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第4章 怖すぎる
怖い。
騎士団本部の廊下を歩きながら、リオは何度目か分からないほど同じことを考えていた。
実地研修を勧められたときは、嬉しかった。
学校で試験を繰り返していても精気充足率は上がらない。ならば、精気の豊富な提供者を相手に実地経験を積んでみないか。
教官からそう言われて、今度こそ卒業に近づけるかもしれないと思った。
しかも相手は、国に登録されている提供者の中でも特に精気量が多いという。
そこまではよかった。
その相手が王国騎士団長だと知ったのは、昨日のことだった。
「……先生」
「なんだ」
「本当に、俺でいいんでしょうか」
前を歩いていた教官が振り返る。
「何度目だ、その質問」
「すみません」
「学校側から正式に依頼して、向こうも了承している。今さら心配しても仕方ないだろう」
「それは、そうなんですけど……」
分かっている。
それでも落ち着かなかった。
カイルド。
三十二歳にして王国騎士団を率いる男。
剣術、魔力ともに王国屈指。大規模な魔獣討伐にも何度も参加し、王族の護衛を任されることもある。
そんな人物の名前を、リオだって当然知っている。
ただ、今まで自分とは何の関係もない人だった。
食堂で働く自分と、王国騎士団長。
生活している世界が違いすぎる。
まさか淫魔として関わることになるとは思ってもみなかった。
「失礼のないようにします」
「普段通りでいい」
「……はい」
そう言われても、その普段通りが難しい。
やがて教官が一つの扉の前で足を止めた。
「ここだ」
リオも立ち止まる。
急に喉が渇いた。
制服の襟元を確認する。
髪もおかしくないはずだ。
学校を代表して来ているのだから、せめて失礼のないようにしなければ。
教官が扉を叩く。
「失礼します」
中から短い返事があった。
扉が開く。
教官に続いて室内へ入り、リオはすぐに足を止めそうになった。
窓際に男が立っていた。
大きい。
最初に思ったのは、それだった。
背が高いだけではない。騎士団の制服越しでも分かるほど肩幅が広く、身体そのものに厚みがある。
鍛えられているのだろう。
腰には剣を下げていない。それなのに、立っているだけで妙な威圧感があった。
整った顔立ちをしているが、表情はほとんどない。
鋭い目がこちらへ向く。
――怖い。
噂で勝手に想像していたときより、ずっと怖かった。
「カイルド団長。お時間をいただきありがとうございます」
「ああ」
低い声が返ってくる。
「先日お話しした研修生です」
教官に促され、リオは慌てて頭を下げた。
「リオと申します。本日からよろしくお願いいたします」
できるだけきちんと言った。
顔を上げる。
カイルドと目が合う。
「カイルドだ。よろしく頼む」
「はい」
それだけだった。
怖い顔で何か言われたわけでもない。
態度が悪いわけでもない。
むしろ普通に挨拶を返されただけだ。
それでも緊張する。
教官の隣に立ちながら、リオはこっそり息を吐いた。
そのときだった。
ふと、別のものに気づいた。
「……」
リオはカイルドを見る。
さっきとは違う意味で、目が離せなくなった。
精気だ。
淫魔は人間の持つ精気を感じ取れる。
量や質まで正確に把握するには接触や検査が必要だが、多く持つ者が近くにいれば自然と分かる。
カイルドは多い。
多いなんてものではない。
部屋に入ったときから感じていたはずなのに、緊張でそれどころではなかった。
意識した途端、身体の感覚が一気にそちらへ向いた。
濃い。
これまで学校の実習で接してきた提供者とは、明らかに違う。
人間一人の身体に、これほどの精気が収まっていることが不思議なくらいだった。
喉の奥が乾く。
もっと近くで感じてみたい。
触れたら、どんな精気なのだろう。
そんな考えが自然に浮かんで、リオは戸惑った。
怖いと思っている相手なのに。
淫魔としての身体は、まるで別の判断をしている。
「リオ」
「……はい」
教官に呼ばれ、我に返った。
「どうした」
「すみません。何でもありません」
慌てて視線を戻す。
初対面の相手をじっと見てしまった。
しかも相手は騎士団長だ。
失礼だったかもしれない。
カイルドを見ると、特に気にした様子はなかった。
「まず簡易適性検査を行います」
教官が鞄から測定器を取り出した。
手のひらより一回り大きな透明の板に、細かな魔法陣が刻まれている。
淫魔と提供者の精気の性質が、どの程度適合するか。
本格的な提供を行う前に、それを調べるためのものだ。
「団長はこちらへ。リオは反対側に手を置け」
「はい」
リオは指定された場所に手を載せた。
向かい側から、カイルドも手を置く。
測定器を挟んでいるだけで、直接触れてはいない。
それでも近い。
改めて向かい合うと、体格差がよく分かった。
「始めるぞ」
教官が測定器を作動させる。
魔法陣が淡く光った。
リオの指先から魔力が吸い上げられていく。
同時に、反対側からカイルドの精気が流れ込んできた。
「……っ」
指先がわずかに震えた。
先ほど遠くから感じたものとは比べものにならない。
豊かで、濃い。
それなのに、不思議なほど馴染む。
適性検査はこれまでにも何度も受けている。
精気には人それぞれ癖がある。
温度や重さのようなものが微妙に違い、相性の悪い相手なら、測定器越しのわずかな接触でも違和感を覚えることがある。
カイルドには、それがなかった。
流れ込んできた精気を、身体が何の抵抗もなく受け入れている。
むしろ心地いい。
もう少し。
そんな感覚が浮かんで、リオは自分で驚いた。
まだ測定しているだけなのに。
やがて魔法陣の光が強くなった。
中央に数字が浮かび上がる。
教官が表示を確認した。
「……」
何も言わない。
リオは教官を見る。
眉間に皺が寄っていた。
「先生?」
呼びかけても、教官は測定器を見たままだ。
嫌な予感がした。
「何か問題がありましたか」
「……いや」
教官が測定器を持ち上げる。
表示を確かめ、魔法陣そのものにも目をやった。
「故障ですか?」
「分からん」
分からない。
教官がそんな答え方をするのは珍しかった。
リオも表示を覗き込む。
そこに浮かんでいた数字を見て、目を疑った。
【適合率 100%】
「……え?」
思わず小さな声が漏れた。
見間違いかと思った。
けれど、何度見ても数字は変わらない。
「百……?」
「ああ」
教官もまだ信じられないようだった。
適合率は四十パーセント以上あれば、精気提供に大きな支障はないとされている。
五十、六十と上がれば、かなり相性がいい。
七十を超える組み合わせは珍しく、八十ともなれば学校の授業で過去の事例として紹介されるほどだ。
百パーセント。
リオはそんな数字を見たことがなかった。
実例として聞いたことすらない。
「……百パーセントなんて、あるんですか」
「理論上はある」
教官が答える。
「理論上……」
「私も実際に見たのは初めてだ」
それでは、ほとんど幻みたいな数字ではないか。
リオはもう一度表示を見る。
やはり百と書いてある。
「念のため、もう一度測る」
教官が測定器を初期化した。
「団長、よろしいでしょうか」
「構わない」
カイルドは驚いているのかいないのか、表情からは分からない。
もう一度、二人で測定器へ手を置く。
光が走る。
先ほどと同じように、カイルドの精気を感じた。
やはり心地いい。
そして数秒後。
【適合率 100%】
同じ数字が浮かんだ。
教官が黙り込む。
リオも何も言えなかった。
「……故障ではなさそうだな」
やがて教官が呟いた。
リオは表示を見つめた。
自分が測定を受けるときは、いつも悪い結果ばかりだった。
魅了魔法は落第点。
誘引香も弱い。
淫紋も薄い。
精気充足率は卒業基準に届かない。
努力できる座学や実技ならどうにかなる。
けれど、生まれ持った淫魔としての資質を測られるたび、自分は足りないのだと思い知らされてきた。
だから、この数字を自分の結果として見ていることが不思議だった。
「俺でも……こんなに相性のいい人がいるんですね」
口にしてから、少し恥ずかしくなった。
教官がこちらを見る。
「相性は一人で決まるものじゃない。お前と団長の精気の性質が、それだけ噛み合っているということだ」
「……はい」
リオは頷いた。
嬉しかった。
声を上げるほどではない。
けれど、胸の奥にじわじわと温かいものが広がっていく。
今まで、淫魔として自分に向いているものなんてないと思っていた。
少なくとも、学校の成績を見る限りでは。
でも。
リオは顔を上げた。
カイルドと目が合う。
やはり少し怖くて、背筋が伸びた。
「改めて、よろしくお願いします」
「ああ」
短い返事だった。
それでも最初に聞いたときほど怖く感じなかった。
リオはもう一度、測定器を見る。
百パーセント。
見たこともない数字が、まだそこに残っている。
この人となら。
今度こそ、卒業できるかもしれない。
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