9 / 19

第9章 いい匂い

 翌朝、学校へ着いて教室へ入った途端だった。 「リオ、なんか今日すっげえいい匂いする!」 「え?」  鞄を机へ置くより先に、隣の席の淫魔が顔を寄せてきた。 「何これ。めちゃくちゃいい匂い」 「近い近い」  肩を押して離そうとすると、反対側から別の淫魔まで寄ってくる。 「ほんとだ。甘いっていうか……なんだろ。すごい濃い」 「そんなに?」 「するする。昨日、提供受けた?」 「あ……うん」  昨日の夜、カイルドから精気を受け取った。  言われてみれば、まだ身体の奥にはその名残がある。  けれど、自分では匂いまではよく分からなかった。  提供者の精気には、それぞれ固有の香りがある。  人間にはほとんど分からない程度のものだが、淫魔は精気に敏感だ。  提供を受けたあとは、その香りがしばらく身体に残る。  受け取った量が多ければ、それだけ強く残ることもあるらしい。 「誰から?」 「研修先の人」 「だから誰?」 「別に誰でもいいだろ」 「なんで隠すんだよ」 「隠してないって」  単に、わざわざ言うほどのことでもないと思っていただけだ。  リオが椅子へ座ると、二人もようやく離れていった。 「でもいいなあ、その匂い」 「精気も美味そう」 「匂いでそこまで分かる?」 「なんとなく」 「適当じゃん」  くだらない話をしていると、少し離れた席から声がした。 「何の話?」  振り向く。  声をかけてきたのは、クラスでも特に成績のいい淫魔だった。  魅了も得意。  誘引香も強い。  淫紋も濃く、実技の成績もいつも上位。  教官から褒められているところは何度も見たが、叱られているところはほとんど見たことがない。 「リオから、すっげえいい匂いするんだよ」 「へえ」  その淫魔がこちらへやってくる。 「嗅いでいい?」 「もう勝手にして」  朝から何人に嗅がれるんだ。  半分諦めながらじっとしていると、相手がリオの肩口へ少しだけ顔を寄せた。  ほんの一瞬。 「あ」  顔が上がる。 「これ、カイルド様じゃん」  リオは瞬きをした。 「……分かるの?」 「うん」  あっさり頷かれる。 「前に一回、提供してもらったことあるから」 「え」  思わず声が出た。 「提供所で?」 「そうそう。結構前だけど」  さっきまでリオを嗅いでいた淫魔が目を丸くした。 「カイルド様って、騎士団長の?」 「そう」 「え、じゃあリオの研修先って騎士団長なの!?」 「声でかいって」 「なんで言わなかったんだよ!」 「別に言う必要ないだろ」 「あるだろ!」  周囲までざわつき始める。  リオは机に肘をつき、額を押さえた。  こうなるから言いたくなかったのだ。 「いいなあ」  成績のいい淫魔が、懐かしそうに笑った。 「俺もまた当たりたい」  リオは顔を上げた。  興味津々に他の淫魔が尋ねる。 「そんなによかったの?」 「よかったよ」 「へえ」 「まず身体がすごい」 「身体?」 「めちゃくちゃ鍛えてるじゃん。肩も腕もすごいし、腹も硬いし」  楽しそうに身振りまでつける。 「あの筋肉、ほんとたまらなかった」 「うわ、やばいな!」  知っている。  カイルドは毎日鍛えている。  服を着ていても体格がいいことは分かるが、脱げばもっとはっきりする。  肩も。  腕も。  腹も。  それより下も全部、知っている。 「あと精気もすごかった」  相手はそのまま続けた。 「俺、途中でもうお腹いっぱいになっちゃったもん」  周囲から驚きの声が上がる。 「すげえ」 「さすが騎士団長」 「しかも美味しいんだよ。あれは人気出るって」 「またもらいたい?」 「そりゃもらいたい」  即答だった。  周りが笑う。  リオも一緒になって笑った。  けれど。  なんとなく、さっきまでと同じ気分ではなくなっていた。      ◇  授業が始まった。  教官が前で話している。  リオも教科書を開き、ノートを取る。  けれど、時々どうでもいいことが頭へ浮かんだ。  ――あの筋肉、ほんとたまらなかった。 「……」  ペン先が止まる。  別に、何もおかしくない。  カイルドが以前から提供所を利用していることは知っている。  一人では受け取りきれないから、複数の淫魔を相手にすることもある。  本人から聞いていた。  だから、同じ学校にカイルドから精気をもらったことのある淫魔がいても、不思議ではない。  ないのだが。  リオは斜め前の席を見た。  さっきの淫魔が、教官の質問に手を挙げる。  指名されると、迷うことなく答えた。 「正解」  教官が頷く。  やっぱり優秀だ。  魅了も使える。  誘引香も強い。  淫紋も濃い。  実技だって上手い。  自分より、ずっとちゃんとした淫魔だった。 「……」  なんだか少し落ち込んだ。  理由は自分でもよく分からない。  別に、あいつが悪いわけではない。  嫌なことを言われたわけでもない。  むしろ普段から普通に話す相手だ。  なのに。  カイルドの身体に触ったことがある。  カイルドから精気をもらったことがある。  またもらいたいと思っている。  そう考えると、なんとなく面白くなかった。  リオは頬杖をついた。  自分よりずっと優秀な淫魔なのも、なんとなく面白くない。  教科書へ視線を戻す。  数行読んだ。  全然頭に入ってこない。 「……はあ」  小さく息を吐いた。  もっと頑張ろう。  とりあえず、それしか思いつかなかった。      ◇  放課後。  リオはまっすぐ寮へ帰らず、実技棟へ向かった。  一階の奥には、生徒向けの購買がある。  教科書や筆記用具だけではない。  実習用のローション。  香油。  魔力測定器。  淫紋の保護剤。  それから、実技練習に使う大小さまざまな淫具。  リオは棚の前に立った。 「……」  普段使っているものと同じ型を見つける。  手に取ってみた。  見慣れた大きさだ。  これまで家で練習するときは、だいたいこれを使っていた。  けれど。  リオはそれを棚へ戻した。  一つ隣を見る。  少し太い。  その隣。  さらに大きい。 「……これくらい?」  手に取って眺める。  少し迷った。  カイルドを思い出す。 「……」  戻した。  そして、その隣を取った。 「こっちかな」  さすがに店頭には見本しか置かれていない大きさだった。  欲しい場合は注文票へ商品番号を書き、後日受け取ることになっている。  リオはカウンター横から注文票を一枚取った。  商品番号を書く。  一度ペンを止める。  もう一度棚を見る。 「……」  少し考えて。  今書いた番号を二重線で消した。  その下へ、さらに一つ上の番号を書き直す。 「よし」  これなら、練習になるだろう。  注文票を持って、リオは満足げにカウンターへ向かった。

ともだちにシェアしよう!