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第1章 また不合格

 鏡張りの、飾り気のない部屋だった。  家具らしい家具はなく、中央に大きなベッドが一台置かれているだけ。  そのベッドの上で、トアは一人の男と向かい合って座っていた。 「よろしくお願いします」  勢いよく頭を下げる。 「あ、はい。よろしくお願いします」  つられたように、男も頭を下げた。  顔を上げたトアは、膝の上でそっと拳を握った。  今日こそ。  今回こそは、絶対に合格したい。 「では、始めます」 「はい」  トアは男へ身体を寄せた。  そっと唇を重ねる。  目は閉じない。  至近距離から相手の瞳を見つめたまま、身体の奥にある魔力を集めた。  ――『魅了』。  精いっぱい力を込める。 「…………」  男の顔は、何も変わらない。  もう一度。  ――『魅了』。  変化なし。  もう一回。  ――『魅了』。  駄目。  なら、もう一回。  ――『魅了』。  ここまでくると、ほとんど意地だった。  数を打てば一回くらい当たるんじゃないか。  そんな根拠のない期待まで湧いてくる。  ――『魅了』『魅了』『魅了』。 「…………」  男の目が、すっと冷めた。  至近距離から一瞥される。 「あの」 「はい」 「そろそろお願いできます?」 「…………はい」  もうやってる。  ものすごくやってる。  むしろ始まってから今まで、ずっと魅了をかけていた。  そう言いたかった。  けれど、あれだけやって何一つ伝わっていないのが悔しくて、口には出せなかった。  トアは何事もなかったように男の胸へ手を置いた。  大丈夫。  魅了が駄目なのは、今に始まったことじゃない。  ここからなら、まだ挽回できる。  シャツの一番上のボタンへ指をかける。  硬いボタンが指腹に当たる感触を確かめてから、一つずつ外していく。布が開くたびに、男の体温が少しずつ空気へ漏れてきた。  露わになった首筋へ唇を寄せた。  先ほどまで口にしていたキスを首筋へ移し、脈の上を舌先でなぞるように肌をくすぐるように下へ降りていく。  胸へ。  乳首のすぐ脇で一度止まり、吐息だけを当ててから、唇で軽く含んだ。男の胸が小さく跳ねる。トアは力を入れすぎないよう、吸い方を変えて何度もその小さな粒を舐め上げた。  そしてゆっくりと腹へ。  へそのあたりにも軽く唇を落とした。 「……っ」  男の呼吸が少し変わった。  閉じられた瞼を見て、トアはほっとする。  よかった。  こっちはちゃんと効いている。  魅了魔法が使えないぶん、技術は磨いてきた。  何度も勉強した。  何度も練習した。  魔法は、頑張ったからといって簡単に上達してくれない。  けれど、覚えられるものなら覚えればいい。  練習して身につくものなら、人より多く練習すればいい。  それだけは、トアにもできた。  男のズボンへ手をかける。  ベルトの金具を外し、ファスナーをゆっくり下ろす音が部屋に小さく響いた。  ゆっくりと脱がせ、露わになった中心へ手を添えた。  熱を持った先端が掌に収まる。すでに硬く、先からわずかに濡れていた。トアは指で根元を支え、親指で裏側の筋をゆっくり撫でて反応を見る。反応を確かめながら手を動かす。 「……っ」  男が小さく息を漏らす。  その反応に合わせ、トアは動きを変えた。  握る強さを緩め、先だけを円を描くように擦る。男の太ももが内側へ寄った。今度は根元まで包み、上下にゆっくり動かしながら、空いた左手で袋を優しく揉んだ。  やがて顔を寄せる。  熱い先端が唇に触れる。トアはまず先だけを含み、舌先で小孔を舐めた。塩気の混じった味が広がる。舌先で触れ、相手の反応を確かめながら丁寧に刺激を重ねていく。  男の腰がわずかに動いた。  そのころには、触れ合っている場所から少しずつ精気が流れ込んできていた。  温かい。  甘い熱が舌の裏から喉へ、そこから胸の奥へ沈んでいく。身体の奥へ染み込んでいく。  もっと欲しい。  まだ、全然足りない。  トアは口を大きく開き、さらに深く受け入れた。  先端が喉の奥に当たるまで沈めてから、ゆっくり引き、再び奥まで含む。唾液で濡れた茎が唇の間を出入りするたびに、卑猥な音が小さく立つ。覚えてきたことを一つずつ試す。  呼吸。  舌。  唇。  手。  吸うタイミングを男の腰の動きに合わせ、舌を裏側へ押し当てたまま喉を細かく鳴らす。片手は根元を締め、もう片方の指は会陰をゆっくり押した。相手の身体が何を気持ちいいと感じているのか、細かな反応を拾いながら続けていく。 「……っ、あ……」  男の声が少しずつ大きくなる。  トアは止めなかった。  男の手が無意識にトアの髪へ伸び、すぐに力を抜く。トアはその隙間でさらに深く咥え込み、精気の流れが太くなるのを舌で確かめた。  やがて男の身体が強く震えた。 「……っ!」  小さな呻き。  同時に、流れ込んでくる精気が一気に増えた。  トアは目を閉じる。  熱いものが喉の奥へ注がれ、トアは零さないよう喉を鳴らして飲み込んだ。精液と一緒に、濃い精気が腹の底まで落ちてくる。  さっきまで空腹だった場所へ、ようやく何かが入ってきたような感覚。  それでも。  男から力が抜けたところで、トアはゆっくり顔を上げた。  唇の端に残ったものを親指で拭い、舌で軽く舐めてから口元を拭う。  身体の内側へ意識を向ける。 「…………」  やっぱり、足りない。  かなりもらった。  今までの試験より多い気もする。  けれど、まだ欲しい。  トアは男を見た。  目を閉じたまま、大きく息を吐いている。  少し休めば、もう一度くらいお願いできるだろうか。 「ねえ」  トアはベッドの上を移動した。  男へ覆いかぶさる。 「もう一回、お願いしてもいいですか」 「え」 「今度は、こっちに……」  その瞬間だった。 「いや!」 「わっ」  肩を押される。  予想していなかった力に、トアの身体が後ろへ倒れた。 「これ以上はもう無理!」 「……え、でも…」 「無理!」  男が勢いよく起き上がる。  脱がされた服を拾い始めた。  トアも身体を起こした。 「少し休んでからでも」 「無理だから!」 「でも、まだ――」 「本当に無理!」  男はシャツのボタンを留めることすら諦めたらしい。  着崩れた服をかき集め、そのまま扉へ向かう。  トアはベッドの上から見送った。 「……ありがとうございました」  男が振り返ることはなかった。  扉が開く。  そして、逃げるように部屋から出ていった。  ぱたん、と扉が閉まった。 「…………」  トアはその扉を見つめた。  鏡張りの部屋に、一人だけ残される。 「……今回も、駄目かな」  小さく呟く。  かなり頑張ったと思う。  いつもより多く精気を受け取れた気もする。  それでも身体の感覚だけで分かる。  まだ足りない。  もう少し続けたかった。  でも、嫌だと言われた以上は仕方がない。  相手に無理をさせるわけにはいかなかった。  ほどなくして、扉が開いた。 「終わったか」  試験官が入ってくる。 「はい」  トアはベッドから降りた。  試験官は閉まったばかりの扉へ一度目をやった。  廊下から慌ただしい足音が遠ざかっていく。 「……あれでも駄目だったか」 「はい。もう一度お願いしたんですけど、無理だそうです」 「そうか」  試験官が深く息を吐く。 「今回の被験者は、登録者の中でも特に性欲が強い男だったんだがな」 「そうだったんですか?」 「ああ。精気量も多い。提供実績も豊富で、持久力もある。お前にはなるべく長く提供できる相手のほうがいいと思ってな」  トアは瞬いた。 「わざわざ選んでくれたんですか?」 「……まあ」  試験官の返事が少し濁った。  本来、卒業試験の被験者は一定の条件を満たしていれば、受験者側の事情に合わせて選ばれるものではない。  それでも何度も同じところで不合格になっているトアを見かねて、規則に抵触しない範囲で、できるだけ条件のいい相手を回してくれたらしい。 「ありがとうございます」 「礼を言われるほどのことじゃない」 「でも、助かりました。いつもよりたくさんもらえたと思います」 「……そうか」  試験官の顔が微妙に曇った。  その表情を見て、トアも少しだけ不安になる。 「確認するぞ」 「お願いします」  試験官がトアの身体を確認する。  視線が淫紋のある場所で止まった。 「……変化はないな」 「はい」  トアもそこへ目を落とす。  薄い淫紋。  昔からそうだった。  同年代の淫魔と比べれば、明らかに色が薄い。  試験官が次に取り出したのは、細長い棒状の測定器だった。  見た目だけなら体温計によく似ている。 「口を開けろ」 「あ」  トアは素直に口を開いた。  測定器の先端を入れられる。 「舌の下」  言われた通りに位置を直し、口を閉じた。  測定が終わるまで、じっと待つ。  今回こそ。  さっきの人は、今までより長く付き合ってくれた。  受け取った量も多かった。  もしかしたら、今度こそ。  ピッ。  測定器が鳴った。  試験官が引き抜く。  表示された数値を見る。 「……どうですか?」  返事がない。  試験官はじっと表示を見つめている。  壊れている可能性でも考えているのか、一度測定器を軽く振った。  もう一度表示を見る。  そして。  はあ、と大きく肩を落とした。  わざとらしいくらいの落胆だった。  それだけで、トアにも分かってしまった。 「……足りませんでした?」 「ああ」 「そうですか……」  胸の奥が沈んだ。  試験官が測定器を見せてくれる。  表示されている精気充足率。  卒業基準を示す数字。  届いていない。 「今回、かなりもらえたと思ったんですけど」 「俺もそう思った」 「もう一回できてたら、届いたでしょうか」 「さあな」 「お願いしたんですけど……」 「逃げていったな」 「はい」  残念だった。  本当に、あと一回できれば何とかなった気がする。  けれど、試験官の顔を見る限り、そう簡単な差でもなさそうだった。 「実技は?」  トアが尋ねる。 「問題ない」 「よかった」  少しだけ安心した。 「座学も?」 「そっちはとっくに合格圏だ」 「よかったです」 「だが、精気充足率が基準に達していない」 「……はい」 「今回も不合格だ」  トアは測定器の数字をもう一度見た。  魅了魔法はまともに使えない。  誘引香も弱い。  淫紋も薄い。  だから、そのぶん勉強した。  実技も練習した。  覚えられることは全部覚えようと思った。  それでも。  ここだけが、どうしても越えられない。 「分かりました」  測定器を試験官へ返す。  悔しくないわけではない。  今回こそは、と思っていた。  しばらく俯いてから、トアは顔を上げた。 「次は、いつ受けられますか?」  試験官が黙った。 「……トア」 「はい」 「まだ受けるのか」  トアは首を傾げた。 「受からないと卒業できませんから」 「それはそうなんだが」 「次は、もう少し魅了も練習してきます」 「……そうか」 「あと、できれば今回の人と同じくらい元気な人だと助かります」 「お前な」 「駄目ですか?」 「今回の男を用意するだけでも、かなりギリギリだったんだぞ」 「そうなんですか」 「そうなんだ」 「じゃあ、同じ人でも大丈夫です」 「向こうが嫌がる」 「……そうですよね」  あれだけの勢いで逃げられたのだ。  次もお願いします、と言うのはさすがに難しい気がする。  試験官が額を押さえた。  長い沈黙。  やがて、ふたつの深いため息が落ちた。   試験官が額を押さえた。  長い沈黙のあと、深いため息が落ちる。 「トア。次の試験は受けなくていい」  思いがけない言葉に、トアは顔を上げた。 「……どうしてですか?」 「今回で分かった。相手を替えて同じ試験を繰り返しても、おそらく結果は変わらない」 「でも……」  不合格のままでは、卒業できない。  何度落ちても、受かるまで受けるつもりだった。  そんなトアの考えを読んだのか、試験官が続ける。 「諦めろと言ってるんじゃない」 「……はい」 「座学はとっくに合格水準を超えている。魅了は相変わらずだが、実技も問題ない。今日の被験者だって、魅了なしであそこまでできたんだ」  トアは黙って聞いた。 「足りないのは、精気充足率だけだ」 「はい」 「だから、やり方を変える」 「やり方?」 「実地研修に出てみないか」  トアは目を瞬いた。 「実地研修……」 「ああ。学校の試験室で一人ずつ相手を替えるんじゃなく、一定期間、特定の提供者についてもらう」  特定の提供者。  トアはその言葉を頭の中で繰り返した。 「一度で足りなければ、何度かお願いしてもいいんですか?」 「相手の同意があればな」 「……それなら」  いけるかもしれない。  今日だって、もう一度できていれば結果は違ったかもしれない。  何より、次の試験までただ待っているより、ずっといい。 「やりたいです」  迷いはなかった。 「お願いします」  試験官は小さく頷いた。 「分かった。申請してみよう」 「ありがとうございます」 「問題は研修先だな」  試験官が腕を組む。 「普通の提供者じゃ、お前には足りないだろうし……」  しばらく考え込んでいた試験官が、不意に顔を上げた。 「……一人、いるにはいるか」 「本当ですか?」 「ああ」  けれど、試験官の表情は明るくなかった。 「受け入れてくれるかは分からんがな」

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