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第1話 渡す相手

午後四時を過ぎても、ガラス扉の向こうには春の明るさが残っていた。 音楽や映像、研究開発、収録の各フロアを持つアトラボでは、この時間になっても人の出入りが続いている。 真壁修司は一階受付脇で来訪記録を確認していた。 黒に近い濃紺のジャケットと同色のパンツ。胸元のIDと、耳元の小型インカムだけが仕事中の装備を示している。 昼から続いていた人の出入りが落ち着いたところで、真壁は端末を閉じた。 自動扉が開く。 顔を上げると、澄川律が入ってきた。 いつもの黒い楽器ケースはない。片手に小さな紙袋だけを下げている。 「こんにちは」 「こんにちは。今日はお仕事ですか」 「違います」 予定にはない来訪だったが、最近では珍しくない。仕事がなくても、澄川は凪隼人を探してここへ来る。 受付前まで来ると、そのまま真壁を見た。 「凪さん、います?」 「現在ロンドンです」 澄川の足が止まる。 「ロンドン?」 「一昨日からです。一週間ほどの予定だと聞いています」 澄川は手元へ視線を落とした。 紙袋の口から、小さな透明の包みが覗いている。 「差し入れですか」 「はい」 「凪さんへ?」 「そうです」 返事をしてからも、澄川は紙袋を見ていた。 「これ、あんまり日持ちしないんですよね」 「生ものですか」 「焼き菓子です。無添加なので」 持ち帰るには少し量があるらしい。 真壁も紙袋へ目を落とした。 これまで澄川が持ってきたものは、茎わかめや干し梅だった。今日は袋の形からして違う。 「珍しいですね」 「凪さん、甘いもの好きだって最近知ったので」 「それで作ったんですか」 「はい」 澄川は簡単に答えた。 作ったことより、渡せないことの方が問題らしい。 「帰国してから改めた方がよさそうですね」 「そうですよね」 真壁が端末へ戻ろうとしたところで、また名前を呼ばれた。 「真壁さん」 「はい」 「甘いもの食べます?」 視線を上げると、澄川はもう紙袋をこちらへ向けていた。 「私ですか」 「俺一人だと多いので」 「ご自身で作ったものですよね」 「また作れます」 話の着地点が早い。 真壁は差し出された袋と澄川を見比べた。 「本当にいただいていいんですか」 「凪さんが帰る頃には味落ちるので」 それなら断る理由もない。 手を伸ばすと、紙袋は見た目より少し重かった。 「ありがとうございます」 「いえ」 澄川の視線が、袋を受け取った真壁の手から腕へ上がり、そのまま顔まで来る。 「真壁さん、お腹丈夫そうですよね」 真壁は一度黙った。 「毒味ですか」 「してくれるんですか」 澄川は真顔だった。 「……そういう意味ではありません」 「違うんですか」 「違います」 「じゃあ普通に食べてください」 「そのつもりです」 澄川が納得したように頷く。 礼儀がないわけではない。受け答えも丁寧で、必要なことはきちんと聞く。 ただ、ときどき会話だけが本人より先へ進む。 「おいしかったら教えてください」 「分かりました」 「お腹も」 「そちらの報告はしません」 澄川が笑った。 真壁は、ステージに立つ澄川をまだ知らない。 今、目の前にある笑い方だけが妙に素直だった。 「じゃあ、帰ります」 「お気をつけて」 澄川は自動扉を抜け、春の夕方へ出ていった。 真壁は紙袋を受付脇へ置いた。 中には形の違う焼き菓子が、いくつか個包装されている。店で買ったものではないことだけは分かる。 奥から同じ制服のセキュリティスタッフが戻ってきて、真壁の横にある紙袋を見る。 「差し入れですか」 真壁は袋の口を閉じた。 「預かりものではありません」 言ってから、手が止まる。 これまで澄川が持ってきたものは、凪へ渡すためのものだった。 今日も、最初はそうだった。 真壁は紙袋を持ち直した。 休憩まで、あと少しだった。

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