「自分で文書を作れるようになった」 「拝見いたします」 ロビンは画面を開いた。 《エドガーへ》 一行だけ書かれている。 エドガーが読む。 「こちらは?」 「練習」 「続きを書かれないのですか」 「何を書けばいいか考えてるところ」 パスカルが背後から画面をのぞく。 「『いつもありがとう。大好きです』でよろしいのでは?」 「勝手に決めないで」 ロビンは端末を胸へ抱えた。 エドガーの視線が、一瞬だけパスカルへ刺さる。 「陛下がお決めになることだ」 「珍しく正論ですね」 「黙れ」 ロビンは椅子へ座り直した。 「保存するところ、見てて」 画面の印へ触れる。 《保存しました》 「できた」 エドガーが頷く。 「正しく保存されております」 「簡単でしょう?」 「先ほどまで、記録庫の大術式へ触れようとしていた方とは思えません」 「それはもう言わなくていいよ」 ロビンは別の文書を開いた。 削除用の印へ指を近づける。 エドガーの手が、その上から重なった。 「押す前に、内容をご確認ください」 大きな手がロビンの指を包む。 黒茶と杉の香り。 ロビンは画面よりも、その手の方へ意識が向いた。 「これは消していい文書だよ」 「では、ご自分で」 エドガーは手を離しかける。 ロビンが指を絡めた。 「このまま教えて」 エドガーの呼吸が止まる。 「操作は、すでに理解なさっています」 「確認したい」 「何をです」 「ちゃんとできるか」 言い訳だった。 エドガーも気づいているはずなのに、手を離さなかった。 ロビンの後ろへ立ち、指を導く。 「削除した文書は、一時保管庫へ移ります。完全に消去されるまで、三十日間は復元可能です」 耳元で低い声がする。 エドガーの胸が、背中へ触れていた。 ロビンは少し体重を預ける。 エドガーは離れなかった。 「戻す時は?」 「こちらです」 エドガーの指が、ロビンの指を連れて画面を滑る。 向かいの椅子へ、パスカルが腰を下ろした。 「私にも教えていただけますか、エドガー先生」 「お前は記録庫の封印を勝手に解除しただろう」 「人間の機械は不得手かもしれません」 「嘘をつくな」 「陛下と同じように、後ろから手を取ってくださるなら」 エドガーの声が冷える。 「指を折るぞ」 ロビンは笑った。 「パスカルには僕が教えるよ」 「その必要はございません」 エドガーが即座に言う。 「またそれ」 「パスカルに教える時間があるなら、次の操作を覚えてください」 「妬いてる?」 エドガーの指が止まった。 「何をおっしゃいます」 「パスカルに教えるの、嫌そうだから」 「無駄な時間を避けているだけです」 パスカルが目を細める。 「便利な言葉ですね」 エドガーが睨む。 ロビンは少し笑い、体をエドガーへ預けたまま画面を閉じた。 「もう一つ、聞いていい?」 「何でしょう」 「朝の紫の手紙」 エドガーの体がわずかに固まる。 「誰からだったの?」 「西方宮の第二王子です」 今度は答えた。 「どうして僕一人を呼んだの?」 「春夜会の同伴者に、ロビン様をご指名になったためです」 ロビンは目を瞬いた。 「それって、僕と踊りたいってこと?」 「形式上は」 「返事は?」 「辞退いたしました」 「エドガーが?」 「はい」 「僕に聞かずに?」 エドガーの腕が、ロビンから少し離れた。 「護衛を伴えない招待を受けることはできません」 「それなら、そう言ってくれればよかったでしょう」 「結果は同じです」 「同じじゃないよ」 ロビンは椅子から立ち上がり、エドガーへ向き直った。 「僕が行かないと決めるのと、エドガーが僕に見せずに断るのは違う」 「ロビン様の安全を優先いたしました」 「僕が決める前に?」 エドガーは答えない。 パスカルも口を挟まなかった。 ロビンはエドガーの顔を見る。 自分の好みも、体調も、眠る時間も、何でも知っている男。 けれど、エドガー自身のことは、少しも教えてくれない。 「この前、隠さないって約束したよね」 「はい」 「エドガー」 ロビンは一歩近づいた。 「僕に言っていないこと、ほかにもある?」 問いかけた瞬間、エドガーの目が揺れた。 パスカルの笑みが消える。 ロビンは待った。 エドガーの手がわずかに動く。 ロビンへ伸びかけて、止まる。 「ございません」 静かな声だった。 迷いのない返答に聞こえた。 けれど、ロビンはエドガーの目を見ていた。 嘘だと分かった。 何を隠しているのかは分からない。 それでも、嘘をついたことだけは分かった。 「そう」 ロビンは笑おうとした。 うまくいかなかった。 先ほどまで絡めていた指を、自分の胸元へ戻す。 エドガーが手を伸ばす。 「ロビン様」 「今日は、自分の部屋で続きを書く」 「お供いたします」 「一人でできるよ」 拒絶するつもりで言ったわけではない。 それでも、エドガーの顔が痛そうに歪んだ。 ロビンは端末を抱え、扉へ向かう。 パスカルが静かに道を空けた。 扉の前で、一度だけ振り返る。 エドガーは机の前に立っている。 世界中の嘘を見抜くような男が、自分の嘘だけを抱えている。 「おやすみ、エドガー」 「……おやすみなさいませ」 ロビンは部屋を出た。 扉が閉じる。 執務室には、エドガーとパスカルだけが残った。 長い沈黙の後、パスカルが口を開く。 「お見事でした」 エドガーは答えない。 「陛下は、あなたの言葉を待っておられた」 「分かっている」 「いいえ。分かっている男は、あの顔をさせません」 エドガーの手が拳になる。 塗られたバームの香りが、かすかに広がった。 「黙れ」 「今回ばかりは、黙る理由がありません」 エドガーは、伏せていた書類を持ち上げた。 紫の封書。 その下には、同じようにロビン宛ての招待状が何通も重なっている。 パスカルはそれを見て、目を細めた。 「隠していることは、本当にそれだけですか?」 エドガーは答えない。 ロビンが座っていた椅子へ視線を向ける。 そこには、もう誰もいない。 エドガーは手袋をはめようとした。 一度指を入れ、やめる。 ロビンが触れた香りを隠せず、素手のまま拳を握った。

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