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第7話 選ぶのは、私

パスカルの部屋で迎える三度目の朝は、前の二日より静かだった。 ロビンは長椅子の上で目を覚ました。 肩には毛布。 隣の席には、誰もいない。 窓辺を見る。 パスカルは立ったまま、人間界の新聞を読んでいた。 「おはよう」 「おはようございます、陛下」 「今日は椅子で寝なかったの?」 「少しだけ、別室へ」 「僕、一人だった?」 「眠っておられる間だけです」 パスカルは新聞をたたむ。 「目を覚まされた時には、戻っております」 ロビンは毛布から手を出した。 「それ、ずるいね」 「何がでしょう」 「一人にしないって約束も守って、自分もちゃんと休んでる」 「両立できることを、どちらか一つにする理由はございません」 ロビンは黙った。 エドガーなら、自分が眠る間もそばにいただろう。 一晩中起きて、朝になれば何事もなかった顔で公務へ向かう。 それを愛情だと思っていた。 今も、愛情だと思う。 けれど、それだけが愛し方ではない。 「エドガーは?」 「本日は早朝より軍議です」 「昨日も?」 「夜半まで、各領主からの報告を処理しておりました」 「寝てないの?」 「一時間ほどは」 ロビンは眉を寄せる。 「止めなかったの?」 「私が止めて従う男ではありません」 「僕が言えば聞くかな」 パスカルは答えず、ロビンを見る。 その視線に気づき、ロビンは毛布を握った。 「戻るって言ったわけじゃないよ」 「何も申しておりません」 「顔に書いてある」 「私ほど表情を隠すことに長けた男はおりませんが」 「嘘」 「ええ」 パスカルは笑った。 ロビンは長椅子から立つ。 自分で毛布をたたむ。 端を揃える。 今度は一度でできた。 「今日は何をする?」 「人間界で、新しい事業企画の選抜がございます」 「また企画?」 「今回は、陛下が作る側ではありません」 パスカルは机から一枚の案内を取った。 「複数の提案を読み、どれが優れているか判断する側です」 ロビンは紙を受け取る。 「僕が選ぶの?」 「最終決定は人間の責任者が行います。陛下には、何を基準に選ぶべきかを見ていただきます」 「できるかな」 「できるかどうかは、終わった後に分かります」 ロビンは案内を見た。 以前なら、エドガーに先に読んでもらっていた。 重要な箇所だけ説明され、それを覚えてから人間界へ行った。 今日は自分で最初から読む。 分からない言葉へ印をつける。 「パスカル」 「はい」 「この『社内横断プロジェクト』って?」 「複数の部署から人を集めて行う仕事です」 「これなら分かった」 一つだけ説明を聞き、また自分で読み始める。 パスカルは口を出さなかった。 **** 佐藤明日香は、朝六時に起きる。 水を飲む。 髪を整える。 肌の状態を確認する。 ニュースを読む。 仕事で関係する業界記事を三本。 英語の記事を一本。 朝食を取りながら、前日に会った人の名前と会話を見返す。 誰が何に困っていたか。 誰の子どもが受験だったか。 誰が苦手な食べ物を話していたか。 覚える。 午前八時には会社へ着く。 机を拭く。 資料を開く。 前日の議事録を見直す。 明日香は、何もしなくても目を引く女性だと言われる。 華やか。 感じがいい。 人当たりが柔らかい。 男受けがいい。 けれど、その印象のために何をしているかを、口にしたことはない。 寝不足でも顔へ出さない。 相手の名前を一度で覚える。 分からない話題は帰宅後に調べる。 会食前には店の場所と相手の好みを確認する。 服も髪も、仕事の場で浮かないよう整える。 声の高さ。 話す速さ。 相手が答えやすい質問。 全部、練習してきた。 「今日も完璧だね、明日香さん」 給湯室で、同僚の三浦莉子が笑った。 その隣には、同じ部署の女性社員が二人いる。 「朝から髪きれい。私なんて結んだだけ」 「元が違うからね」 「努力しても追いつかない」 褒めているように聞こえる。 明日香は笑った。 「三浦さんの髪も似合ってますよ」 「ああいうの、さらっと言えるのすごいよね」 三人が目を合わせる。 「やっぱり慣れてる」 明日香はカップへ湯を注いだ。 「何にですか?」 「男の人への感じのいい返し」 「今、三浦さんに言いましたけど」 「あ、そういう意味じゃないよ」 莉子は笑う。 「明日香さんって、誰にでも感じいいから」 それ以上、何も言わなかった。 席へ戻る。 机の引き出しを開ける。 昨日まで入っていたプロジェクト資料がない。 「あれ」 共有棚を見る。 そこにもない。 明日香は莉子へ尋ねた。 「新規企画の市場調査資料、移動しました?」 「知らない」 「昨日、私の机に置いていたんですけど」 「大事な資料なら、ちゃんと管理しないと」 隣の女性社員が言う。 笑ってはいない。 責めるほど強くもない。 ただ、明日香の不注意として話を終わらせる声だった。 「共有データは残っています」 明日香は答え、自分の端末を開いた。 紙がなくても作業はできる。 一時間後、上司の小田切から呼ばれた。 「佐藤さん。今回の社内横断企画なんだけど」 「はい」 「提出は見送ることにした」 明日香は目を瞬いた。 「理由を伺ってもよろしいですか」 「まだ部署内の合意が取れていない」 「昨日の確認では、提出してから検討すると」 「女性チームの中で、少し意見があるみたいでね」 小田切は困った顔をした。 「佐藤さんだけが前に出る形に見える、と」 「企画責任者として名前を入れています」 「それが、ね」 小田切は声を落とした。 「周りから見ると、自分を売り込むための企画に見えるらしい」 胸の奥が冷える。 「内容に問題がありますか」 「内容はよくできてるよ」 「では、提出してください」 「佐藤さん」 小田切がため息をつく。 「少し周りを見よう。企画がよくても、チームがついてこなければ進まない」 「誰が、どの部分へ反対していますか」 「そうやって、一人ずつ問い詰めるのもよくない」 「確認したいだけです」 「今はやめておこう」 決定だった。 明日香は頭を下げる。 「分かりました」 上司の席から離れる。 自分の机へ戻る途中、莉子たちの会話が聞こえた。 「また呼ばれてたね」 「どうせ新しい責任者候補とかじゃない?」 「男の上司って、ああいう子好きだもん」 「本人は努力してますって顔だけど、元がいい人は楽でいいよね」 明日香は足を止めなかった。 何も知らない。 朝何時に起きるか。 どれだけ調べるか。 誰の名前を覚えるために、帰宅後も記録を見返しているか。 何も知らない。 知らないまま、全部を顔と愛想のおかげにする。 席へ座る。 端末の中には、提出予定だった企画書がある。 地方の小売店と都市部の消費者をつなぐ新しい販売支援。 地域の小規模事業者が、広報や物流を単独で抱えなくてよい仕組み。 調査。 費用。 法的な確認。 協力候補。 全部そろっている。 提出ボタンは、まだ押せる。 明日香はカーソルを合わせた。 小田切の言葉が浮かぶ。 周りを見よう。 チームがついてこなければ進まない。 提出すれば、また、 勝手に進めた。 自分を売り込んだ。 男の責任者へ気に入られたい。 と言われる。 明日香は画面を閉じた。 **** 企画選抜会場には、複数の企業から提出された資料が並んでいた。 ロビンは審査席の後方で、一冊ずつ読んでいる。 人間の名前。 会社名。 目的。 費用。 難しい言葉も多い。 「これは、誰が作ったか書いてない」 ロビンが小声で言う。 「チーム名義なのでしょう」 「でも、質問したい時は誰に聞くの?」 「責任者欄がございます」 「責任者は作った人?」 「必ずしも」 ロビンは首を傾げる。 「変だね」 「人間界では珍しくありません」 「魔王城なら、誰が考えたか記録に残すよ」 「エドガーが許しませんからね」 名前を聞いただけで胸が少し痛む。 ロビンは次の資料を開いた。 途中で、会場入口に立つ女性へ目が止まる。 整った髪。 淡い色のスーツ。 笑顔で参加者へ案内している。 けれど、誰かに話しかけられていない時は、目が少し疲れていた。 「佐藤さん」 別の社員が呼ぶ。 女性――明日香が振り返る。 「資料、会議室へ運んでおいて」 「分かりました」 「あと、来賓用のお茶も」 「運営担当へ確認します」 「それくらいやってくれてもいいでしょう」 「私、受付担当ではないので」 相手の顔が曇る。 「感じ悪い」 小さな声だった。 明日香にも聞こえたはずだ。 それでも笑顔を崩さず、資料だけを持って歩き出した。 ロビンは彼女を目で追う。 「知ってる人?」 パスカルが尋ねる。 「知らない。でも、疲れてる」 「人間は、疲れていても笑うことがございます」 「どうして?」 「笑っていないと、さらに責められるからでしょう」 ロビンは黙った。 **** 昼の休憩中。 明日香は一人で非常階段にいた。 紙コップのスープを飲む。 昼食を取る時間は短い。 午後は選抜会の運営補助。 本来、自分の企画も提出される予定だった場所だ。 スマートフォンを開く。 社内チャットには、莉子たちのグループがある。 自分は入っていない。 それでも、共有端末の通知画面へ一部が表示されていた。 《あの企画、止められてよかった》 《また男の責任者に近づくつもりだったんじゃない》 《顔と愛想で上まで行ける人は楽》 《実力あるなら、私たちの協力なしでやれば?》 その言葉を見た時、胸より先に手が冷たくなった。 自分の企画が止められたのは、意見の違いではない。 自分を外すためだった。 スマートフォンを伏せる。 怒りより、恥ずかしさが来た。 自分だけが、仕事の話だと思っていた。 必要な合意を取れば進められると思っていた。 相手は最初から、企画ではなく自分を見ていた。 非常階段の扉が開く。 栗色の髪をした青年が顔を出した。 「あ」 明日香は目元を押さえた。 泣いてはいない。 まだ。 「ここ、使ってます?」 青年が尋ねる。 「休憩中です」 「僕も座っていい?」 「どうぞ」 青年は一段空けて座った。 少し離れて、赤い服の男が立っている。 「それ、お昼?」 青年が紙コップを見る。 「そうです」 「少ないね」 「時間がないので」 「僕も食べてない」 赤い男が口を挟む。 「朝食もお断りになりました」 「今それ言わなくていい」 明日香は青年を見る。 「食べた方がいいですよ」 「あなたも」 「私は飲んでます」 「僕もあとで食べる」 「あとでと言う人は食べません」 青年が少し驚いた顔をする。 「エドガーと同じこと言う」 赤い男の眉が少し動いた。 明日香はその名前を知らない。 青年は膝を抱える。 「佐藤さんは、何か作ったことある?」 「急ですね」 「企画」 明日香の指が止まった。 「どうしてですか」 「ずっと資料を見てたから」 「運営です」 「でも、読む顔が違った」 明日香は青年を見る。 「どんな顔ですか」 「自分ならこうするって考えてる顔」 返事ができなかった。 赤い男が、青年の後ろで薄く笑う。 「陛下は、随分と人をご覧になるようになりました」 「それ、褒めてる?」 「もちろんです」 明日香は紙コップへ視線を落とす。 「作りました」 「どんな企画?」 「地方の小さな店を、都市部の消費者へつなぐ仕組みです」 「出したの?」 「出していません」 「どうして」 「周りの同意が取れなかったので」 青年は少し考える。 「佐藤さんは、出したかった?」 明日香の喉が詰まる。 誰も、そこを聞かなかった。 内容がよくても。 周りを見ろ。 チームがついてこない。 言われたのはそれだけだった。 「出したかったです」 声にすると、悔しさが戻った。 「でも、出さないと決めたのも私です」 「まだ出せる?」 「締切は今日です」 「じゃあ」 「出せません」 少し強くなった。 青年が黙る。 明日香は息を吐く。 「提出したら、もっと周りから嫌われる」 「嫌われたくない?」 「仕事は一人ではできません」 「でも、企画も一人では出せない?」 「そういうものです」 青年は納得していない顔だった。 明日香は笑う。 「あなたは、誰かに嫌われても平気そうですね」 「平気じゃないよ」 すぐに返ってきた。 「一番好きな人に、欲しい言葉を言ってもらえないだけで、ずっと苦しい」 明日香は目を瞬いた。 青年は自分で言ってから、少し俯く。 赤い男は何も言わない。 「それでも」 青年が続ける。 「その人が言わないからって、僕が何をしたいかまで決めてもらうのは嫌だ」 明日香は、自分の端末を見た。 提出していない企画書。 誰かが止めた。 自分も止まった。 「食べてくださいね」 明日香は立ち上がった。 「あなたも」 「うん」 「本当に」 「分かった」 青年は素直に頷く。 明日香は階段を上がった。 扉を閉める前に、赤い男の声が聞こえた。 「陛下。随分とご立派なことをおっしゃいましたね」 「うるさい」 **** 選抜会の午後の部が始まった。 新しい責任者として、外部から招かれた相馬彰人が壇上へ立つ。 三十代半ば。 無駄のない黒いスーツ。 参加企業の役員たちと対等に話す。 紹介では、複数の新規事業を立ち上げた実績があるという。 会場の女性社員たちが、少しだけざわついた。 莉子が隣の社員へ囁く。 「格好いいね」 「明日香さん、また狙うんじゃない?」 二人が笑う。 明日香は聞こえないふりをして、受付資料を揃えた。 相馬は提出企画を一冊ずつ確認する。 質問は短く、具体的だった。 市場規模。 実行責任者。 撤退条件。 数字の根拠。 外見や話し方で扱いを変えない。 発表者が男性でも女性でも、同じように細部を聞く。 審査が半分ほど進んだ頃、相馬の手が止まった。 「これは?」 机の端に、一冊の資料が紛れ込んでいた。 白い表紙。 《地域小売共同販売支援構想》 作成者――佐藤明日香。 明日香の呼吸が止まる。 提出していない。 自分の端末にしかなかったはずだ。 会場後方。 パスカルが赤い封筒を指先で軽く弾いた。 封筒は薄い光へ変わり、袖の中へ消える。 その動きを見ていたのは、ロビンだけだった。 「出してあげたの?」 小声で尋ねる。 「読むべき者の机へ、置き忘れられた資料を戻しました」 「提出してなかったよ」 「だからこそ、読まれる機会だけを」 パスカルは壇上を見る。 「選ぶのは、あの方です」 相馬が資料をめくる。 一ページ。 二ページ。 読み進むほど、姿勢が変わる。 「この資料を作った方は?」 会場が静まる。 明日香は立てなかった。 莉子が先に手を上げかける。 「部署の共同企画で――」 相馬が顔を上げる。 「作成者欄には、佐藤明日香とあります」 「原案は彼女ですが、チームで検討して」 「では、あなたはこの物流費の算定根拠を説明できますか」 莉子の手が止まる。 「細かな数字は、担当が」 「地域ごとの参加条件は?」 「それも、資料に」 「撤退条件を三段階へ分けた理由は?」 莉子は答えられない。 隣の社員たちも黙っている。 相馬は会場を見渡した。 「佐藤明日香さん」 名前を呼ばれた。 明日香の心臓が大きく鳴る。 立て。 今、立て。 自分で書いた。 説明できる。 嫌われるかもしれない。 また何か言われるかもしれない。 それでも、これは自分の企画だ。 明日香は手を上げた。 「私です」 声が少し震えた。 「前へお願いします」 壇上へ向かう。 莉子たちの前を通る。 視線が刺さる。 明日香は止まらなかった。 相馬から資料を受け取る。 「この企画は、提出を取り下げたと聞いていましたが」 相馬が尋ねる。 「正式には、提出していません」 「なぜですか」 小田切が席から立ち上がる。 「部署内の合意形成が不十分でして」 相馬は明日香を見る。 「内容上の問題は?」 「修正が必要な部分はあります」 「説明してください」 明日香は資料を開く。 最初の頁。 市場背景。 地方の小規模店が単独で通販へ参入する場合、広告費、撮影、在庫管理、発送の負担が重い。 一方、都市部の消費者には地域商品への需要がある。 店舗ごとではなく、地域単位で共同の販売基盤を持つ。 「参加店舗は、売上規模では選びません」 明日香は話す。 「商品情報の提供と在庫更新を続けられるか。品質基準を守れるか。そこを条件にします」 「物流は?」 「初期は共同倉庫を持ちません。既存の地域配送会社と提携し、注文量が一定を超えた地域だけ、中継拠点を設けます」 「赤字になった場合は」 「三か月ごとに継続判断します。参加店舗数、再購入率、配送単価のうち二つが基準を下回れば、地域単位で縮小します」 相馬はページをめくる。 「協力候補の企業名までありますね」 「面談前です。公開情報から、事業領域が合う企業を選んでいます」 「このインタビュー記録は?」 「休日に、自分で店舗へ伺いました」 会場の空気が変わった。 明日香は続ける。 店主が何に困っていたか。 通販を始めても続かなかった理由。 写真を撮れない。 問い合わせへ対応できない。 発送伝票だけで一日が終わる。 ただ販路を与えるだけでは続かない。 実務をまとめて支える仕組みが必要だった。 相馬は最後まで聞いた。 「よく調べています」 その一言が、明日香の胸へまっすぐ入った。 顔ではない。 感じのよさでもない。 調べたことを見てもらえた。 「ありがとうございます」 「この企画を、実行したいですか」 明日香は息を吸った。 会場には、莉子たちもいる。 上司もいる。 嫌われたくない。 仕事は一人ではできない。 それでも。 「実行したいです」 はっきり言った。 相馬が頷く。 「では、新設する事業開発チームへ入ってください」 小田切が顔を上げる。 「佐藤をですか」 「企画責任者として」 「ただ、彼女は調整面で少し」 「先ほどの説明に、調整上の問題がありましたか」 小田切は言葉を選ぶ。 「部署内で、彼女だけが前へ出ることへの反発がありまして」 相馬の目が冷える。 「企画者が前へ出ることの、何が問題ですか」 誰も答えない。 「チームへ必要なのは、根拠を持って仕事を進められる人です」 相馬は資料を閉じる。 「佐藤さん。新チームの責任者候補として、正式に推薦します」 明日香の手が震えた。 「はい」 相馬は続ける。 「ただし、企画者だから無条件に採用するわけではありません。三週間で事業計画を詰め、役員審査へ出してください」 「承知しました」 「人員は、こちらで募ります。現在の部署から無理に連れてくる必要はありません」 莉子たちの顔が固まる。 明日香は少しだけ息を吐いた。 協力しない人へ、頭を下げ続けなくてよい。 **** 選抜会終了後。 相馬は小田切と莉子たちを別室へ呼んだ。 明日香は呼ばれていない。 何が話されているか分からない。 受付の片づけをしていると、総務担当者が来た。 「佐藤さん」 「はい」 「少し確認したいことがあります」 別室へ案内される。 机の上には、印刷された社内チャットの記録があった。 明日香は息を止める。 《あの企画、止められてよかった》 《男の責任者狙い》 《資料、しばらく見つからないことにしよう》 《依頼回すの遅らせれば、締切に間に合わない》 見覚えのない部分まである。 資料を隠した。 必要な連絡を止めた。 協力を断っただけではない。 仕事を妨害していた。 総務担当者が言う。 「この記録と、共有フォルダの操作履歴が提出されました」 「誰からですか」 「匿名です」 会場の外。 パスカルが、指先に絡んだ赤い糸を一本ずつほどいていた。 ほどけた糸は空中で文字へ変わり、白い紙へ落ちる。 ロビンが隣で見ている。 「今度は何?」 「隠されていた会話を、管理すべき者へ」 「さっきの企画を出すだけじゃなかったの?」 「仕事を奪うだけなら、機会を戻せばよい」 パスカルの目が細くなる。 「故意に道を塞いだ者には、相応の確認が必要でしょう」 ロビンは少し考えた。 「罰は、パスカルが決めるの?」 「いいえ」 パスカルは指を閉じる。 「人間の規則が決めます」 別室では、総務担当者が明日香へ説明を続けていた。 「資料の移動と連絡遅延について、関係者へ聞き取りを行います。事実が確認されれば、就業規則に基づき処分します」 「私が、何か提出するものは」 「なくなった資料や、届かなかった連絡があれば教えてください」 明日香は自分の記録を開く。 日付。 資料名。 依頼時刻。 返答。 これまで、気のせいだと思っていたもの。 自分が嫌われているから仕方ないと思っていたもの。 仕事上の妨害だった。 「あります」 明日香は答えた。 一つずつ説明する。 感情を隠さず。 大げさにもせず。 事実として。 **** 数日後。 莉子には減給とプロジェクト業務からの除外。 他の二人にも正式な戒告。 小田切には、部下からの申告を確認せず、個人的な評判だけで企画提出を止めたことへの管理責任が問われた。 異動も決まった。 明日香は、新しい会議室にいた。 机を囲むのは、社内公募で集まった社員たち。 物流。 法務。 広報。 システム。 全員、企画を読んで応募してきた。 「佐藤さん」 物流担当の男性が手を上げる。 「地方配送会社との契約条件、今の想定だと小規模地域が不利になります」 「どこを変えればよいと思いますか」 「最低保証を地域単位ではなく、複数地域でまとめる案です」 明日香はメモを取る。 「検討しましょう」 法務担当の女性が言う。 「個人商店の写真を共通ページへ掲載する場合、使用範囲をかなり細かく決めた方がいいです」 「条項案をお願いできますか」 「はい」 誰も、明日香が前へ出ることを嫌がらない。 意見を言う。 反対する。 根拠を出す。 仕事の話ができる。 会議後、相馬が入口に立っていた。 「順調ですか」 「課題だらけです」 「結構」 「褒めてます?」 「課題が見えているなら」 明日香は少し笑った。 相馬は資料を見る。 「三週間後、楽しみにしています」 それだけ言い、去っていく。 恋愛の気配はない。 仕事を見ている。 それがよかった。 明日香は机へ戻った。 莉子たちから言われた言葉を、完全に忘れることはないだろう。 自分が笑えば、また何か言う人はいる。 整えていれば、努力ではなく元がいいだけと言われる。 成果を出せば、男に気に入られたからだと言う人もいる。 それでも、明日香は朝六時に起きる。 髪を整える。 記事を読む。 人の名前を覚える。 誰かに好かれるためだけではない。 自分が、自分の仕事をしたいからだ。 **** 魔王城へ戻ったロビンは、自分の部屋へ向かった。 パスカルの部屋ではない。 エドガーの部屋でもない。 自分の部屋。 三日ぶりだった。 机には、誰かが整えた形跡がない。 エドガーは入っていない。 ロビンが来るなと言ったからだ。 寝台の枕が少し曲がっている。 本が三冊積まれたまま。 窓辺の花の水も減っている。 以前なら、すべて整っていた。 ロビンは水差しを持った。 自分で花へ水をやる。 少し多かった。 受け皿へ水があふれる。 布を探す。 棚の二段目。 覚えている。 自分で拭く。 寝台を整える。 本を戻す。 完璧ではない。 それでも一人でできる。 部屋は、きちんと自分のものになっていく。 扉が叩かれた。 「誰?」 「私です」 エドガーの声だった。 胸が鳴る。 「入っていいよ」 扉が開く。 エドガーが立っている。 黒い正装。 今日は手袋をしていない。 目の下の影は、少し薄くなっていた。 「お帰りになったと伺いました」 「うん」 エドガーは部屋の中を見る。 水のあふれた受け皿。 少し斜めの枕。 逆向きに入った本。 いつもなら、無意識に直していただろう。 今日は動かない。 「お手伝いは」 「いらない」 「承知いたしました」 すぐに引いた。 ロビンは布を置く。 「でも、いて」 エドガーの目が揺れる。 「はい」 二人の間に距離がある。 以前は、その距離をエドガーが埋めた。 今は、ロビンが歩いた。 一歩。 もう一歩。 エドガーの前へ立つ。 「僕、一人で部屋を片づけられたよ」 「拝見しました」 「本、逆だけど」 「読むことに支障はございません」 ロビンは少し笑った。 「前なら直したでしょう」 「直してほしいとおっしゃるまで、触れません」 「どうして?」 「ロビン様の物だからです」 答えは正しかった。 遅い。 けれど、正しかった。 「今日は、何をなさったのですか」 エドガーが尋ねる。 「企画を選ぶところを見た」 それだけ答える。 「僕も、選ぶことにした」 エドガーの表情が固くなる。 「何をでしょう」 ロビンは彼の目を見る。 「僕が、誰と一緒にいたいか」 扉の外で、気配が動いた。 パスカルがいる。 入ってはこない。 ロビンは気づいていた。 「パスカルは、僕を好きだって言ってくれた」 エドガーの指がわずかに動く。 「はい」 「僕が何もできなくても、魔王じゃなくても変わらないって」 「存じております」 「僕のしたいことも聞いてくれる。失敗しても、もう一度やればいいって言う」 エドガーの顔が痛そうに歪む。 ロビンは続けた。 「優しいし、格好いいし、一緒にいると新しいものを見せてくれる」 「はい」 エドガーは否定しない。 「パスカルなら、僕を幸せにしてくれると思う」 「……はい」 声が掠れる。 ロビンは胸が痛んだ。 それでも、ここで止めない。 「エドガーがいなくても、僕は生きていける」 エドガーの顔から色が消える。 「自分で服も選べる。企画も作れる。失敗しても直せる。分からないことは、誰かに聞ける」 一つずつ言う。 「エドガーがいないと何もできない僕じゃない」 「ロビン様」 「最後まで聞いて」 エドガーは口を閉じた。 ロビンは一歩近づく。 触れられる距離。 けれど、まだ触れない。 「僕は、エドガーが必要だから好きなんじゃない」 エドガーの目が揺れる。 「何でもしてくれるからでもない。僕を守れるからでもない」 命令を下す低い声。 記録の偽造を暴いた指。 自分の決定を誰より強く守る姿。 似合いすぎる服を、他人に見せたくないと認めた顔。 贈ったバームを、毎日使う不器用さ。 褒めると赤くなる耳。 自分へだけ柔らかくなる目。 「仕事をしてるエドガーは格好いい」 ロビンは言った。 「僕の決めたことを、みんなの前で守ってくれるところも好き」 エドガーの呼吸が止まる。 「僕に触れる時だけ、すごく優しいところも」 「ロビン様」 「でも、嫌いなところもある」 エドガーは黙る。 「何でも勝手に決める。隠す。嘘をつく。僕ができるようになると、嬉しいより先に怖がる」 「申し訳」 「謝らないで」 ロビンは首を振る。 「今は、エドガーがどうしたいかを聞いてる」 何度も問いかけてきたこと。 けれど、今のロビンは違う。 答えがなくても、一人で立っていられる。 「僕が魔王じゃなくても?」 「はい」 エドガーの返事が落ちた。 ロビンは瞬く。 「僕が一人で何でもできても?」 「はい」 今度も、止まらない。 「エドガーを必要としなくても?」 エドガーの顔が歪んだ。 それでも逃げなかった。 「それでも、おそばにいたい」 ロビンの胸が大きく鳴る。 エドガーは拳を握る。 素手の指が震えている。 「筆頭側近としてではありません」 声が掠れる。 「務めでも、忠誠でも、必要とされるためでもない」 一歩、エドガーが近づく。 けれど、ロビンへ触れる前に止まる。 「私は、あなたを一人の男として愛しております」 長く待った言葉だった。 「あなたが私を呼ばれなくても。私の助けを必要となさらなくても。魔王でなくなられても」 エドガーの目が赤くなる。 「私には、あなたが必要です」 ロビンは黙って聞く。 「必要だから愛しているのではありません」 エドガーは、はっきり言い直した。 「愛しているから、そばにいたい」 その言葉が、胸の奥へ届いた。 「ずっと、怖かった」 エドガーが続ける。 「あなたが何でもおできになるようになれば、私は不要になる。不要な男がそばにいることを、あなたが望まれないと思った」 「勝手に決めたね」 「はい」 「僕の気持ちを聞かなかった」 「はい」 「嘘もついた」 「はい」 「傷ついたよ」 エドガーの顔が歪む。 「申し訳ございません」 今度は、ロビンも止めなかった。 謝るべきことだった。 「二度と、あなたの選択を奪いません」 エドガーは言う。 「心配でも、反対でも、先にお伝えします。決めるのは、あなたです」 「僕がパスカルを選んでも?」 エドガーの喉が動く。 扉の外が静かになる。 長い沈黙。 それでも、エドガーは答えた。 「お止めしたい」 「うん」 「ですが、あなたがお決めになったなら」 拳が震える。 「従います」 ロビンはエドガーを見上げた。 世界で最も強い男が、自分を失う恐怖に耐えながら、選択を返している。 だから、今度はロビンが選べる。 「僕は」 扉の方を見る。 「パスカル」 扉が開いた。 パスカルが入ってくる。 いつもの華やかな上着。 いつもの余裕のある立ち姿。 けれど、目だけは笑っていない。 「お呼びでしょうか」 「うん」 ロビンは二人の間に立った。 「パスカルが言ってくれたこと、嬉しかった」 「光栄です」 「僕が失敗しても、できなくても変わらないって言ってくれたから、僕は自分のことを少し好きになれた」 パスカルの表情がわずかに揺れる。 「ありがとう」 「感謝だけをいただくつもりはありませんでしたが」 声は穏やかだった。 「うん」 ロビンも逃げなかった。 「でも、僕が選ぶのはエドガー」 パスカルは目を閉じた。 短い沈黙。 エドガーは動かない。 勝ち誇ることも、ロビンへ手を伸ばすこともない。 パスカルがゆっくり目を開く。 「理由を伺っても?」 「エドガーがいないと生きられないからじゃない」 ロビンは答えた。 「一人でも生きられるようになったのに、それでもエドガーと生きたいから」 パスカルはしばらくロビンを見つめた。 やがて、片膝をつく。 「承知いたしました」 ロビンは眉を下げる。 「怒ってる?」 「少々」 「悲しい?」 「大変に」 「ごめん」 「謝られますと、余計に惨めになります」 「じゃあ言わない」 パスカルが少し笑う。 「その程度で結構です」 立ち上がる。 エドガーを見る。 二人の間に長い視線が交わる。 「彼を泣かせたら」 「お前に言われるまでもない」 「最後まで聞きなさい」 エドガーの眉が寄る。 パスカルは続ける。 「次は、遠慮いたしません」 「次はない」 「そう願っております」 二人の声に、以前のような軽い敵意が少し戻る。 ロビンは息を吐いた。 パスカルは扉へ向かう。 「どこへ行くの?」 「失恋した男へ、多少の時間をいただけますか」 「うん」 「今夜は、私の部屋へいらっしゃらないでください」 「行かないよ」 「分かっていても、口にされると傷つきますね」 ロビンは困った顔をする。 パスカルは笑った。 「よいのです。それが、選ばれなかったということでしょう」 扉の前で振り返る。 「陛下」 「何?」 「どうか、お幸せに」 今度は冗談ではなかった。 ロビンはまっすぐ頷く。 「ありがとう」 パスカルは部屋を出た。 扉が閉じる。 ロビンとエドガーだけが残る。 急に、部屋が静かになった。 エドガーはまだ、ロビンへ触れていない。 「エドガー」 「はい」 「抱きしめて」 言った瞬間、エドガーの目が揺れた。 それでも、すぐには動かない。 「よろしいのですか」 「聞くのは一回でいいよ」 「……はい」 エドガーの腕がロビンの腰へ回る。 強く引き寄せられる。 黒い正装の胸元。 低い心臓の音。 大きな手。 何度も欲しかった場所だった。 けれど、以前とは違う。 閉じ込められているのではない。 自分からここへ来た。 ロビンはエドガーの背へ腕を回した。 「苦しい?」 エドガーが尋ねる。 「もっと強くていい」 腕に力が入る。 ロビンは胸へ頬を寄せた。 黒茶と杉の香りがする。 「僕が一人でできること、これからもっと増えるよ」 「はい」 「エドガーの知らない場所にも行く」 「はい」 「パスカルと二人で行くこともある」 エドガーの腕が少し固くなる。 「……はい」 「嫌?」 「大変に」 ロビンは笑った。 「ちゃんと言えたね」 「努力しております」 「でも、行くなとは言わない?」 長い沈黙。 「帰ってきてくださいとは申します」 ロビンは顔を上げた。 「帰ってきてほしい?」 エドガーはロビンの頬へ手を添える。 今度は途中で止めない。 「何度でも」 低い声だった。 「私のところへ帰ってきてほしい」 胸の奥が熱くなる。 ロビンは、エドガーの手へ頬を押しつけた。 「じゃあ、帰ってくる」 「お約束いただけますか」 「約束する」 エドガーは安堵したように目を閉じる。 額が触れる。 「ロビン様」 「今は、様をつけないで」 エドガーの呼吸が止まる。 「二人だけの時は、ロビンって呼んで」 「それは」 「嫌?」 「恐れ多いだけです」 「僕が呼んでほしい」 エドガーはしばらく黙った。 やがて、掠れた声で呼ぶ。 「ロビン」 名前だけだった。 それだけで、体の奥まで響いた。 ロビンは笑う。 「もう一回」 「ロビン」 「好きってつけて」 エドガーの耳が赤くなる。 世界中の悪魔を一言で黙らせる男が、言葉に詰まっている。 ロビンは待った。 今度は、置いていかれる不安ではない。 言うまで待てる。 「好きです」 「敬語」 「急には無理です」 「じゃあ、今はそれでいい」 ロビンは背伸びをした。 唇が触れる直前、エドガーが動きを止める。 「ロビン」 「何?」 「私から、よろしいですか」 「聞くのは一回って言ったでしょう」 「これは別の確認です」 「一回だけならいいよ」 エドガーはロビンの頬を包んだ。 ゆっくり顔を寄せる。 唇が重なる。 最初は、確かめるように短く。 離れかけたエドガーの襟を、ロビンがつかむ。 「それだけ?」 低い息が漏れた。 「煽らないでください」 「嫌ならやめる?」 「やめられると思いますか」 今度は深く口づけられた。 背中へ回る腕。 顎を支える手。 逃げ道はある。 ロビンは、自分からその胸へ体を預けた。 唇が離れる。 二人の呼吸が混ざる。 「好き」 ロビンが言った。 「エドガーが好き」 エドガーの顔が、初めて完全に崩れた。 嬉しさを隠せない。 ロビンはその顔が見たかった。 ずっと。 「私も」 エドガーが額を寄せる。 「あなたを愛しています」 「必要だから?」 「愛しているからです」 「僕が何でもできても?」 「何度でも申し上げます」 エドガーはロビンを抱き直す。 「何でもおできになるあなたを愛しております」 「できない僕は?」 「同じように」 「失敗した僕は?」 「同じです」 「何もしたくない日も?」 「おそばにおります」 ロビンは満足して笑った。 「それが聞きたかった」 「遅くなりました」 「本当にね」 「申し訳ございません」 「だから、これからたくさん言って」 「承知いたしました」 「命令じゃないよ」 エドガーが少し考える。 「私が、申し上げたい」 今度は正しかった。 ロビンはもう一度、彼の胸へ頬を寄せる。 窓辺の花から、水が一滴落ちる。 受け皿へ小さな音がした。 エドガーの手が動きかける。 ロビンが背中を軽く叩いた。 「今はいい」 「はい」 エドガーは花へ行かず、ロビンを抱いていた。 **** 翌朝。 魔王城の食堂には、十二本の銀器が並んでいた。 ロビンは右端の一本を持ち上げる。 「これは?」 エドガーが答える前に、自分で見る。 「魚料理用」 「正解です」 「こっちは前菜」 「はい」 ロビンは満足して銀器を置く。 エドガーがティーポットへ手を伸ばす。 ロビンも同時に持った。 「僕がやる」 エドガーの手が止まる。 「では、お願いいたします」 ロビンは紅茶を注ぐ。 少しだけ受け皿へこぼれた。 エドガーは布を取らない。 ロビンが自分で拭く。 砂糖を二粒入れる。 一つ目はカップ。 二つ目は受け皿へ落ちた。 「失敗した」 「はい」 「笑った?」 「いいえ」 「口元が動いた」 「愛らしいと思っただけです」 ロビンは顔を上げる。 エドガーは一瞬だけ目を逸らした。 「今、言えたね」 「努力しております」 食堂の扉が開く。 パスカルが入ってきた。 昨日より派手な赤い上着。 胸元には、黒い花。 「おはようございます、我が麗しき魔王陛下」 「おはよう」 エドガーの眉間に皺が寄る。 「なぜ朝から来る」 「外交報告です」 「書面で出せ」 「陛下へ直接申し上げる必要がございます」 パスカルはロビンの隣へ座ろうとする。 エドガーが先に椅子を引いた。 「そこは私の席だ」 「昨日までは空いておりましたが」 食堂の空気が冷える。 ロビンは二人を見る。 「パスカル」 「はい」 「向かいに座って」 「承知いたしました」 パスカルは素直に向かいへ移る。 エドガーが少しだけ勝ち誇った顔をした。 パスカルが笑う。 「実に分かりやすい」 「黙れ」 ロビンはパンを取る。 自分で切る。 少し厚い。 それでも、そのまま口へ運ぶ。 「今日は、どこへ行く?」 パスカルが尋ねる。 エドガーの手が止まる。 ロビンは二人を見比べた。 「午前は魔王の仕事」 「はい」 エドガーが答える。 「午後は、人間界へ行く」 パスカルが微笑む。 「喜んでご案内いたします」 「エドガーも来る?」 エドガーはすぐに答えなかった。 「私が同行しても、よろしいのでしょうか」 「来たい?」 「はい」 「じゃあ来て」 ロビンはパンをもう一口食べる。 「でも、僕が困るまで手を出さないで」 エドガーの眉が少し寄る。 「努力いたします」 「無理そう」 パスカルが笑う。 「私は見物させていただきます」 「お前も勝手に助けるな」 「陛下がお求めになれば」 「二人とも」 ロビンが呼ぶ。 同時に黙る。 「僕が決めるよ」 エドガーは胸へ手を当てる。 「承知いたしました」 パスカルも優雅に一礼した。 「仰せのままに」 ロビンは笑った。 一人でも立てる。 二人へ頼ることもできる。 どちらかに決めてもらう必要はない。 自分で選び、自分で進む。 それでも、隣には好きな男がいる。 エドガーがロビンのカップを見た。 紅茶が少し減っている。 「おかわりは?」 「あとで」 「承知しました」 勝手に注がない。 ロビンはその小さな変化が嬉しかった。 テーブルの下で、エドガーの手を探す。 指先が触れる。 エドガーが驚いたように見る。 ロビンは前を向いたまま、その手へ指を絡めた。 大きな手が、今度は強く握り返す。 パスカルが向かいから二人の手元を見る。 「朝から見せつけてくださいますね」 「見なければいいでしょう」 「今後、毎朝これですか」 「嫌なら来るな」 「陛下にお会いできるなら参ります」 ロビンは二人の言い争いを聞きながら、紅茶を飲んだ。 少し薄かった。 次は、もう少し長く茶葉を蒸らせばいい。 エドガーに聞いてもいい。 自分で試してもいい。 どちらでも選べる。 それが、今はとても嬉しかった。 ** 役立たずの魔王でも、愛してくれますか? 〜過保護な筆頭側近と、人間界の理不尽をほどく〜 (完)

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