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第59話 知らない時間
澄川の新しいプロジェクトが正式に発表されたのは、それから数日後だった。
真壁修司が知ったのは、昼の休憩に入ってからだ。
警備室の奥で記録を確認していると、向かいに座っていた神谷がスマートフォンから顔を上げた。
「出ましたね」
「何がですか」
「澄川さんのやつです」
神谷が差し出したスマートフォンを受け取る。
表示されていたのは、澄川律の公式アカウントから共有された記事だった。
新作音源の制作、映像企画、海外での収録とライブセッション。今後の展開に海外市場を含むことも書かれている。
数日前、家で聞いた話と大きくは変わらない。ただ、澄川の口から断片的に聞いていたものが、初めて外へ向けた形になっていた。
真壁は画面を下へ送った。
制作協力、流通、現地制作。
いくつかの企業名が並んでいる。
その中で、指が止まった。
御影グループ。
「そこ、大きいですよね」
神谷が画面を覗く。
「ええ。知っています」
「知ってるんですか?」
「以前、仕事で関わったことがあります」
「東央で?」
「いえ。ASTERIONにいた頃です」
神谷の目が少し大きくなる。
「御影さん本人と?」
「はい」
御影一成。
最後に会ってから、かなり時間が経っている。
海外での移動を含む警護だった。
予定変更が多く、一日に複数の場所を回ることも珍しくなかったが、警備側の判断を軽く扱う人間ではなかった。
経路を変える理由を説明すれば聞く。時間をずらす必要があれば、仕事側を調整できるところまで調整する。
必要な人員や車両を増やす時も、費用を削ることから話を始めない。
警護対象として覚えているのは、その程度だった。
仕事を任せる相手としては信用できる。
「じゃあ、澄川さんの仕事にも関わるんですね」
神谷が言った。
「そのようです」
「世間狭いですね」
「そうでしょうか」
真壁はスマートフォンを返した。
御影が今回のプロジェクトにどこまで関わるのかは分からないが、仕事の中で再びその名前を目にすることになった。
*
帰宅したのは、真壁の方が先だった。
最近はそれが珍しくなくなっている。玄関に澄川の靴はなく、防音室にも灯りはついていない。
真壁は着替えを済ませ、夕食の準備を始めた。
澄川から連絡が届いたのは、二十一時を少し過ぎた頃だった。
《今終わりました》
真壁が《お疲れさまです》と返すと、続けてメッセージが届いた。
《今から帰ります》
時計を確認してから、真壁は返信した。
《分かりました》
真壁は用意していた食事を温め、自分の分を先に済ませた。澄川の分は冷蔵庫へ入れておく。
澄川が帰宅したのは、それから一時間ほど経ってからだった。
「ただいまです」
「おかえりなさい」
リビングへ入ってきた澄川は、上着を脱ぎながら鞄を椅子へ置いた。
「今日、発表出ました」
「見ました」
「早いですね」
「神谷さんが見つけました」
「ああ。やっぱり」
澄川が笑った。
「神谷さん、そういうの早いですよね」
「私よりは」
「真壁さん、俺の公式ずっと見てるじゃないですか」
「必要なものは見ています」
「それ、便利な言葉ですね」
澄川はキッチンへ来た。
真壁が食事を温めている間に、冷蔵庫から水を出す。
その時、澄川の袖口が少し上がった。
見慣れない腕時計がある。
金属の光沢は控えめだったが、作りを見れば安いものではないことくらいは分かった。
澄川が視線に気づいた。
「これですか?」
自分の腕を見る。
「はい」
「今日これ貰いました」
「そうですか」
「御影さんに。俺が時間間違えるからって」
真壁の手が一度だけ止まった。
「御影さんに?」
「はい。今日も打ち合わせの時間、勘違いしてたんですよ」
「遅れたんですか?」
「間に合いました」
澄川が笑った。
真壁は時計を見た。
「ずいぶん良いものに見えますが」
「そうなんですか?」
「分からないんですか」
「時計詳しくないです」
澄川らしいと思った。
高価かどうかより、自分が時間を間違えないためのものとして受け取っている。
真壁は温めた皿をテーブルへ運んだ。
澄川もついてきて椅子へ座り、箸を取る。
「いただきます」
「どうぞ」
真壁も隣へ座った。
食事をしながら、澄川は今日あったことを少しずつ話した。
撮影場所の候補が増えたこと。海外側との確認が始まったこと。まだ決まっていない予定が多いこと。
御影の名前も、その中の一つとして普通に出てくる。
真壁は聞いていた。
仕事の話だった。
少なくとも、そう思っていた。
澄川が水を飲むと、袖口からまた時計が見えた。
真壁は少しだけ視線を落とした。
「以前、御影さんの警護についたことがあります」
澄川が顔を上げる。
「そうなんですか?」
「はい」
「どんな人でした?」
真壁は過去の仕事を思い返した。
「警備側の話を聞く方でした」
澄川が少し笑った。
「それだけですか」
「警護対象としては重要です」
「真壁さんに聞いた俺が悪かったです」
声にはまだ笑いが残っている。
真壁もそれ以上は足さなかった。
人柄を語るほど御影を知っているわけではない。私生活も知らない。
仕事で会い、仕事として守った。
その範囲なら判断できる。
澄川は少し食べてから、腕時計へ目を落とした。
「俺は結構知ってますけど」
真壁がそちらを見る。
「そうなんですか?」
「元彼なんです」
真壁の視線が止まった。
聞き間違えるような言葉ではなかった。
「御影さんが?」
「はい」
澄川は普通に頷いた。
「かなり前ですけど」
真壁はすぐには返せなかった。
目の前にいる澄川も、その沈黙を急かさない。
「そうなんですか」
ようやく出たのは、それだけだった。
「言ってませんでしたっけ」
「聞いていません」
「そっか」
澄川は少し考えた。
「話す機会なかったですもんね」
確かにそうだった。
澄川の過去について、すべて聞いたわけではない。
誰と付き合っていたのか。どれくらい続いたのか。どうして別れたのか。
必要がなければ、真壁から聞くこともなかった。今まで、それで困ったこともない。
「今も会うんですね」
自分から出た言葉に、真壁はわずかに意識を向けた。
聞くつもりで用意していた質問ではなかった。
澄川は気にした様子もない。
「仕事では会いますよ」
「そうですか」
「たまに普通にも会いますけど」
今度は真壁の返事が少し遅れた。
澄川がこちらを見る。
目が合った。
「気になります?」
真壁は少し考えた。
「少し」
答えると、澄川の眉がわずかに上がった。
「少しなんだ」
「どの程度を期待していますか」
「別に期待してないですけど」
声には笑いが混じっている。
真壁は時計へもう一度目を向けた。
御影から貰ったもの。
元彼から貰ったもの。
同じ腕時計なのに、さっきとは少し見え方が違った。
だからといって、外してほしいとは思わない。受け取るなと言う理由もなかった。
「その時計は」
「はい」
「本当に時間を間違えないためですか」
澄川が笑った。
「そこ疑います?」
「打ち合わせの時間を勘違いしただけで、高価な時計を渡す理由としては、少し大きいかと」
「御影さん、金銭感覚ちょっと違うんで」
「それは知っています」
真壁も仕事で見たことがある。
必要だと思えば、金額を理由に止めない。そこは昔から変わらないのかもしれなかった。
澄川が時計へ指を触れる。
「でも、変な意味ないですよ」
真壁はそちらを見る。
「聞いていません」
「顔に出てます」
「出ていますか」
「俺には分かります」
真壁は少しだけ息を吐いた。
「そうですか」
澄川が笑い、そのまま食事へ戻った。
真壁も何も言わなかった。
御影との過去を聞いたからといって、澄川の今が変わるわけではない。
澄川は今日も同じ家へ帰ってきて、今は隣で食事をしている。明日の朝になれば、おそらくまた防音室から出てくる。
それでも、自分の知らない時間が澄川にはある。
当然のことだった。
知り合う前の人生まで、自分のものになるわけではない。
ただ、その過去の一人が、今の仕事の中へもう一度入ってきた。
食事を終えた澄川が立ち上がると、真壁も空いた皿へ手を伸ばした。
「俺やります」
「疲れているでしょう」
「真壁さんも仕事してきたでしょ?」
澄川が皿を一枚取る。
袖がまた少し上がり、腕時計が見えた。
真壁は今度は何も言わなかった。
二人でキッチンへ入り、水を流しながら澄川が言った。
「明日も御影さん来るかもしれないです」
「そうですか」
「また何か貰ったら言います」
真壁は隣を見る。
「報告事項ではありません」
「でも気になるんでしょ?」
「少し」
澄川が笑った。
「分かりました」
真壁は洗った皿を受け取った。
澄川の腕で時計が光る。
知らない時間があった。
今も、自分の見えない場所で仕事が進んでいる。
それでも澄川は、その日の終わりにはここへ帰ってくる。
真壁は皿を棚へ戻した。
その事実だけは、今のところ何も変わっていなかった。
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