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第34話 行けるところまで
翌週、澄川律は事務所の会議室にいた。
テーブルの上には、国内の予定表と海外案件の資料が並んでいる。
ロンドン、ベルリン、パリ。
一度行った都市の横に、今度は別の名前が増えていた。
担当者がページをめくる。
「今回は前より長くなります」
澄川は資料へ目を落としたまま頷いた。
国内ではライブ、収録、広告、配信企画が増えている。その合間へ海外のライブと取材、共同制作まで入る予定だった。
以前のような短いプロモーションではない。
滞在日数も長く、都市間の移動もある。帰国後にはすでに次の撮影が入り、その先にも国内の予定が続いている。
「正直、かなり詰まります」
「分かってます」
「少し落としてもいいと思っています」
澄川が顔を上げる。
「何をですか?」
「海外です」
担当者は国内の予定表へ指を置いた。
「今、こっちも伸びてるでしょう。だから、どちらかに寄せてもいい。海外は次でも」
澄川は新しく増えた都市名を見る。
次がいつ来るのかは分からない。
今、自分の音が外へ届き始めている。その流れの中に、まだ行ったことのない場所が増えている。
「次って、いつですか?」
担当者の手が止まった。
「状況次第です」
「じゃあ、今行きたいです」
返事はすぐに出た。
「かなりきついですよ」
「それでもです」
澄川は資料を閉じない。
「行けるなら、今行きたいです」
「休み、減りますよ」
「分かってます」
「体調管理も今まで以上に必要になります」
「それも」
澄川は笑った。
「最近、結構見られてるので」
担当者も笑う。
「警備の話?」
「それもです」
真壁の顔が浮かんだ。
人が増えても、仕事が増えても、進むこと自体を止めない人だった。
担当者が別の資料を重ねる。
「警備体制も向こうと調整します。身辺側は国内も海外も継続です」
「はい」
「前と同じ人になるとは限りません」
澄川は頷いた。
真壁でなければ行かないわけではない。
「でも、真壁さんだったら嬉しいです」
担当者はそれ以上聞かなかった。
「その件は会社同士で調整します」
「お願いします」
澄川はもう一度、新しい都市名へ目を落とす。
まだ決まっていない場所まで含めて、先の予定が少しずつ広がっていた。
「次、どこです?」
担当者が笑う。
「まだ決定じゃないです」
「決まったら教えてください」
澄川はようやく資料を閉じた。
*
その日の夜、澄川は真壁修司の部屋にいた。
ソファへ座ると、真壁が水を置く。
「何かありましたか?」
「海外、増えるかもしれないです」
真壁は向かいへ座った。
「前より長く?」
「はい。都市も増えます」
「行くんですね」
「行きます」
返事は迷わなかった。
澄川はグラスをテーブルへ戻す。
「寂しくないですか?」
「寂しくないとは言いません」
澄川が顔を上げる。
その言葉の方が、引き止められるより嬉しかった。
「でも行けって言うんですね」
「あなたが行きたいのでしょう」
「はい」
「なら、行ってください」
澄川は背もたれへ身体を預けた。
「真壁さんって、たまに冷たいですよね」
「そうですか?」
「恋人なら、もう少し引き止めたりしません?」
真壁がこちらを見る。
「引き止めてほしいですか?」
澄川は少し考えた。
行かないでください、と言われるところを想像する。
たぶん困る。
「……違いますね」
「でしょうね」
「でも、寂しいって言ってくれるのは嬉しいです」
澄川は身体を寄せた。
肩が触れる。
そのまま、警備の話もした。
向こうでは別の担当になる可能性があること。自分は、それでも行くつもりでいること。
そこまで話してから、本音だけを残す。
「でも真壁さんだったら嬉しいです」
真壁の目元がわずかに緩んだ。
「それは会社が決めます」
「知ってます」
「希望だけで決まるものではありません」
「それも知ってます」
澄川はそのまま肩へ頭を預ける。
「でも、言うくらいいいでしょう?」
澄川の手へ、真壁の手が重なった。
「いいですよ」
「じゃあ言います」
「はい」
「一緒に行けたら嬉しいです」
真壁の指が絡む。
「決まったら、仕事として行きます」
「そこはちゃんとしてる」
「必要ですから」
澄川は笑った。
*
正式な連絡が入ったのは、数日後だった。
真壁は所属会社の事務所で、次の配置資料に目を通していた。
国内の案件がいくつか並び、その先に澄川律の名前がある。
海外複数都市。
ライブ、取材、共同制作。
都市間移動もあり、国内案件より拘束時間は長い。
最後まで確認すると、向かいの担当者が口を開いた。
「今回はあなたで正式に決まりました」
「承知しました」
「先方からも、これまでの対応を踏まえて希望が出ています」
真壁が資料から顔を上げる。
「本人からですか?」
「事務所からです。本人の希望もあったとは聞いてます」
「そうですか」
それ以上は聞かなかった。
希望があったこと自体は嬉しい。
けれど、配置が決まったなら、今やることは別にある。
現地の会場、移動、滞在先、車両、動線。
確認するものはいくらでもあった。
「期間中、国内より拘束長いけど大丈夫?」
「問題ありません」
「じゃあ詳細詰めます」
「お願いします」
真壁は資料を閉じた。
*
同じ日の午後、澄川も収録前の控室で予定表を渡された。
海外滞在中の警備欄で視線が止まる。
担当者が言う。
「警備、決まりました」
「誰です?」
名前を聞いて、もう一度紙を見る。
「真壁さん?」
「うん」
そこに本当に名前がある。
自分から希望した。
けれど、決めるのは会社同士だと分かっていた。
真壁でなくても行くつもりだった。
それでも、名前を見れば嬉しい。
近くで別の資料を確認していたスタッフが笑う。
「よかったですね」
澄川も笑った。
「はい」
それ以上は言わなかった。
*
その夜、二人は真壁の部屋にいた。
玄関が閉まると、澄川は靴を脱ぎながら振り返る。
「聞きました?」
「はい」
「同行するんですよね?」
「します」
あまりにも仕事の声だった。
澄川は笑った。
「固くないです?」
「仕事の話ですから」
「今、仕事中じゃないでしょう」
真壁がこちらを見る。
上着を掛けてから、澄川の前へ戻ってきた。
「嬉しいですよ」
澄川の手が止まる。
「ほんとに?」
「はい」
「どのくらい?」
「測るんですか」
「聞きたいんです」
「毎日、会えるのは嬉しいです」
澄川は返事ができなかった。
そんな言い方をするとは思っていなかった。
「そういうこと言うんですね」
「嫌でしたか」
「逆です」
澄川は真壁のシャツへ指先を掛ける。
「かなり嬉しいです」
真壁がその手を見る。
「あなたは私じゃなくても行くのでしょう」
「行きます」
そこは迷わない。
「でも、一緒なら嬉しいです」
「それでいいと思います」
その言葉に、澄川も素直に頷いた。
どちらも、自分の仕事を相手のために止めるつもりはない。
だからこそ、一緒に行けることが嬉しかった。
リビングへ移る。
真壁が隣へ座ると、今度は最初から距離が近かった。
澄川がその肩へ寄る。
「向こうでも、勤務中は半歩離れるんですか?」
「必要なら」
「触らない?」
「必要がなければ」
「恋人なのに?」
真壁の眉がわずかに動く。
「向こうでも、仕事中は仕事です」
「知ってます」
澄川が笑う。
「確認しただけです」
真壁の手が澄川の手首へ軽く触れる。
澄川はさらに身体を寄せた。
「じゃあ勤務終わったら?」
真壁の腕が腰へ回る。
澄川が顔を上げる。
それだけで答えは分かった。
「それが答えですか?」
「分かるでしょう」
唇が触れる。
短く離れたあと、今度は澄川から近づいた。
二度目は少し長い。
離れても、身体はそのままだった。
真壁の手も背中に残っている。
澄川はその温度を感じながら、これから増えていく予定を思った。
国内も、海外も。
今より忙しくなる。
それでも、行ける場所が増えるなら行きたい。
「向こうでも、俺たぶん止まらないですよ」
真壁の手は背中に残っている。
「分かっています」
「仕事増えても行きます」
「はい」
澄川は少しだけ顔を上げた。
「行けるところまで行きたいです」
背中に置かれていた手が、ゆっくり動いた。
「では、行けるようにします」
澄川が目を上げる。
「それ、警備として?」
「はい」
真壁の腕は、澄川の背中へ回ったままだった。
「恋人としても」
澄川は自分から抱きついた。
真壁の腕もすぐに背中へ回る。
今度は、澄川が離れるまでそのまま抱いていた。
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