60 / 60

第60話 半歩後ろ

正式発表から数日後、澄川は最初の海外収録へ出た。 真壁修司がその姿を見たのは、本人から送られてきた写真ではなかった。 昼の休憩中、警備室で遅い昼食を取っていると、スマートフォンに通知が入る。 澄川のプロジェクト公式アカウントだった。 現地へ到着した出演者とスタッフの様子をまとめた短い映像が公開されている。 真壁は画面を開いた。 空港の到着ロビー。 人の流れの中を、澄川がスタッフと歩いている。 キャップを深く被り、肩にはバッグ。 片手にはスマートフォンを持っていた。 その少し後ろに、黒いスーツの男がいる。 ASTERIONの警護担当だった。 かつて自分も身につけていた制服を、真壁が見間違えるはずはない。 澄川へ寄りすぎず、周囲から離れすぎない。進行方向を見ながら、横から近づく人間も視界へ入れている。 車両へ近づく前には一度前へ出て、乗車位置を確認した。 澄川がスタッフの声に振り返れば、警護担当も動きを止める。急かすことなく、周囲への注意も怠らない。 近接警護として、不自然なところはなかった。 真壁は映像を最後まで見た。 一度画面を閉じかけて、もう一度最初へ戻す。 今度は澄川を見る。 表情はいつも通りだった。 長い移動の直後にしては顔色も悪くない。 歩く速さも一定で、スタッフと話しながらそのまま車へ乗っていく。 問題はなかった。 むしろ、よく見られている。 それでいい。 真壁は画面を閉じた。 「澄川さんですか?」 向かいにいた神谷が聞く。 「はい」 「着いたんですね」 「そのようです」 神谷が自分のスマートフォンを見る。 「俺もあとで見よ」 真壁は昼食へ戻った。 休憩が終われば、午後は搬入口と外周の確認がある。 今日のアトラボに澄川の予定はない。 それも最近は珍しくなくなっていた。      * 海外へ出て三日目、また短い映像が公開された。 今度は現地スタジオだった。 真壁が見たのは帰宅してからだ。 リビングで夕食を終え、片づけまで済ませたあと、スマートフォンを開いた。 ガラスの向こうで澄川がマイクの前に立っている。 音はほとんど入っていない。 紫月の姿も短く映った。 現地スタッフと何かを確認している。 御影は映っていなかった。 真壁はそこへ意識が向いた自分に気づいた。 探していたわけではない。 ただ、名前を知っている人間が画面の中にいるかどうかを、自然に確認しただけだった。 そう思って、続きを見る。 映像の後半で、夜の建物から澄川が出てくる。 ASTERIONの担当者が先に外へ出た。 周囲を確認してから、澄川が続く。 後ろにも一人いる。 空港とは配置が違った。 場所に合わせて変えている。 澄川が建物を出たところで、スタッフの声に反応して少し振り返った。 袖が動く。 腕時計が一瞬だけ照明を拾った。 前に家で見たものだった。 御影から貰った時計。 元彼から貰ったもの。 映像の中では、それ以上の意味はない。 澄川はすぐ前へ向き直り、車へ乗った。 真壁は映像を止めた。 警護に問題はない。 澄川の状態にも、画面から分かる範囲では気になるところはなかった。 以前なら、自分がそこにいた。 歩く速さを見る。 顔色を見る。 肩の高さを見る。 息が浅くなっていれば、次の予定を確認する。 必要なら声をかける。 今は、別の人間が同じように見ている。 しかも十分にできている。 真壁が見ても、安心できた。 そのことが少しだけ困った。 不安なら連絡できる。 危険に見えれば、確認する理由もある。 けれど、何もない。 澄川はきちんと守られている。 仕事も順調に進んでいるらしい。 それを望んでいたはずだった。 スマートフォンを伏せる。 リビングが静かになった。 防音室には灯りがない。 扉の横には、澄川が出発前に置いた小さな機材ケースが残っている。 ソファの端には薄手のパーカー。 洗面所には歯ブラシが二本あり、冷蔵庫には澄川が買った飲み物も入っている。 家の中だけを見れば、数日前と大きく変わらない。 本人だけがいない。 真壁は立ち上がり、キッチンへ向かった。 夕食はもう済んでいる。 それでも冷蔵庫を開けた時、明日の食事を二人分で考えかけた。 すぐに気づく。 澄川はまだ帰らない。 扉を閉めたところで、スマートフォンが震えた。 《今終わりました》 澄川だった。 真壁は時計を見る。 現地との時差を頭の中で合わせる。 《お疲れさまです》 少しして返ってくる。 《何してます?》 《片づけが終わったところです》 《ご飯食べました?》 《はい》 《一人分?》 真壁の指が止まった。 質問の意味を考えるほどではない。 《はい》 既読がつく。 少し間が空いた。 《そっか》 それだけ返ってくる。 真壁は画面を見た。 続きはなかった。 スマートフォンを置き、キッチンの照明を消そうとしたところで、もう一度通知が入る。 《帰ったら俺の分もお願いします》 真壁の手が止まる。 帰国日は決まっている。 同じ家へ戻ることも分かっている。 大した言葉ではない。 それでも、その中にある「帰ったら」が残った。 《もちろんです》 送る。 今度はすぐに返事が来た。 《じゃあ頑張ります》 真壁は少しだけ笑った。 仕事の間、澄川の半歩後ろに立つのはもう自分ではない。 紫月や現地のスタッフ、名前も知らない警護担当者たちに囲まれながら、澄川は自分の仕事を進めている。 そこには御影も関わっている。 真壁から見えないところで、澄川の仕事は広がっていく。 それでいい。 全部を見る必要はない。 全部を知る必要もない。 真壁はキッチンの照明を消した。 帰ってきた時に、ここにいればいい。 今は、それで足りていた。

ともだちにシェアしよう!