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第4話 家族だから
魔王城の朝は、静かすぎた。
ロビンは一人で朝食を取っていた。
長い卓には、温かなパン、果物、卵料理、銀のポットが並んでいる。どれも、いつも通り完璧だった。
紅茶の濃さも、砂糖の数も、パンの焼き加減も。
エドガーの姿だけがない。
「エドガーは?」
そばに控えていた侍従が頭を下げる。
「西方宮への返書と、北部交易路の再編について協議中でございます」
「朝から?」
「昨夜より、お休みになっておられません」
ロビンはカップを置いた。
昨日、自分が部屋を出た後も、エドガーはずっと働いていたらしい。
忙しいのだ。
魔王城には、エドガーにしかできない仕事がいくつもある。
自分が勝手に傷ついて、エドガーの仕事を増やしているような気がした。
「お呼びいたしましょうか」
「いい」
返事が少し早くなった。
侍従が黙って下がる。
ロビンは自分でポットを持った。
カップへ注ぐ。
少し勢いがつき、紅茶が受け皿へこぼれた。
エドガーなら、ロビンが持ち上げる前に注いでいる。
布を取り、こぼれた紅茶を拭く。
一人でもできる。
できるのに、胸の奥が少し寒かった。
「なんとも寂しい朝食ですね」
窓辺のカーテンが風もないのに揺れた。
パスカルが、その影から姿を現す。
「勝手に入ってこないで」
「扉から参りますと、侍従たちがエドガーへ報告してしまいますので」
「報告されたら困るの?」
「あなたと二人きりになれなくなります」
パスカルは向かいの椅子へ腰を下ろした。
ロビンの顔を見て、笑みを少し薄くする。
「眠れませんでしたか」
「眠ったよ」
「何時間ほど?」
「三時間」
「それを人間界では、眠っていないと申します」
パスカルはこぼれた紅茶の受け皿を見た。
新しいカップを用意しようと手を伸ばす。
ロビンが先に受け皿を持ち上げた。
「自分でやる」
「承知いたしました」
パスカルは素直に手を引いた。
ロビンは新しいカップを取り、自分で紅茶を注いだ。
今度はこぼさない。
「今日も人間界へ行く?」
「もちろん、ご案内できます」
「エドガーには言わないで」
パスカルの目が細くなる。
「それはお勧めいたしません」
「どうして。エドガーだって、僕に言わないことがある」
「陛下まで同じことをなされば、二人とも口を閉ざしたままになります」
ロビンはカップの中を見る。
言われたくない正論だった。
「では、私から正式に伝えましょう」
「何て?」
「陛下は本日も人間界でお仕事をなさる。同行は私。帰還は日没前」
「エドガー、反対するよ」
「それでも、あなたがお決めになることです」
ロビンは顔を上げた。
「パスカルは、いつもそう言うね」
「何をでしょう」
「僕が決めるって」
「魔王陛下ですから」
「魔王じゃなかったら?」
パスカルは少しだけ笑った。
「それでも、ご自分のことはご自分でお決めになるべきでしょう」
答えが早い。
迷いがない。
エドガーなら、どう答えるだろう。
考えただけで胸が痛んだ。
****
小林由佳のスマートフォンが鳴ったのは、午前十時十四分だった。
会議室では、取引先へ提出する企画書の最終確認が始まっている。
由佳は画面に表示された病院名を見た。
一度、切ろうとした。
すぐにまた鳴る。
隣の同僚が小声で尋ねる。
「出なくて大丈夫?」
「……すみません」
由佳は席を立ち、会議室の外へ出た。
「はい、小林です」
『小林美代子さんの娘さんでいらっしゃいますか』
「はい」
『本日、受診予定になっているのですが、まだお見えになっていなくて』
由佳は壁の時計を見る。
今日の通院は兄が担当するはずだった。
「確認します。少しお待ちいただけますか」
電話を切り、家族のグループチャットを開く。
《今日、お兄ちゃんが病院へ連れていく日だよね?》
既読がつかない。
兄へ電話をかける。
三度目でつながった。
『由佳? 今、会議の前なんだけど』
「お母さん、病院に来てないって」
『あ』
短い声だった。
『今日だったか』
「カレンダーにも入れたよ。昨日も送った」
『悪い。完全に抜けてた』
「今から行ける?」
『無理だよ。十一時から役員会議なんだ』
由佳は会議室の扉を見る。
自分の会議も始まっている。
企画書の中心部分は、由佳が作った。
今日の確認が終われば、取引先へ提出される。
「私も今、外せない仕事があるんだけど」
『病院、近いだろ? 午前の受付に間に合わない?』
近い。
兄の家よりは。
だから何度も由佳が行った。
「妹に聞いてみる」
『あいつは子どもの迎えがあるだろ』
午前中には関係がない。
けれど、兄の中では、妹には子どもがいるから頼めないことになっている。
由佳には、いない。
『悪い。今回だけ頼む』
今回だけ。
何度聞いたか分からない。
「分かった」
口が先に答えた。
電話を切る。
妹にも連絡をしなかった。
断られた時に、もっと惨めになる気がした。
会議室へ戻る。
上司が資料から顔を上げた。
「大丈夫?」
「母の病院からでした」
「行った方がいいんじゃない?」
優しい声だった。
行くことを止めてほしかったわけではない。
ただ、自分の仕事も大事だと言ってほしかった。
「すみません。午後には戻ります」
「資料はこっちで見ておくから」
由佳は頭を下げた。
会議室を出る。
廊下を歩きながら、兄から届いたメッセージを見る。
《助かる。今度埋め合わせする》
今度。
何をもって埋め合わせるのだろう。
由佳の有給か。
取引先の信頼か。
途中で止まった仕事か。
電車の窓へ自分の顔が映る。
「私の仕事は、いつなら大事にしてもらえるんだろう」
声にすると、思ったより弱かった。
****
母は自宅の居間で、病院へ行く支度をして待っていた。
「ごめんねえ。お兄ちゃん、忙しいんでしょう?」
「うん」
「由佳は近いから助かるわ」
母に悪気はない。
本当に、由佳が来てくれて安心している。
それが分かるから、何も言えない。
病院へ着き、受付を済ませ、診察を待つ。
母の薬の残数を確認し、次回の予約を取る。
会計。
薬局。
帰りに食料品を買う。
実家へ戻った時には、午後二時を過ぎていた。
スマートフォンには、会社からいくつかメッセージが入っている。
《企画書の数字、どの資料を参照していますか》
《取引先から確認が来ています》
《戻れそうですか》
由佳は台所で母の薬を一週間分に分けながら返信した。
母が居間から声をかける。
「由佳、お昼は食べた?」
「まだ」
「冷蔵庫におにぎりがあるよ」
「あとで食べる」
「忙しいのに悪いねえ」
「平気、平気」
錠剤をケースへ入れる。
朝。
昼。
夜。
曜日を間違えないよう、何度も確認する。
母のせいではない。
兄も忙しい。
妹も子育てで大変だ。
誰も由佳を苦しめようとしていない。
だからこそ、どこへ怒ればよいのか分からなかった。
****
数日後。
由佳が市役所の福祉窓口へ来た時、待合席には妙に目立つ二人の男性がいた。
一人は、柔らかな栗色の髪をした美しい青年。
もう一人は、赤い上着を着た長身の男。
青年は申請書を前に、完全に止まっていた。
「世帯主って、城主とは違うの?」
「似ているようで異なりますね」
「扶養は?」
「陛下が養われている人数を記載する欄ではございません」
「では、魔王軍は書かなくていい?」
「こちらへ書き切るには、紙が足りません」
由佳は聞こえないふりをして、番号札を取った。
空いている席へ座る。
青年が申請書を持ったまま、由佳の隣へ来た。
「すみません」
「はい」
「この欄、分かりますか」
由佳は用紙を見る。
介護サービス利用に関する簡易申請だった。
住所も氏名も、途中までしか埋まっていない。
「利用するご本人との関係を書く欄です」
「本人との関係」
「申請する人が、家族なのか、代理人なのか」
「僕が使うなら、本人?」
「そうです」
青年は嬉しそうに丸をつける。
次の欄で、また止まった。
「緊急連絡先は?」
「何かあった時に、連絡してほしい人」
青年は迷わず赤い上着の男を見た。
男が胸へ手を当てる。
「光栄です」
「パスカルじゃないよ」
「おや」
「エドガーを書く」
由佳はペン先を止めた青年を見る。
「電話番号、分かります?」
「知らない」
「連絡先にしたい人の番号を知らないんですか」
「呼べば来るから」
「電話番号を書いてください」
「呼ぶだけじゃ駄目?」
「役所では駄目です」
青年は素直に赤い男へ顔を向けた。
「エドガーの番号、分かる?」
「もちろん存じております」
「教えて」
男が番号を読み上げる。
由佳は横で、自分の申請書を開いた。
母の介護認定更新。
利用中のサービス。
家族の連絡先。
主たる介護者。
ペンが止まる。
自分の名前を書く。
また自分だ。
「難しいですか」
青年が由佳の用紙を見た。
「人のを見ないでください」
「ごめんなさい」
すぐに顔を戻す。
由佳は少しだけ笑った。
「こっちも難しいだけです」
「分からないところ、聞けばいいよ」
「誰に?」
青年は窓口を指した。
「ここに詳しい人がいるでしょう」
当たり前のことを言う。
由佳は窓口を見る。
役所へ来る前に、すべて自分で調べてからでなければならないと思っていた。
迷惑をかけないように。
時間を取らせないように。
家族にも、職員にも。
「そうですね」
由佳は番号を呼ばれ、窓口へ向かった。
****
申請には、不足書類がいくつかあった。
母の通院状況。
服薬情報。
家族の支援状況。
由佳は鞄から、薬の一覧、通院予定表、領収書の控えを出す。
職員が目を丸くした。
「きれいにまとめていらっしゃいますね」
「必要になると思ったので」
「主に小林さんがお一人で管理されているんですか」
「兄と妹もいます」
「送迎や手続きの分担は?」
由佳は口を閉じた。
以前は分担していた。
兄が車を出し、妹が買い物をし、由佳が書類をまとめた。
母の状態が変わるたび、少しずつ由佳の担当が増えた。
由佳が一番詳しいから。
由佳が近いから。
由佳は独身だから。
誰かが決めたわけではない。
断らなかった自分も、その形を支えてしまった。
「今は、ほとんど私です」
職員は責める顔をしなかった。
「一人で続けるのは難しい量ですね」
その一言で、喉が詰まった。
家族からは、由佳なら大丈夫と言われる。
会社では、仕方ないと言われる。
初めて、難しい量だと言われた。
「外部サービスを増やすこともできます。ご家族へ説明する資料もお渡ししますね」
「お願いします」
声が少し震えた。
窓口を離れると、栗色の青年が待合席にいた。
自分の申請書を両手で持っている。
「できた?」
「はい」
「僕もできた」
誇らしそうに見せる。
記入欄はすべて埋まっていた。
「よかったですね」
「由佳さんが教えてくれたから」
名札もないのに、申請書を見て名前を覚えたらしい。
「少ししか教えてません」
「少しでも助かったよ」
真っ直ぐ言われ、由佳は目を逸らした。
「じゃあ、お互いお疲れさまですね」
「お疲れさま」
赤い男も優雅に一礼する。
「陛下へのご助力、感謝いたします」
「大げさですね」
「陛下に関することは、すべて大事でございますので」
その言い方が、妙に本気だった。
****
日曜日。
由佳は母の家へ、兄と妹を呼んだ。
介護サービスの説明をしたいと伝えてある。
兄は仕事帰りのような顔で、ノートパソコンを持ってきた。
妹は子どもを夫へ預けて、一人で来た。
「何かあった?」
妹が尋ねる。
「サービスの更新。分担も一度整理したくて」
兄が時計を見る。
「一時間くらいなら大丈夫」
その言葉だけで、由佳の胸が固くなる。
母が台所からお茶を運んできた。
「由佳、座ってて。今日は私がやるから」
「危ないよ」
「お茶くらいできるわよ」
母は棚から湯飲みを出そうとした。
その拍子に、棚の奥へ立てかけてあった写真立てが傾いた。
床へ落ちる前に、由佳が受け止める。
古い家族写真だった。
父がまだ生きていた頃。
母の入院後、兄妹三人で家事を分けていた時期のものだ。
庭先で、全員が疲れた顔のまま笑っている。
「懐かしい」
母が写真を受け取る。
「この頃も大変だったねえ」
兄がのぞき込む。
「親父が料理して、台所を焦がした時だ」
「お兄ちゃんが洗濯物を全部桃色にした時でもあるよ」
妹が笑う。
母は写真の表面を指でなぞった。
「みんなで頑張ったねえ」
テーブルの端に、見慣れない赤い花びらが一枚落ちていた。
窓は閉まっている。
由佳は気づかず、資料を広げた。
少し離れた屋根の上で、パスカルが指先から同じ花びらを消した。
隣に座るロビンが尋ねる。
「写真を落としたの?」
「目につく場所へ戻しただけです」
「それだけ?」
「それ以上は、ご家族がお決めになることです」
二人は窓の中を見た。
部屋の声までは聞こえない。
パスカルは立ち上がる。
「参りましょう。ここから先は、我々の出番ではございません」
****
由佳は、通院予定表をテーブルへ置いた。
「これが、今月の予定」
兄が画面を見る。
「こんなにあるのか」
「診察は三回。薬だけの日が一回。訪問調査と、サービス担当者会議」
妹が領収書を手に取る。
「これ、全部立て替えてたの?」
「あとで精算しようと思って、そのまま」
「言ってよ」
妹の言葉に、胸の奥が熱くなる。
「言えなかったの」
声が思ったより強く出た。
兄妹が黙る。
由佳は一度、息を吸った。
「二人も忙しいと思った。お兄ちゃんは仕事があるし、真理は子どもがいるし」
「由佳だって仕事があるだろ」
兄が言う。
「その仕事を、何度も途中で抜けてる」
兄の顔が固まる。
「この前も病院へ行った日、取引先との会議だった」
「悪かった。俺、本当に忘れてて」
「忘れたことだけじゃない」
口にすると、止まらなくなった。
「お兄ちゃんの会議は外せない。真理の迎えは変えられない。私の仕事だけ、いつも動かせることになってる」
妹が唇を結ぶ。
「そんなつもりじゃ」
「分かってる」
由佳は遮った。
「二人が、私に全部押しつけようと思ってたわけじゃないのは分かってる」
だから苦しかった。
悪い人がいれば、怒れた。
「私も、大丈夫って言い続けた。頼むより自分でやった方が早いって思った。お母さんに心配させたくなかった」
母が写真を抱えたまま、由佳を見る。
「由佳」
「でも、一人では続けられない」
声が震えた。
「私にも仕事と生活がある」
部屋が静かになった。
母がゆっくり口を開く。
「由佳の仕事だって、大事でしょう」
由佳は母を見る。
母は申し訳なさそうに眉を下げた。
「私、由佳が来てくれると安心して、そればかり言ってたね」
「お母さんのせいじゃないよ」
「それでも、由佳ばかりに頼った」
兄が通院予定表を自分の方へ引き寄せる。
「火曜の診察は、俺が行く」
「仕事は?」
「午後からにする。今度は先に予定を入れる」
妹も資料を見る。
「薬局と買い物は私がやる。子どもを連れていけるし、無理な日は夫に頼む」
「でも」
「私たちが頼まなかっただけで、夫も手伝えるよ」
妹は領収書をまとめる。
「費用も三人で分けよう。今までの分も計算して」
兄が外部サービスの資料を読む。
「送迎サービスって、毎回使えるのか」
「予約が必要だけど」
「じゃあ、家族だけで全部回そうとするのもやめよう」
由佳は何も言えなかった。
急に全部が楽になるわけではない。
兄がまた忘れることもあるだろう。
妹の子どもが熱を出す日もある。
サービスが予定通り使えない日もある。
それでも、初めて自分の生活も予定表へ入った。
「由佳」
兄が言う。
「この前の会議、どうなった?」
「同僚が対応してくれた。あとで説明し直した」
「そうか」
兄は少し迷い、頭を下げた。
「悪かった。お前の仕事を、動かせる前提で考えてた」
妹も、
「私も。由佳なら分かってくれるって、甘えてた」
と言った。
由佳は目元を押さえた。
「泣くつもりじゃなかったのに」
母がティッシュ箱を差し出す。
「家族なんだから、泣いてもいいでしょう」
由佳は笑った。
「家族だからって、何でも許されるわけじゃないよ」
「あら」
「でも、今はもらう」
ティッシュを一枚取った。
****
一週間後。
兄が母の通院へ付き添った。
夕方、由佳のスマートフォンに写真が届く。
待合室で疲れ切った兄と、元気そうに笑う母。
《病院、薬局、買い物で一日終わった》
続けて、
《これを毎週やってたのか?》
由佳は返信する。
《毎週じゃないよ。毎日》
しばらく既読だけがついた。
その後、
《次の火曜も俺が行く》
と届いた。
由佳はスマートフォンを伏せ、会社の机へ向き直った。
今日は会議を最後まで抜けずに終えた。
自分の企画書について、取引先から直接質問を受けた。
全部、自分で答えた。
帰りに、コンビニで低アルコールの缶を一本買った。
明日は運転しなくていい。
それだけで、少し贅沢な夜だった。
****
魔王城へ帰ったロビンは、玉座の間へ呼ばれた。
エドガーが中央に立っている。
周囲には、十数人の領主と財務官たち。
ロビンが入ると、全員が一斉に頭を下げた。
「魔王陛下」
エドガーは玉座の脇へ下がる。
「南部領への不足支給について、再計算が完了いたしました」
ロビンは玉座へ座った。
財務官が資料を読み上げる。
不足額。
補償。
関係者への処分。
説明が終わると、エドガーがロビンを見る。
決定を求める視線だった。
以前なら、エドガーの判断へそのまま署名していた。
ロビンは資料を手に取る。
「南部領への補償は、この額だけ?」
財務官が顔を上げる。
「不足分に利息を加えております」
「支給が遅れたせいで、冬の備蓄を売った村があるって聞いた」
エドガーの目がわずかに動く。
ロビンは続けた。
「売った備蓄を買い戻す費用も入れて」
財務官がエドガーを見る。
エドガーは一歩前へ出た。
「陛下がお命じになった。算定し直せ」
「しかし、前例が」
「前例より、陛下のご決定が優先される」
広間が静まる。
財務官は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
会議が終わり、領主たちが退室する。
最後の扉が閉じるまで、エドガーは何も言わなかった。
ロビンが玉座から降りる。
「勝手に変えてよかった?」
「ロビン様のご決定です」
「エドガーの案と違ったでしょう」
「私の案は、不足分を返すところまででした」
「怒ってる?」
「いいえ」
エドガーはロビンの前で片膝をついた。
「民が失ったものまでご覧になった、陛下のご判断が正しい」
ロビンの胸が熱くなる。
エドガーは、自分と違う決定でも、皆の前で守った。
失敗しないように閉じ込めるだけの男ではない。
魔王として決めた時には、誰より強くその決定を支える。
だから好きなのだと思った。
「立って」
エドガーが立ち上がる。
ロビンは彼の正面に立った。
「人間界では、何をなさいましたか」
「申請書を書いた」
「正しく?」
「全部、自分で埋めたよ」
「パスカルの助力は」
「番号を一つ聞いただけ」
エドガーの眉がわずかに寄る。
「何の番号です」
「エドガーの連絡先」
「なぜパスカルが知っている」
「今そこ?」
パスカルは窓辺の椅子で脚を組んでいる。
「緊急連絡先に、あなたをご記入になったのですよ」
エドガーの表情が止まった。
「私を?」
「だって、何かあったら来るでしょう」
「当然です」
「会議中でも?」
「中止します」
「戦争中でも?」
「勝ってから参ります」
ロビンは少し笑った。
いつもなら、その答えだけで嬉しかった。
今日は、その先を聞きたかった。
「エドガー」
「はい」
「僕に必要だから来るの?」
エドガーの目が揺れる。
パスカルが笑みを消した。
ロビンは逃がさないよう、エドガーを見上げる。
「僕が一人では何もできないから、そばにいる?」
「ロビン様には、私が必要です」
いつもの答えだった。
胸が痛む。
「それは、エドガーがしたいことでしょう」
エドガーの唇が動く。
「僕がしたいことは、聞かないの?」
「ロビン様がお望みになることは、可能な限り――」
「可能かどうかを聞いてない」
声が少し強くなった。
ロビンは一度息を吸う。
怒りたいわけではない。
知りたいだけだ。
「僕が必要なら、僕が何をしたいかも聞いてくれる?」
「……はい」
「僕は、一人で何かできるようになりたい」
エドガーの表情が固くなる。
「それでも、エドガーに隣にいてほしい」
今度は、自分の声が震えた。
「僕が何もできないからじゃない」
エドガーは黙っている。
ロビンは一歩近づく。
黒い正装の胸元へ手を置いた。
心臓の音が、掌へ伝わる。
普段より速い。
「必要だから、そばにいるの?」
エドガーの目を見上げる。
「僕が好きだからじゃなくて?」
長い沈黙が落ちた。
エドガーの手が上がる。
ロビンの頬へ触れる直前で止まる。
「私は」
声が掠れた。
ロビンは待つ。
今度こそ、嘘ではない言葉を待った。
エドガーの指が、ロビンの髪へ触れる。
一房を耳へ掛ける。
それだけで終わった。
「ロビン様をお守りすることが、私の務めです」
ロビンの手から力が抜けた。
「また、それなんだ」
「私には、それ以上のことを申し上げる資格が」
「誰が決めたの?」
エドガーは答えない。
「エドガー?」
「申し訳ございません」
謝ってほしいわけではなかった。
ロビンは胸元から手を離す。
今度はエドガーも追わなかった。
追えなかった。
パスカルが静かに立ち上がる。
普段の軽口はない。
ロビンは二人へ背を向け、窓の外を見る。
城下の灯りが、遠くまで続いている。
「今日は、一人で部屋へ戻る」
「お送りいたします」
「一人で戻れるよ」
エドガーの顔を見ずに答えた。
「それくらいは、もうできる」
扉へ向かう。
今度は振り返らなかった。
****
扉が閉じた後も、エドガーは動かなかった。
ロビンの手が触れていた胸元へ、自分の手を置く。
「なぜ言わないのです」
パスカルが尋ねた。
「黙れ」
「陛下は、答えをほとんど口になさった」
「分かっている」
「では、何を恐れている?」
エドガーはパスカルを見た。
「ロビン様が私を必要としなくなることだ」
初めて、言葉になった。
パスカルの目が細くなる。
「必要とされなければ、愛されないと?」
「私は、あの方のために存在している」
「それをお決めになったのは、ロビン様ではない」
エドガーの顔が険しくなる。
「お前に何が分かる」
「少なくとも、今のあなたよりは陛下のお望みが分かります」
「ならば言ってみろ」
パスカルは扉を見る。
「ロビン様は、世話をする者をお求めではない」
静かな声だった。
「何でもできるようになった後も、自分を欲しがる男をお求めです」
エドガーは答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
パスカルは扉へ向かう。
「どこへ行く」
「陛下が一人でいたいとおっしゃったので、部屋の外で待ちます」
「入るな」
「入りません」
「近づくな」
パスカルが振り返る。
「命令できる立場だと、まだお思いですか?」
エドガーの周囲に黒い冷気が広がる。
パスカルは笑わなかった。
「あなたが言えない間に、陛下は一人で歩けるようになる」
「分かっている」
「それでも、そばにいたいとおっしゃっている」
パスカルは扉を開けた。
「随分と慈悲深い方ですね」
一人残されたエドガーは、長い間その場を動かなかった。
胸元には、ロビンの手の温度だけが残っていた。
ともだちにシェアしよう!

