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第5話 言い方の問題

魔王城の訓練場で、ロビンは一本の杭を見つめていた。 腰ほどの高さの木杭。 その上には、金色の輪が三つ重なって浮いている。 「この輪へ、順番に魔力を通してください」 エドガーが言った。 黒い正装ではなく、動きやすい訓練服を着ている。 袖を肘まで上げており、普段は隠れている腕が見えていた。 ロビンは一番下の輪へ手を向ける。 淡い光が伸びた。 輪へ触れる直前、三つすべてが弾け飛ぶ。 「あ」 木杭が真ん中から裂けた。 訓練場の端で、パスカルが拍手する。 「実に豪快です」 「褒めるところ?」 「魔王陛下にしか出せない威力でしょう」 エドガーは壊れた杭へ手をかざした。 木片が元の形へ戻り、三つの輪も再び浮かぶ。 「力を抑えてください」 「抑えたよ」 「今の半分です」 「これでも?」 「さらに半分」 ロビンは唇を尖らせた。 「エドガーがやって見せて」 エドガーがロビンの隣へ立つ。 指先から、細い黒光が伸びた。 一番下の輪。 中央。 一番上。 三つが順番に灯る。 木杭は揺れもしない。 魔力の太さも速さも、最後まで正確だった。 「格好いい」 ロビンが言うと、エドガーの指がわずかに動いた。 一番上の輪だけが強く光る。 パスカルが口元を隠す。 「集中が乱れましたね」 「黙れ」 「僕が言ったから?」 「違います」 返事が早い。 ロビンは笑った。 「もう一回やる」 今度は両手を使わず、指先だけを向ける。 光が一番下の輪を満たす。 中央へ移る途中で、太さが揺れた。 木杭に亀裂が入る。 「止めてください」 エドガーが後ろからロビンの手首をつかんだ。 胸が背中へ触れる。 大きな手が、ロビンの指を包む。 「力を押し込むのではありません。輪へ沿わせるように」 耳元で低い声がする。 ロビンは言われた通りに魔力を細くする。 エドガーの指が、動きを導く。 中央の輪が灯った。 「できた」 「まだ一つ残っております」 「分かってる」 ロビンは少しだけ後ろへ体重を預けた。 エドガーの腕が支える。 一番上の輪も灯った。 三つの金輪が、静かに回る。 「全部できた」 「はい」 エドガーの声が柔らかくなる。 「よくなさいました」 ロビンは振り返ろうとした。 その前に、エドガーが手を離す。 胸元の温かさも消えた。 「次は、お一人で」 「今できたばかりなのに?」 「補助がある状態での成功です」 「厳しいね」 パスカルが立ち上がる。 「でしたら、本日は人間界で、陛下お一人の力を試していただきましょう」 エドガーの目が鋭くなる。 「何をさせる気だ」 「企画書の作成です」 「ロビン様に人間の商取引を?」 「小さな催しです。必要な情報を集め、提案をまとめ、相手へ説明する。陛下が最近覚えたことを、すべて使えます」 ロビンは興味を持った。 「僕が最初から作るの?」 「はい」 「誰かが直さない?」 「ご自分で完成させます」 エドガーが口を挟む。 「私が事前に確認する」 「それでは陛下お一人の成果になりません」 「誤りがあれば、相手に迷惑をかける」 「小さな試験企画です。失敗しても、人命も国庫も揺らぎません」 パスカルはロビンを見る。 「やってみますか」 「やる」 ロビンは即答した。 エドガーの眉間に皺が寄る。 「ロビン様」 「自分で決めたよ」 しばらく沈黙した後、エドガーは一歩下がった。 「承知いたしました」 反対しても、ロビンが決めたことは公の場で覆さない。 その姿勢は変わらない。 ただ、顔は少しも納得していなかった。 **** 加藤恵は、会議室の正面に立っていた。 スクリーンには、新規顧客向けの営業企画が映っている。 市場分析。 競合比較。 導入後の運用。 費用と回収見込み。 恵が三週間かけて作った企画だった。 「以上です」 説明を終えると、取締役の柴田が腕を組んだ。 「数字は悪くない」 悪くない。 その言い方で、褒めてはいないと分かる。 「ただ、加藤さん」 「はい」 「もう少し柔らかく話せないかな」 恵は資料を持つ指へ力を入れた。 「どの部分でしょうか」 「そういうところだよ」 柴田は笑う。 「質問されると、すぐ根拠を求めるでしょう。相手を詰めているように見える」 「事実確認のためです」 「分かってる。でも、仕事は正しさだけじゃない」 隣に座る男性社員の高橋が、口を挟んだ。 「俺が説明役に回りましょうか。加藤さんの内容は俺も理解してるので」 恵は高橋を見る。 「この企画の細部まで説明できますか」 「だいたいは」 「想定解約率を七パーセントにした根拠は?」 高橋の目が止まる。 「そこは、あとで確認すれば」 「説明できないということですね」 柴田がため息をついた。 「加藤さん。今の言い方」 「質問へ答えてもらっただけです」 「ほら、そうやってすぐ勝ち負けにする」 恵は黙った。 勝ち負けにしたのは誰だ。 自分の企画を、説明できない人間へ渡そうとしている。 「企画自体は採用する」 柴田は画面を閉じた。 「ただし、顧客説明は高橋を中心にする。加藤さんは資料と数字のサポートへ回って」 「作成者は私です」 「チームの成果だろう」 「この企画については、調査、設計、収支計算まで私が担当しました」 「だから、そういうところだよ」 柴田の声が少し低くなる。 「成果より、自分の手柄を気にしているように見える」 会議室の空気が固まる。 恵は資料を閉じた。 泣くほどのことではない。 怒鳴るほどのことでもない。 ただ、腹の奥が冷たかった。 「承知しました」 声は平らに出た。 会議室を出る。 トイレの個室へ入り、鍵をかける。 便座の蓋へ座る。 息を吐く。 泣くな。 泣いたら、感情的な女になる。 怒るな。 怒ったら、やっぱり扱いにくい女になる。 黙れば、協調性がある。 言えば、手柄に執着する。 「じゃあ、どうしろっていうの」 小さく吐き出した声が、自分の耳へ戻った。 恵は目元を押さえた。 数分後、鏡の前で顔を直す。 席へ戻り、企画書の元データを別のフォルダへ保存した。 作成日時。 調査記録。 修正履歴。 自分の名前。 消される前に、全部残す。 **** 翌日。 恵の会社が入る複合施設では、一般向けの小規模な企画相談会が開かれていた。 地域の店舗や団体が、催しの案を持ち寄り、簡単な助言を受ける。 恵は運営側の応援として、受付と資料整理を任されていた。 企画を作る仕事ではない。 「加藤さん、コピー用紙なくなりそう」 「補充します」 「参加者の飲み物も見てくれる?」 「それは運営担当へ頼んでください」 言った相手が少し驚く。 恵は目を逸らさなかった。 「私は資料確認を担当しています」 「分かった」 以前なら、黙って飲み物も運んでいた。 今日はしなかった。 受付前で、柔らかな栗色の髪をした青年が、一枚の白紙を前に固まっている。 隣には赤い上着の男。 青年の周りだけ、紙が増えていた。 「目的」 「対象」 「必要な物」 「予算」 すべて途中まで書かれている。 恵は通り過ぎようとした。 青年が顔を上げる。 「すみません」 「何でしょう」 「企画書を作りたいんだけど、どこから書けばいい?」 「何をしたいんですか」 「人間に、魔王城の花を見せたい」 恵は一瞬、青年を見る。 「魔王城?」 「僕の家」 赤い男が口元を押さえる。 恵は深く追及しなかった。 変わった人はいる。 「花を見せて、どうしたいんですか」 「喜んでもらいたい」 「誰に」 「近くに住んでいる人たち」 「無料ですか」 「たぶん」 「たぶんでは決められません」 青年が姿勢を正す。 「無料にする」 「何人を想定しています?」 「分からない」 「場所は?」 「ここでは無理?」 「この施設を借りるなら、申請と費用が必要です」 青年は次々と質問され、少し困った顔になった。 赤い男が助け舟を出そうとする。 恵は手で止める。 「あなたが作るんですよね」 「うん」 「なら、自分で答えてください」 青年は黙る。 恵は急かさなかった。 少しして、青年が口を開く。 「二十人くらい」 「理由は?」 「僕が、一人ずつ花を説明できる人数」 「では、二十人」 「子どもも来ていい」 「危険な花は?」 「触ると眠る花がある」 「外してください」 「綺麗なのに」 「眠らせたら事故です」 「分かった」 恵は白紙の上へ、必要な項目を指で示した。 「誰に来てほしいか。何を見せるか。どこで行うか。いくらかかるか。何が危険か」 青年は一つずつ書き始める。 字は丁寧だが遅い。 「全部、今決めるの?」 「企画書は、考えたことを相手へ伝えるためのものです。決めていないことは伝えられません」 「恵さんが書いてくれた方が早くない?」 「早いです」 「じゃあ」 「でも、それではあなたの企画ではありません」 青年が黙る。 恵は少しだけ声を緩めた。 「分からないところは教えます。決めるのはあなたです」 「厳しいね」 「よく言われます」 「嫌?」 「何がですか」 「厳しいって言われること」 恵は答えなかった。 青年はペンを持ったまま待っている。 「仕事が進むなら、気にしません」 「本当に?」 「企画書を書いてください」 「はい」 青年は素直に戻った。 その後、一時間以上かかった。 開催場所は施設の小会議室。 二十人限定。 事前予約。 危険性のない花だけを展示。 説明は青年本人。 花は赤い男が運ぶ。 必要経費は、会場費と保険。 恵は途中で何度も、 「根拠は?」 「誰がします?」 「雨の場合は?」 と尋ねた。 青年はそのたびに考え、自分で決めた。 最後の欄へ名前を書く。 《企画責任者 路敏》 青年は紙を持ち上げた。 「できた」 「まだです」 「まだ?」 「説明して、相手に承認をもらうまでが企画です」 青年の顔が少し曇る。 「誰に説明するの?」 恵は相談会の責任者席を指した。 「施設管理者です」 「恵さんも来て」 「行きません」 「どうして」 「私がいると、私が説明してしまいます」 「一人で?」 「一人で」 青年は企画書を見た。 赤い男が微笑む。 「陛下ならおできになります」 「パスカルも来ないの?」 「ご命令であれば」 青年は少し考え、首を振った。 「一人で行く」 恵は頷いた。 「行ってらっしゃい」 **** 路敏が責任者席へ向かった後、赤い男が恵の隣へ立った。 「随分と厳しくご指導くださいましたね」 「甘くしたら、本人のためにならないでしょう」 「あなたは、誰に対してもそのように?」 「必要なら」 「上の方にも?」 「相手によります」 「随分と現実的だ」 男は笑った。 恵は資料を整理しながら尋ねる。 「あなたは、あの人の部下ですか」 「そうとも言えます」 「甘やかしすぎでは?」 「耳が痛いですね」 「本人がやると言っているのに、周りが先に動いたら何も覚えません」 男の目が少し細くなる。 「まったく同じことを、別の男にも申し上げていただきたい」 「知りません」 「近いうちに、ぜひ」 恵は相手にしなかった。 少し離れた責任者席で、路敏が説明を始めている。 紙を見ながら、ゆっくり話す。 途中で質問される。 答えに詰まる。 それでも隣の男を呼ばない。 恵は視線だけで見守った。 しばらくして、責任者が企画書へ印を押した。 路敏がこちらへ振り返る。 顔が明るい。 走り出しかけ、恵と目が合って歩き直した。 「通った」 「よかったですね」 「一人で説明できた」 「はい」 「恵さんが教えてくれたから」 「決めたのはあなたです」 路敏は企画書の自分の名前を見る。 「僕の企画?」 「そうです」 嬉しそうに笑う。 その顔を見て、恵の胸の奥が少し痛んだ。 自分も、自分の企画だと言いたかっただけなのかもしれない。 **** 午後。 恵は本社の会議室へ戻っていた。 取引先との正式な提案会。 正面には、高橋と柴田が座っている。 恵の席は端だった。 スクリーンに映る企画書の表紙には、 《プロジェクト責任者 高橋直人》 とある。 作成者の名前はない。 高橋が説明を始める。 内容は、恵が作ったものだった。 競合比較。 導入計画。 費用対効果。 言葉も、順番も、ほとんど同じ。 取引先の責任者が、資料をめくる。 「一点、確認したいのですが」 高橋が微笑む。 「何でしょう」 「この導入後三か月の解約率七パーセントという数字は、何を根拠にしていますか」 高橋の視線が一瞬、恵へ向く。 「過去の実績と市場傾向を総合的に」 「具体的には?」 「詳細は、担当者から」 柴田が恵を見る。 出ろという合図だった。 恵は立ち上がりかけた。 その時、会議室の扉が開いた。 受付担当者が、一冊の企画書を持って入る。 「失礼します。先方へ直接届いた資料がありまして」 「今?」 柴田が眉を寄せる。 「送付元が、こちらの加藤様となっています」 恵は顔を上げた。 送っていない。 受付担当者が、取引先責任者へ企画書を渡す。 見覚えのある表紙。 恵が作った元データ。 《企画・設計 加藤恵》 作成履歴と調査資料まで添付されている。 会議室の後方。 見学者席に座るパスカルが、指先で赤い封蝋を転がした。 封蝋が一度だけ光る。 誰も気づかない。 恵も見ていない。 取引先責任者は、二つの資料を並べた。 「こちらが原案ですか」 柴田が口を開く。 「社内資料が誤って送られたようです。内容は同じですので」 「同じではありません」 責任者はページをめくる。 「こちらには、調査対象、計算式、失敗ケースまで記載されている」 高橋の資料には、説明しやすい要約しかない。 「加藤さん」 呼ばれ、恵は立ち上がった。 「はい」 「この数字の根拠を、あなたから説明していただけますか」 柴田が口を挟む。 「加藤は資料作成担当です。説明は高橋が」 責任者は柴田を見た。 「今は、加藤さんに伺っています」 静かな声だった。 柴田が黙る。 恵は正面へ出た。 「解約率七パーセントは、過去三年間の同規模サービス十二件を基にしています」 スクリーンへ元データを映す。 「初月に運用研修を二回以上行った案件では、平均五・八パーセント。研修が一回以下の場合は九・四パーセントでした」 「今回は?」 「二回実施を前提に、現場の定着遅れを加味して七パーセントです」 「三か月以内に超えた場合は?」 「原因を三つへ分けます。操作定着、顧客側の人員不足、機能不足です。操作定着なら追加研修。人員不足なら運用範囲を縮小。機能不足の場合は、第二段階の開発を止めて改修を優先します」 責任者が頷く。 「その判断は、誰が行いますか」 「私が提案責任者として行う想定でした」 恵は柴田を見なかった。 「原案では」 会議室が静まる。 責任者は企画書を閉じた。 「加藤さんを、正式なプロジェクト責任者としてお願いしたい」 柴田の表情が固まる。 「しかし、対外調整には高橋の方が」 「高橋さんには進行調整をお願いできます」 高橋が僅かに肩を落とす。 責任者は続ける。 「この企画は、判断の根拠を持つ人が責任者でなければ危険です」 柴田が笑顔を作る。 「加藤は能力は高いのですが、少し言い方が強くて」 「今の説明に問題がありましたか」 「いえ、そういうことでは」 「では、何が問題でしょう」 柴田は答えられない。 恵は胸の奥で、何かがほどけるのを感じた。 正しさだけでは仕事にならない。 何度も言われた。 けれど、正しさを持つ者へ判断権を渡さない仕事も、まともではない。 「加藤さん」 責任者が言う。 「進められますか」 「はい」 恵はまっすぐ答えた。 「必要な権限と、評価経路を明確にしてください」 柴田が眉を寄せる。 責任者は頷く。 「契約書へ記載しましょう」 恵は一度息を吸った。 「ありがとうございます」 会議後、高橋が廊下で追いついてきた。 「加藤さん」 恵は足を止める。 「悪かった」 「何がですか」 「説明役を受けたこと。俺も、上から言われただけだと思ってた」 「受ける前に、内容を理解してください」 高橋が苦笑する。 「やっぱり厳しいな」 「必要なことです」 今度は、言われても痛まなかった。 「でも、進行調整は頼みます」 「俺に?」 「得意でしょう」 高橋は少し驚き、頷いた。 「分かった」 敵を作りたいわけではない。 仕事を正しい人へ割り振りたいだけだ。 **** 夕方。 相談会の小会議室では、二十人分の椅子が並んでいた。 ロビンは一人で、展示用の花を机へ置いている。 危険性のないものだけ。 眠り花も、噛みつく蔓もない。 名札。 説明札。 申込者一覧。 全部、自分で確認する。 パスカルは壁際に立っていたが、手を出さない。 「この花は、窓側でいい?」 「陛下がお決めください」 「光がある方が綺麗だから、窓側」 「承知しました」 「これは入口」 「理由は?」 「最初に香りがするから」 「結構です」 ロビンは最後の鉢を置いた。 参加者が入ってくる。 子ども。 年配の夫婦。 近所の学生。 皆、見慣れない花を見て声を上げた。 ロビンは最初、少し緊張した。 説明の順番を一度間違える。 名札を逆に置く。 それでも、自分で直した。 質問され、分からないものには、 「調べてから答える」 と言った。 最後まで、パスカルを呼ばなかった。 催しが終わる。 参加者が帰り、静かな部屋だけが残る。 ロビンは空になった椅子を見る。 「終わった」 「お見事でした」 パスカルが拍手する。 「最初から最後まで、陛下ご自身のお仕事です」 「失敗もしたよ」 「それも含めて」 ロビンは企画書を胸へ抱いた。 表紙には、自分の名前がある。 「エドガーに見せたい」 口にしてから、胸が少しだけ痛んだ。 それでも、最初に見せたい相手は変わらなかった。 **** 魔王城へ戻ると、エドガーは正門で待っていた。 黒い外套が夜風に揺れている。 その背後には、整列した衛兵たち。 ロビンを見つけた瞬間、エドガーは一歩前へ出た。 「お帰りなさいませ」 「ただいま」 「お怪我は」 「ないよ」 「体調は」 「平気」 エドガーの視線が、ロビンの腕に抱かれた企画書へ落ちる。 「それは?」 「僕が作った」 ロビンは表紙を見せた。 《企画責任者 路敏》 「花を見せる催しをしたんだ。二十人来た。僕が説明して、最後まで終わらせた」 言いながら、頬が緩む。 エドガーに褒めてほしかった。 格好よかったと。 よくできたと。 自分のことを見てほしかった。 エドガーは企画書を受け取る。 一ページずつ、素早く目を通す。 「会場費の算定に、予備費がございません」 ロビンの笑顔が少し止まる。 「余ったから大丈夫だった」 「結果としては。事故が起きた場合、対応資金が不足します」 「次は入れるよ」 「危険花の除外基準も、パスカルの確認印だけです」 「僕も確認した」 「ロビン様が判断できる種類でしょうか」 胸の奥が冷える。 「ちゃんと調べたよ」 「ならば、なぜ私をお呼びにならなかったのです」 その言葉が来た。 褒め言葉より先に。 成功したことより先に。 「一人でやるって決めたから」 「確認だけでも、私にお任せいただけたはずです」 「それでは、一人でやったことにならない」 「安全を損なってまで証明する必要はございません」 「損なってないよ」 「今回は、です」 エドガーの声が強くなる。 「何かあってからでは遅い」 ロビンは企画書を取り返した。 「僕ができるようになるの、エドガーは嬉しくないんだね」 エドガーの顔が固まる。 「そのようなことは」 「では、どうして最初に駄目なところを探すの?」 「ロビン様を守るためです」 「また、それ」 また同じ言葉だった。 必要。 守る。 務め。 どれもロビンを囲う。 けれど、欲しい言葉は一つもない。 「僕、最後まで一人でできたんだよ」 声が震えた。 「参加した人も喜んでくれた。失敗しても、自分で直した」 「存じております」 「それなら、どうして」 ロビンは企画書を胸へ抱く。 「どうして、よかったって言ってくれないの」 エドガーの唇が動く。 返事が出ない。 パスカルは少し離れた場所で黙っている。 「僕が何もできなければ、エドガーはずっと必要だものね」 「ロビン様」 「僕が一人でできたら、困る?」 「違います」 「何が違うの」 エドガーは手を伸ばす。 ロビンは一歩下がった。 その手が空中で止まる。 「私には、あなたを危険から遠ざける責任が」 「もう聞きたくない」 ロビンは言った。 自分でも驚くほど、静かな声だった。 「今日は、エドガーの部屋へ行かない」 これまでも、一人で自室へ戻ったことはある。 けれど夜になれば、エドガーが様子を見に来た。 眠るまで隣にいることもあった。 今日は、それも嫌だった。 「ロビン様」 「来ないで」 エドガーの顔から血の気が引く。 「どちらへ」 ロビンはパスカルを見た。 「パスカルのところ」 一瞬、空気が凍った。 エドガーの周囲に黒い魔力が膨らむ。 衛兵たちが息をのむ。 パスカルは笑わない。 「承知いたしました」 穏やかに答えた。 エドガーが低く言う。 「認めん」 ロビンは振り返った。 「僕が決めることだよ」 エドガー自身が、何度も守ってきた言葉だった。 陛下の決定。 自分と違っても、公の場で覆さない。 エドガーは拳を握る。 黒い魔力が震える。 長い沈黙の後、一歩下がった。 「……承知いたしました」 声が掠れていた。 ロビンはパスカルと並び、歩き出す。 背中へエドガーの視線が刺さる。 振り返りたかった。 抱きしめてほしかった。 今からでも、よくできたと言ってほしかった。 それでも振り返らなかった。 **** パスカルの居室は、エドガーの部屋とは正反対だった。 赤と金の布。 人間界の絵画。 見たことのない酒瓶。 天井には、星空を映す魔法がかかっている。 ロビンは入口で足を止めた。 「お入りください」 パスカルが扉を開ける。 「今夜は、何も聞きません」 ロビンは中へ入った。 パスカルは少し離れた椅子を示す。 ロビンが座る。 すぐ隣には来ない。 「何かお飲みになりますか」 「いらない」 「食事は?」 「いらない」 「承知いたしました」 パスカルは向かいの椅子へ座った。 本当に、何も聞かない。 エドガーなら、体調、食事、睡眠、今日あったことを順番に確認する。 パスカルは、ロビンが話すまで待っている。 しばらくして、ロビンが口を開いた。 「催し、ちゃんとできたよ」 「はい」 「一人で」 「拝見しておりました」 「失敗もした」 「存じております」 「でも、最後までやった」 「はい」 パスカルは、それ以上言葉を重ねない。 ロビンは膝の上の企画書を見る。 「エドガーに、最初に見せたかった」 声が震えた。 「そうでしょうね」 「パスカルに褒められたのも嬉しいよ」 「光栄です」 「でも」 続きが言えない。 パスカルは待った。 「エドガーに言ってほしかった」 ようやく出た。 「よくできたって」 目が熱くなる。 ロビンは企画書で顔を隠した。 「僕、子どもみたいだ」 「いいえ」 パスカルの声は静かだった。 「好きな方から、見てほしかっただけでしょう」 ロビンの呼吸が止まる。 企画書を少し下ろす。 「好きな方?」 「違いますか」 パスカルは笑わない。 逃げ道を作るような冗談も言わない。 ロビンは答えられなかった。 否定もできなかった。 「今日は、答えなくて結構です」 パスカルは立ち上がり、寝台の近くにある長椅子へ毛布を置く。 「陛下はこちらを。私は別室におります」 「パスカルの部屋なのに?」 「あなたが私をお選びになった夜ではありません」 ロビンは顔を上げる。 パスカルの表情は穏やかだった。 「エドガーから離れたくて、ここへいらした」 「それは」 「分かっております」 パスカルはロビンへ近づかない。 「その弱さにつけ込み、私を選んだことにするほど、落ちぶれてはおりません」 胸の奥が少し痛んだ。 優しい。 自由にさせてくれる。 言葉もくれる。 それでも、今抱きしめてほしいと思う相手は別にいる。 ロビンは毛布を握った。 「一人にしないで」 パスカルが足を止める。 「隣には座らないでいい。でも、部屋にはいて」 「承知いたしました」 パスカルは向かいの椅子へ戻った。 それ以上、距離を縮めない。 星空の下で、二人は長い間何も話さなかった。 **** 同じ頃。 エドガーは、自室の扉の前に立っていた。 中は暗い。 いつもなら、ロビンが使う椅子が窓辺に置かれている。 夜食用の小さな菓子。 薄い毛布。 読みかけの本。 すべて準備してあった。 誰も来ない部屋に。 エドガーは机へ企画書の写しを置いた。 パスカルが転送してきたものだった。 《企画責任者 路敏》 一ページずつ読む。 目的。 対象。 予算。 危険管理。 参加者の感想。 失敗した箇所には、ロビン自身の字で修正が入っている。 最後のページ。 《次回は予備費を追加する》 エドガーは目を閉じた。 できている。 完璧ではない。 それでも、自分で考え、最後まで終えた。 本当なら、最初に言うべきだった。 よくなさいました。 その一言を。 扉の外で、パスカルの声がした。 「入りますよ」 「帰れ」 パスカルは扉を開けた。 一人だった。 エドガーがすぐに振り返る。 「ロビン様は」 「お休みになりました」 「どこで」 「私の長椅子です」 黒い魔力が部屋を満たす。 「お前の寝台へ近づいたなら殺す」 「近づいておりません」 「触れたか」 「毛布を渡しました」 「それだけか」 「ええ」 エドガーは拳を握る。 パスカルは机上の企画書を見る。 「お読みになったのですね」 「問題点はある」 「ありますとも。初めて作った企画ですから」 「予備費も、危険管理も甘い」 「それでも成功しました」 エドガーは答えない。 パスカルが静かに続ける。 「あなたが最初に見つけたものは、間違いでした」 「側近として当然だ」 「陛下が最初に見てほしかったものは、成功です」 エドガーの顔が歪む。 「分かっている」 「また、それですか」 パスカルの声が冷える。 「あなたは何でも分かっている。分かっていて、選ぶ言葉だけを間違える」 「黙れ」 「陛下は今、私の部屋におられる」 黒い魔力が壁を震わせた。 パスカルは一歩も退かない。 「それでも、陛下が欲しがっているのは、あなたの言葉です」 エドガーは机へ両手をついた。 「私は」 声が途切れる。 「私は、あの方が私なしで何でもできるようになることが、怖い」 パスカルは黙って聞く。 「できるようになれば、私を呼ばなくなる」 「だから、できたことを喜べない?」 「喜んでいる」 「陛下には伝わっていません」 エドガーは企画書を見下ろした。 「私が不要になれば、何を理由にそばへいればいい」 パスカルの表情から、わずかな嘲りも消えた。 「愛しているから、と言えばよい」 「それを言えば」 エドガーの声が低くなる。 「拒まれた時、私はあの方のそばへいられなくなる」 初めて出た言葉だった。 必要とされる側近なら、そばにいられる。 愛を告げた男として拒まれれば、今の距離さえ失うかもしれない。 エドガーは、それを恐れている。 パスカルは扉へ向かう。 「もう遅いかもしれませんよ」 エドガーが顔を上げる。 「何だと」 「陛下は、あなたに拒まれる痛みを覚え始めた」 パスカルは振り返らない。 「次に手を伸ばされても、同じように待ってくださるとは限りません」 扉が閉じる。 エドガーは一人残された。 企画書の表紙へ手を置く。 その名を、指先でなぞる。 「よくなさいました」 誰もいない部屋で、ようやく口にした。 遅すぎる言葉だった。

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