27 / 27
第27話 正式に
数日後、都内でのイベントを終えた澄川律は、すぐには建物を出られずにいた。
楽屋口の外へ集まった人数が、事前の想定を越えていたらしい。
スタッフが車を回す位置を変更し、建物側のセキュリティスタッフも出口を一つ閉じる。控室の扉は何度か開き、そのたびに外の状況が短く伝えられた。
澄川はソファへ座ったまま、テーブルのペットボトルを手に取る。
「そんなにいます?」
少し驚いた声だったが、嫌そうではない。
事務所の担当者は手元の端末から顔を上げなかった。
「最近、増え方が早いです」
「いいことじゃないですか」
「悪いとは言ってません」
「じゃあ大丈夫です」
そこでようやく、担当者が澄川を見る。
「大丈夫じゃないから話してます」
澄川は蓋へ掛けていた指を止めた。
外で騒ぎが起きているわけではない。危険物が見つかったわけでも、誰かが無理に建物へ入ろうとしているわけでもなかった。
ただ、人が増えた。
写真を撮る人も、名前を呼ぶ人も、出てくる時間を待つ人もいる。これまでならスタッフ数人で流せていたものが、今日はそれだけでは足りない。
担当者が画面を操作する。
「次から、移動警備を増やします。案件によっては身辺側も入れます」
「ずっとですか」
「ライブ、イベント、撮影。移動が多い日もですね」
澄川はボトルを膝の上へ置いた。
「分かりました」
「抵抗ないんですね」
「ないです」
返事は早かった。
「やれること増えるなら、その方がいいです」
担当者が息を吐く。
「見られるの、怖くないですか」
澄川は少し首を傾げた。
「何がです?」
「人が増えることです」
窓のない控室にいても、外にまだ人が残っていることは分かる。
今日の映像も夜には切り抜かれ、明日には別の場所で流れるかもしれない。街にはすでに桂木有が撮った写真が出ていて、大型モニターにも自分の顔が映っている。
初めてそれを見た時、澄川は足を止めた。
怖かったからではない。
自分の音が、自分の知らないところまで届いている。そのことが嬉しかった。
「俺、嬉しいです」
担当者が顔を上げる。
「もっと増えたらいいと思ってます」
しばらくして、担当者は端末を伏せた。
「じゃあ、そのためにも警備入れます」
「はい」
「会社側と候補を調整します。移動だけじゃなく、現場によっては対象者のすぐ近くに付く形になります」
澄川は少し考える。
浮かんだ顔が一人いた。
「真壁さんでもいいですか?」
「アトラボの?」
「はい」
「知ってる人の方が安心ですか」
「それもあります」
澄川は少しだけ言葉を選ぶ。
「仕事も分かってる人なので」
担当者は頷いた。
「真壁さんの所属、東央セキュリティサービスでしたよね」
「たぶん」
「国内でも身辺警護まで扱ってる会社です。確認はできます。ただ、勤務も適性も契約もあるので、希望通りになるとは限りません」
「分かってます」
「別の人になっても?」
「行きます」
迷いはなかった。
真壁がいなければやめるという話ではない。
「でも、選べるなら真壁さんがいいです」
担当者はそれ以上聞かなかった。
少しして、外の導線が整ったと連絡が入る。
控室を出る前に、澄川は上着を手に取った。
扉の向こうからは、まだ自分の名前を呼ぶ声が聞こえている。
先にセキュリティスタッフが出る。
廊下の先、車両位置、周囲の動きを確認してから、澄川へ合図が来た。
澄川もそのあとへ続く。
人が増えたからといって、止まりたいとは思わなかった。
*
その数日後、真壁修司はアトラボ地下の警備室で、東央セキュリティサービス株式会社から届いた案件資料を開いていた。
澄川律の身辺警護。
単発ではなく、今後も複数の現場で発生する可能性がある。
イベント、撮影、ライブ、移動。
館内警備とは違う。
対象者の近くに付き、建物の外へ出てからも周囲を見続ける。出入口、車両、人の流れ、立ち止まる者、近づく者。必要なら進路を変え、対象者へ触れてでもその位置を動かす。
真壁は資料を最後まで読んだ。
アトラボに立つ時は、建物全体を見る。誰が入り、どこが詰まり、どの導線を空けるか。
身辺警護では、見る範囲が狭くなる代わりに深くなる。対象者のすぐ近くで、その人を中心に周囲を読む。
真壁にとっては、初めての仕事ではなかった。
視線を上げれば、警備室のモニターに地下導線が映っている。
それを見ながら、真壁は一度だけ椅子の背へ身体を預けた。
澄川が自分を希望したことも聞いている。
理由を確認するつもりはなかった。希望があっても、配置を決めるのは会社だ。
仕事になれば、それだけだった。
午後、私用の端末が震えた。
《今日います?》
《います》
《夕方、Ridgelineの打ち合わせで行きます》
少しして、
《その時、話したいです》
と続く。
《分かりました》
*
夕方、澄川はいつもの地下導線から入ってきた。
真壁は警備受付で入館処理を進める。
端末へ必要事項を入力している間も、澄川はその場を離れなかった。
「聞きました?」
「はい」
「嫌でした?」
入力を終え、真壁は顔を上げた。
「嫌ではありません」
澄川の肩から、わずかに力が抜ける。
「じゃあよかったです」
「ただし」
真壁は端末を閉じた。
「私だからという理由で決めることではありません」
「分かってます」
「業務です」
「はい」
「身辺警護に入る時は、今までとは違います」
澄川が少し笑う。
「どのくらい?」
「必要な距離を取ります」
「徹底するんですね」
「仕事ですから」
澄川は一度だけ視線を落とした。
嫌そうではない。
むしろ、その違いを見てみたいようだった。
「それ、ちょっと見てみたいです」
「何をですか」
「アトラボ以外で仕事してる真壁さん」
「見学ではありません」
「知ってます」
真壁は入館証を渡す。
「配置が正式に決まれば、会社から連絡が入ります」
「はい」
「私でなくても、警備は受けてください」
今度は澄川がすぐに答えた。
「もちろんです」
真壁はその返事を聞いてから、入館証から手を離した。
澄川は誰かがいなければ進めない人ではない。
そこは最初から変わっていなかった。
「でも」
澄川が続ける。
「真壁さんだったら嬉しいです」
返事を求めている言い方ではなかった。
ちょうどその時、警備受付の端末に新しい通知が入る。
所属会社からだった。
真壁は内容を開いた。
次回撮影案件。
対象者、澄川律。
身辺警護担当、真壁修司。
画面を見た瞬間、意識が切り替わる。
撮影現場までの導線。
搬入口。
車両の位置。
現場側の警備配置。
澄川の入り時間と退出予定。
まず確認すべき項目が、順番に頭へ並んだ。
「決まりました」
澄川が顔を上げる。
「何がです?」
真壁も画面から視線を上げた。
「次の案件です。私が入ります」
澄川の目が明るくなる。
それでも近づいてはこなかった。
今いるのは警備受付で、真壁は勤務中だった。
「じゃあ」
澄川は軽く頭を下げる。
「よろしくお願いします」
仕事の言葉だった。
真壁も同じように返す。
「こちらこそ」
次に会う時、真壁が近くにいる理由は恋人だからではない。
東央セキュリティサービスのセキュリティスタッフとして、澄川のすぐそばに立つ。
ともだちにシェアしよう!

