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第6話 見ている人

パスカルの部屋で目を覚ました時、ロビンは見慣れない星空を見上げた。 天井に浮かぶ星は、本物より明るい。 赤と金の布。 人間界の絵画。 甘い香りのする酒瓶。 エドガーの部屋とは、何もかも違った。 長椅子の上で身を起こす。 かけられていた毛布が肩から落ちた。 「お目覚めですか」 窓辺から、パスカルの声がした。 朝日を背にして、椅子へ腰掛けている。 昨夜と同じ服装だった。 「寝てないの?」 「少しは」 「どこで?」 「そこです」 パスカルは座っている椅子を指した。 「ずっと?」 「陛下が一人にしないでとおっしゃいましたので」 ロビンは毛布を握った。 昨夜のことが戻ってくる。 完成した企画書。 エドガーの指摘。 なぜ自分を呼ばなかったのかという言葉。 褒めてほしかった。 それだけだったのに。 「エドガーは?」 「ご自分のお部屋におられます」 「来なかった?」 「三度ほど、扉の前までは」 ロビンが顔を上げる。 「入ってきた?」 「私が入れませんでした」 「どうして」 「陛下が来ないでとおっしゃったからです」 パスカルの返事には迷いがなかった。 「怒ってた?」 「ええ」 「パスカルに?」 「主にご自分へ」 ロビンは視線を落とした。 胸の奥が少しだけ痛む。 エドガーが苦しんでいると分かっても、今は戻りたいと思えなかった。 「朝食を召し上がりますか」 「いらない」 「では、お茶を」 「いらない」 「承知いたしました」 パスカルは何も勧め直さなかった。 いつもなら大げさに甘やかす男が、今日はロビンの言葉をそのまま受け取る。 ロビンは長椅子から立った。 「今日も人間界へ行く」 「よろしいのですか」 「城にいたら、エドガーのことばかり考えるから」 「それは人間界でも変わらないかと」 「パスカル」 「失礼しました」 ロビンは毛布をたたんだ。 端が少しずれた。 直そうとすると、パスカルが手を伸ばしかける。 ロビンは自分で整えた。 「今日は何をするの?」 「身体を使う仕事はいかがでしょう」 「力仕事?」 「踊りです」 ロビンは動きを止めた。 「僕、踊れるよ」 「宮廷舞踏ならば」 「ほかにもあるの?」 パスカルが立ち上がる。 「人間界には、数え切れないほど」 部屋の扉が強く叩かれた。 一度。 二度。 三度目は、扉そのものが軋んだ。 パスカルが微笑む。 「噂をすれば」 ロビンの胸が跳ねた。 「ロビン様」 扉の向こうから、エドガーの声がする。 低い。 いつもより少し掠れている。 「お目覚めでしょうか」 ロビンは答えられなかった。 パスカルも黙っている。 「朝食をご用意しております」 返事を待つ沈黙。 「本日のご予定についても、ご確認を」 ロビンは扉を見た。 開ければ、エドガーがいる。 きっと眠っていない。 自分が昨日作った企画書を、何度も読み返したのかもしれない。 それでも、今会えば、また同じ言葉を待ってしまう。 「今日はパスカルと行く」 声を出した。 扉の向こうが静かになる。 「どちらへ」 「人間界」 「私も同行いたします」 「来ないで」 言葉にした瞬間、胸が痛んだ。 けれど、取り消さなかった。 長い沈黙の後、 「……承知いたしました」 と返る。 足音が遠ざかる。 ロビンは扉へ近づきかけ、止まった。 パスカルは何も言わず、転移の術式を開いた。 **** 中村奈緒は、鏡の中の自分を見ていた。 髪を結ぶ。 足首を回す。 膝を曲げ、重心を落とす。 練習場には、まだ誰もいない。 壁一面の鏡。 黒い床。 天井の白い照明。 奈緒は音楽を流した。 静かなピアノから始まり、低い弦が重なる。 一歩。 二歩。 腕を伸ばす。 体をひねる。 床を蹴る。 着地。 昨日より、左足が少しだけ静かになった。 もう一度。 同じ部分を繰り返す。 音楽を止める。 最初から。 奈緒は毎朝、一時間早く練習場へ来る。 仕事が終わった後にも戻る。 体幹。 重心。 呼吸。 足音。 手の角度。 鏡に映る自分を、何百回も直してきた。 上手くなっている。 少なくとも、昨日の自分よりは。 それでも、昨日届いた選考結果には、 《技術力は高いが、印象が弱い》 と書かれていた。 印象。 何度読んでも意味が分からなかった。 踊りのどこが弱かったのか。 リズムか。 体の線か。 表現か。 質問しても、返事はなかった。 代わりに、審査員の一人から、 「奈緒さんは後ろで支えるタイプだから」 と言われた。 別の審査員は、 「センターは、最初に目へ入る人じゃないと」 と笑った。 奈緒は鏡の中の自分を見る。 細身。 化粧は薄い。 衣装を着ても、派手な顔立ちではない。 「踊りを見ないなら、何の審査なんだよ」 鏡へ向かって言った。 声は、練習場の中ですぐに消えた。 扉が開く。 後輩のダンサーが入ってきた。 「奈緒さん、早いですね」 「いつも通り」 「あの、結果」 「落ちた」 後輩は気まずそうな顔をする。 「私、奈緒さんの方が絶対うまいと思います」 「そう」 「選ばれた人、フォロワー多いですもんね」 奈緒は音楽を止めた。 「その子のせいじゃない」 「あ、はい」 選ばれた若いダンサーも、毎日練習している。 容姿が華やかだからといって、努力していないわけではない。 奈緒が腹を立てているのは、彼女ではない。 踊りを見る前から、立つ場所を決める人間だ。 「練習する」 「はい」 奈緒は音楽を戻した。 昨日より上手くなる。 見てもらえなくても、体だけは嘘をつかない。 **** 午後、奈緒は市民向けのダンス体験会へ講師補助として参加していた。 主講師は別にいる。 奈緒の役割は、初心者が怪我をしないよう、列の後ろから姿勢を見ることだった。 参加者の中に、妙に目立つ青年がいた。 柔らかな栗色の髪。 薄い色のシャツ。 隣には赤い上着の男。 青年は周囲の動きを真似しようとして、すべて少しずつずれている。 腕を上げる。 遅い。 足を出す。 逆。 回る。 隣の参加者へぶつかりかける。 奈緒は背後へ回った。 「止まって」 青年が振り返る。 「僕?」 「そう」 「間違ってた?」 「全部少しずつ」 赤い男が笑いをこらえている。 青年は不満そうに彼を見る。 「パスカルはできるの?」 「陛下よりは」 「じゃあやって」 「私は見学です」 奈緒は青年の足元を見る。 「足を開きすぎ」 青年が狭くする。 「狭い」 少し広げる。 「そこ」 「細かいね」 「重心が高い」 「重心?」 「体の中心」 奈緒は青年の肩へ指を置いた。 軽く押す。 青年の体が後ろへ傾いた。 「ここで押されて倒れるなら、高い」 「倒れなければいい?」 「まずは」 奈緒は自分の足を見せた。 膝を緩める。 骨盤を落とす。 上半身はまっすぐ。 「力を入れるんじゃない。床に乗る」 青年が真似する。 まだ肩が上がっている。 「息を止めない」 「難しい」 「もう一回」 青年は繰り返した。 三度。 四度。 五度目で、奈緒が肩を押しても揺れなかった。 「今のはいい」 青年の顔が明るくなる。 「できた?」 「少し」 「褒め方が厳しい」 「できてないのに褒めても、次に困る」 青年は少し考え、頷いた。 「じゃあ、もう一回やる」 音楽が始まる。 今度は、最初より遅れが少ない。 回転でまたよろける。 奈緒が腕をつかむ。 「目を先に送って」 「目?」 「体より先に、次に見る場所を決める」 「こう?」 青年が顔を向ける。 体が続く。 回転が一つ、きれいにつながった。 「できた」 「今のは」 奈緒は少しだけ頷く。 「よかった」 青年は嬉しそうに笑った。 その笑顔を見て、奈緒は視線を逸らした。 技術を褒められた時、人はこんな顔をする。 容姿ではなく。 印象でもなく。 自分がやったことを見てもらえた時。 「奈緒さん」 主講師が呼ぶ。 「後半、前で見本をお願い」 「私が?」 「ほかの子が遅れてる。頼む」 奈緒は前へ出た。 参加者たちの前で、短い振りを踊る。 音を追わない。 音の間へ体を置く。 足音を消し、最後の姿勢で止まる。 青年が目を見開いていた。 「すごい」 大きな声だった。 周囲の参加者まで笑う。 奈緒は少しだけ眉を寄せる。 「声が大きい」 「格好よかったから」 「そう」 「もっと見たい」 奈緒は答えず、次の説明へ移った。 けれど、胸の奥が少しだけ温かかった。 **** 体験会が終わる頃、練習場の入口がざわついた。 数人のスタッフが集まり、スマートフォンを見ている。 「本当?」 「急に変わったらしいよ」 「何が?」 奈緒が尋ねる。 後輩が駆け寄ってきた。 「次の再審査、審査員が変わるんですって」 「再審査?」 「選考方法に問題があったとかで、候補者全員やり直し」 奈緒は眉を寄せた。 「誰が見るの」 後輩は興奮して画面を見せる。 「神楽玲司さん」 奈緒の動きが止まる。 「嘘」 「本当です。公式から出てます」 神楽玲司。 舞台を中心に活動するダンサー。 派手な技より、重心と呼吸で空間を変える。 奈緒が何度も映像を見て、動きを研究してきた相手だった。 「今度の審査員、奈緒さんがずっと憧れてた人ですよね」 「そうだけど」 「緊張します?」 「する」 即答すると、後輩が笑った。 奈緒はもう一度画面を見る。 以前の審査員については、 《選考規程に反する評価および記録管理上の問題が確認されたため、担当を変更します》 とだけ書かれている。 詳しい説明はない。 練習場の端。 パスカルが壁へ寄りかかり、細い銀の杖を指先で回していた。 杖の先に絡んでいた黒い糸が、音もなく切れる。 誰も見ていない。 パスカルはそのまま杖を袖へ戻した。 ロビンだけが隣で尋ねる。 「何を切ったの?」 「絡まっていたものを少々」 「ふうん」 ロビンは深く追及しなかった。 奈緒は神楽の名前を見たまま、もう次の練習を考えていた。 **** 再審査の日。 奈緒は舞台袖で、自分の順番を待っていた。 手のひらに汗をかいている。 緊張する。 今までの審査員なら、腹が立つだけだった。 今日は違う。 見てほしい人がいる。 見られることが、怖い。 名前を呼ばれる。 舞台へ出る。 客席中央に、神楽玲司が座っていた。 映像で何度も見た人。 今日は眼鏡をかけ、膝の上に何も置いていない。 採点表すら持っていない。 奈緒が立ち位置につく。 「中村奈緒です」 神楽が頷く。 「始めてください」 音楽が流れる。 最初の一歩で、足が少し重かった。 緊張している。 分かる。 奈緒は呼吸を吐いた。 昨日まで何千回も繰り返した動き。 床へ乗る。 音の間へ入る。 腕を伸ばす。 視線を送る。 体がついてくる。 踊り始めると、神楽の存在が薄れた。 音。 床。 呼吸。 それだけになる。 最後の姿勢で止まる。 音楽が切れた。 静寂。 奈緒は息を整える。 神楽はしばらく何も言わなかった。 席から立つ。 舞台の近くまで歩いてくる。 「君、名前は?」 「中村奈緒です」 「中村さん」 神楽は奈緒の足元から、姿勢、肩、目線を確認するように見る。 以前の審査員とは違う。 顔を値踏みする視線ではない。 踊った後の体を見ている。 「この振付、自分で少し変えましたか」 「最後の八小節だけ」 「なぜ?」 「指定の動きだと、音が一つ余るように感じたので」 神楽の口元が少し上がる。 「私もそう思います」 奈緒の胸が跳ねた。 「重心の移動がきれいです。足音も、後半ほど消えていた」 踊りを見ていた。 本当に。 「ありがとうございます」 声が少し掠れた。 神楽は振り返り、選考スタッフへ尋ねる。 「彼女が、前回の最終候補に残っていなかった理由は?」 スタッフが言葉に詰まる。 「総合的な印象で」 「どの部分です」 「舞台上の華やかさが」 神楽の表情が冷える。 「私は踊りの審査に呼ばれたと思っていました」 誰も答えない。 神楽は奈緒へ向き直る。 「次の公演で、新しい作品を作ります」 奈緒は黙って待った。 「私の隣で踊ってもらえませんか」 何を言われたのか、すぐには分からなかった。 「私が?」 「はい」 「選考の結果では」 「結果も、正式に残します。ただ、これは私個人からの依頼です」 神楽はまっすぐ奈緒を見る。 「こんな踊り手がいたとは知りませんでした。一緒に踊りたい」 奈緒は唇を結んだ。 泣きそうになった。 容姿を褒められたわけではない。 若いからでも、目立つからでもない。 重心。 足音。 音の取り方。 自分が何年も積み重ねたものを見て、選ばれた。 「やります」 声が震える。 奈緒は一度息を吸った。 「やらせてください」 神楽が手を差し出す。 奈緒も握った。 「よろしくお願いします」 舞台袖へ戻ると、後輩が抱きついてきた。 「奈緒さん、すごい!」 「暑い」 「泣いてます?」 「汗」 「目から?」 「うるさい」 後輩を離し、奈緒は壁へ背を預けた。 足が震えている。 舞台では震えなかったのに。 少し離れた通路で、栗色の髪をした青年が両手を叩いている。 赤い男も、その隣で笑っていた。 青年が声を上げる。 「奈緒さん、格好よかった!」 奈緒は片手を上げた。 「声、大きい」 それでも、今度は笑った。 **** 魔王城へ戻る転移門の前で、ロビンは立ち止まった。 「帰りたくない?」 パスカルが尋ねる。 「城には帰る」 「エドガーのもとへは?」 ロビンは答えなかった。 今日、奈緒が踊る姿を見た。 何度も練習し、見てもらえなくても続けた。 本物のプロに見つけられた時、奈緒は嬉しそうだった。 だからといって、ロビンの問題が解決したわけではない。 エドガーに見てほしい。 今も。 それが苦しかった。 転移門を抜ける。 魔王城の回廊へ出た。 夕暮れの光が長い窓から差し込んでいる。 エドガーが待っていた。 黒い正装。 背筋を伸ばし、両手を後ろへ組んでいる。 一晩眠っていない顔だった。 それでも、他の者が見ればいつも通り完璧に見えるだろう。 ロビンには分かった。 目の下のわずかな影。 いつもより固い口元。 右手の手袋だけが少しずれている。 「お帰りなさいませ」 「ただいま」 ロビンは少し離れた場所で止まった。 エドガーは近づこうとしない。 「本日は、何をなさいましたか」 「踊った」 「お怪我は」 「ない」 「そうですか」 会話が途切れる。 以前なら、エドガーが近づき、体を確かめる。 今日はロビンが来ないでと言った距離を守っている。 それもまた苦しい。 パスカルがロビンの隣へ立つ。 エドガーの視線が一瞬だけ動く。 「昨夜のことを、お詫び申し上げます」 ロビンは顔を上げた。 「何について?」 「ロビン様のお仕事を、正しく拝見しなかったことです」 「正しく?」 「成功を認める前に、不足だけを申し上げました」 エドガーの声は静かだった。 「企画書は、最後まで拝読しました」 ロビンの胸が締まる。 「ロビン様がご自分で考え、失敗を修正し、催しを終えられたことは、立派な成果です」 欲しかった言葉だった。 昨日なら。 「よくなさいました」 遅すぎる。 そう思うのに、涙が出そうになる。 「昨日、言ってほしかった」 「はい」 エドガーは否定しなかった。 「申し訳ございません」 ロビンは唇を噛む。 エドガーは間違いを認めた。 欲しかった言葉もくれた。 それでも、胸の中の痛みは消えない。 隠し事はないと告げた嘘。 好きかと問われても、忠誠の言葉へ逃げたこと。 成功を見ても、褒めるより先に欠点を数えたこと。 一つの謝罪だけでは、すぐに元へ戻れなかった。 パスカルが静かに口を開く。 「陛下」 ロビンが振り返る。 パスカルは、いつもの軽い笑みを浮かべていなかった。 「本日、あなたは何度も失敗なさいました」 エドガーの眉が動く。 パスカルは続ける。 「足を逆へ出し、回転でよろめき、同じ動きを何度も繰り返した」 「パスカル」 エドガーの声が低くなる。 ロビンは彼を止めるように見た。 パスカルはロビンだけを見ている。 「それでも、私はあなたを美しいと思いました」 ロビンの呼吸が止まる。 「上手くできた瞬間だけではありません」 一歩も近づかず、言葉だけを渡す。 「失敗なさるあなたも、もう一度挑戦なさるあなたも、できないと認めて尋ねるあなたも、すべて美しい」 回廊が静まり返る。 エドガーの顔から色が消えた。 パスカルは、彼へ見せつけるためではなく、本心として言っている。 それが分かった。 「成功したから、価値があるのではございません」 ロビンの目が熱くなる。 「私は、挑戦なさるあなたを愛しく思っております」 パスカルは、はっきり言った。 エドガーの周囲に黒い魔力が揺れる。 「それ以上、口にするな」 「なぜです?」 「ロビン様を惑わせるな」 「惑わせておりません」 パスカルの声も冷えた。 「私は、自分の気持ちを申し上げているだけです」 「陛下は今、傷ついておられる」 「だから黙れと?」 「弱みに乗じるな」 パスカルの目が鋭くなる。 「昨夜、私は何も求めませんでした」 エドガーが黙る。 「触れず、答えも求めず、陛下のお望みになった距離を守った」 「それを恩に着せる気か」 「いいえ」 パスカルはエドガーを見る。 「あなたが私を、その程度の男だと思っていることに腹を立てている」 ロビンは二人の間に立った。 「やめて」 二人とも口を閉じる。 「僕のことで争うなら」 声が少し震えた。 それでも続ける。 「僕に分かる言葉で言って」 エドガーの目が揺れる。 パスカルは答えた。 「私は、あなたを一人の男としてお慕いしております」 迷いがない。 ロビンの胸が大きく鳴る。 パスカルは続ける。 「魔王であることも、あなたの一部として敬愛しております。しかし、王位を失われても、何もおできにならない日があっても、私の気持ちは変わりません」 エドガーの拳が震える。 ロビンは彼を見る。 「エドガーは?」 「私は」 声が出る。 止まる。 「私は、ロビン様の筆頭側近です」 胸が冷えた。 また。 パスカルが目を閉じる。 エドガーは苦しそうに続ける。 「あなたをお守りし、お支えすることが――」 「それは知ってる」 ロビンは遮った。 「何度も聞いた」 「ロビン様」 「僕が聞いてるのは、それじゃない」 エドガーの目を見る。 「僕が魔王じゃなくても?」 返事がない。 「一人で何でもできるようになっても?」 エドガーの喉が動く。 「エドガーに何も頼まなくなっても?」 「そのようなことは」 「あるかもしれないでしょう」 ロビンは一歩近づいた。 「それでも、僕が欲しい?」 エドガーの顔が歪む。 欲しい。 そう言えばよいだけだ。 パスカルにも分かる。 ロビンも、ほとんど分かっている。 それでも、本人の言葉がなければ届かない。 エドガーの手が上がる。 ロビンの頬へ伸びる。 今度は、ロビンが避けなかった。 指先が触れる寸前。 エドガーは手を止めた。 「私には、申し上げる資格がございません」 ロビンの中で、何かが静かに沈んだ。 怒りではなかった。 期待を置く場所が、少し遠くなった。 「そう」 ロビンは一歩下がった。 エドガーの手は、また何もつかめなかった。 「今日は、パスカルのところに戻る」 エドガーが息をのむ。 「昨日だけでは」 「今日も」 「ロビン様」 「僕が決めた」 強い声ではなかった。 それでも、魔王の決定だった。 エドガーは長い間、何も言わなかった。 やがて胸へ手を当て、一歩下がる。 「……承知いたしました」 声が掠れている。 ロビンはパスカルへ向く。 「行こう」 パスカルは勝ち誇らなかった。 「はい」 二人で歩き出す。 数歩進んだところで、エドガーが呼んだ。 「ロビン様」 ロビンは止まる。 振り返らなかった。 「本日の踊りも」 エドガーの声が震える。 「拝見したかった」 胸が痛む。 ロビンは目を閉じた。 「次は、見に来ればいいよ」 少し間を置き、 「僕が来ていいって言ったら」 と付け加えた。 歩き出す。 今度も、エドガーは追わなかった。 **** パスカルの部屋へ戻ると、ロビンは長椅子へ座った。 昨日と同じ場所。 けれど、昨日とは違う。 パスカルは向かいの椅子へ座る。 「さっきの言葉」 ロビンが言った。 「はい」 「本気?」 「どの部分でしょう」 「全部」 パスカルは笑わなかった。 「本気です」 「いつから?」 「陛下が、私の差し上げた宝石より、エドガーの淹れた紅茶を喜ばれた頃からでしょうか」 「そんな昔?」 「恋というものは、気づいた時には手遅れになっていることもございます」 ロビンは膝を抱えた。 「パスカルは、僕に選ばれたい?」 「もちろん」 「エドガーから離れた今なら、取れると思う?」 「思いません」 答えが早い。 「なぜ?」 「あなたの心は、まだあの男を見ております」 ロビンは黙った。 「それでも、私は待てます」 パスカルは静かに言う。 「ただし、永遠ではありません」 「どういうこと?」 「あなたがエドガーを望み続ける間は、あなたの選択を尊重します」 赤い目が細くなる。 「しかし、あの男があなたの心を何度も踏みつけ、あなたが手を離した時は、遠慮いたしません」 冗談ではなかった。 ロビンの胸が鳴る。 パスカルは立ち上がり、窓辺へ向かう。 「今夜も、私は向こうの椅子におります」 「近くに来ないの?」 「来てほしいとおっしゃるなら」 ロビンは少し考えた。 「隣に座って」 パスカルの動きが止まる。 それでも、すぐには近づかなかった。 「よろしいのですか」 「触らないで」 「承知いたしました」 パスカルは長椅子の端へ座った。 二人の間には、手のひら一つ分の距離がある。 ロビンはその距離を見た。 パスカルは越えてこない。 自分が決めた幅を、そのまま守っている。 しばらくして、ロビンは肩を少しだけ傾けた。 パスカルの上着へ、髪が触れる。 それ以上は近づかなかった。 パスカルも動かなかった。 「パスカル」 「はい」 「僕、エドガーが好きなんだと思う」 声にすると、胸が痛んだ。 「存じております」 「言わないでよ」 「失礼しました」 「でも、好きなだけじゃ駄目なのかな」 パスカルはすぐには答えなかった。 「好きであることと、傷つき続けることは同じではございません」 ロビンは窓の外を見る。 遠くに、エドガーの塔が見える。 一つだけ灯りがついていた。 「エドガーも、僕を好きだと思う?」 「私の口から申し上げることではありません」 「どうして」 「それは、あの男が自分で言うべきことです」 正しいと思った。 だから余計に苦しい。 ロビンは目を閉じた。 「今日は、ここにいる」 「はい」 「明日も分からない」 「お決めになるまで、お待ちします」 パスカルの肩は温かかった。 けれど、ロビンが思い出しているのは、別の男の腕だった。 **** エドガーは、誰もいない訓練場に立っていた。 三つの金輪が、木杭の上に浮いている。 ロビンが練習していた場所。 エドガーは指先から、細い魔力を伸ばす。 一番下。 中央。 一番上。 三つの輪が、完璧に灯る。 失敗しない。 何度行っても同じだった。 「つまらないでしょう」 背後から声がした。 パスカルではない。 古参の将軍が、訓練場の入口に立っている。 「何がだ」 「何でも一度でできる者は、できなかった時の喜びを忘れます」 エドガーが冷たい目を向ける。 「何の用だ」 「北部の報告です」 将軍は書類を差し出した。 エドガーは受け取る。 将軍は去る前に、もう一度金輪を見る。 「陛下は、随分と楽しそうに練習しておられましたな」 「見ていたのか」 「皆、見ております」 将軍は笑う。 「あなた以外は」 扉が閉じた。 エドガーは一人残る。 もう一度、金輪へ魔力を通す。 完璧。 何も感じない。 ロビンが初めて三つを灯した時の顔を思い出す。 自分の腕の中で笑っていた。 よくなさいました。 その時は言えた。 なぜ、もっと大きな成功を喜べなかったのか。 答えは分かっている。 ロビンができるようになるたび、自分から遠ざかると思った。 けれど実際には、自分が喜ばなかったことで遠ざけた。 エドガーは魔力を止めた。 三つの輪が消える。 「私は、何をしている」 誰も答えない。 夜の訓練場へ、声だけが落ちた。

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