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第58話 広がる方へ
新しい家へ移ってから一か月も経たないうちに、澄川律の帰宅時間は少しずつ遅くなった。
毎日ではない。
夕食を一緒に取れる日もあれば、真壁修司が先に帰宅し、澄川の分だけ冷蔵庫へ残しておく日もある。
変わったのは、その割合だった。
その日も真壁が仕事を終えて家へ戻った時、玄関に澄川の靴はなかった。
照明をつけ、ジャケットを脱ぐ。
朝には開いていた防音室の扉も閉じたままで、中は暗い。
真壁は寝室で着替え、キッチンへ入った。
スマートフォンを確認すると、一時間ほど前に澄川から連絡が来ていた。
《今日遅くなります》
続けて、
《先食べててください》
時刻は二十時を過ぎていた。
《分かりました》
返信してから、冷蔵庫を開ける。
二人分を用意すること自体は変わらない。
帰宅時間が分からない日は、温め直せるものにする。それも最近は、考えなくても決まるようになっていた。
食事を終え、片づけまで済ませる。
二十二時を過ぎても玄関は静かなままだった。
真壁はリビングで翌日の予定を確認していた。
しばらくして、外で車の止まる音がした。
鍵が回る。
「ただいまです」
「おかえりなさい」
澄川が入ってきた。
肩には鞄。片手には薄い資料の入ったケースを持っている。
顔色は悪くない。
ただ、朝より目の動きが速かった。
疲れているというより、まだ頭の中が仕事から戻っていない顔だった。
「遅くなりました」
「聞いています」
澄川が靴を脱ぎながら笑う。
「ほんとに先食べました?」
「はい」
「よかった」
リビングへ入ると、そのまま鞄をソファ脇へ置いた。
真壁は立ち上がった。
「食べますか」
「食べます」
「温めます」
「ありがとうございます」
澄川もキッチンまでついてきた。
最近は帰宅してすぐ防音室へ入ることもあるが、今日は違うらしい。
真壁が冷蔵庫から皿を出している間、澄川はカウンターへ肘をついた。
「真壁さん」
「はい」
「今、新しい仕事が動いてるんです」
真壁は電子レンジへ皿を入れた。
「そうですか」
「反応薄いですね」
「まだ何も聞いていませんので」
「それもそうか」
澄川が少し笑う。
仕事の詳細をどこまで話すかは、澄川が決めればいい。真壁から無理に聞き出すことではなかった。
温め終えた皿をテーブルへ運ぶ。
澄川が座り、箸を取った。
「いただきます」
「どうぞ」
真壁は向かいではなく、その隣へ座った。
澄川はしばらく食べていたが、数口進んだところでまた話し始めた。
「たぶん、海外の仕事が増えます」
真壁は澄川を見る。
「たぶん?」
「まだ全部決まってないんです。国内で作って終わる仕事じゃないみたいで」
「そうですか」
「収録とか、ライブとか。そこまで行くかもしれないです」
言葉にするたび、澄川の顔が少しずつ明るくなる。
帰宅した時にはまだ仕事の疲れが残っていたが、今はその先にあるものを見ている顔だった。
「やりたいんですか」
澄川はすぐに頷いた。
「やりたいです」
迷いのない返事だった。
「なら、いい話ですね」
澄川の箸が一度止まった。
「それだけです?」
「ほかに何がありますか」
「もっと聞かれるかと思いました」
「何をですか」
「どこ行くとか、誰とやるとか」
「決まったら話してくれるでしょう」
澄川は少しだけ黙り、それから食事へ戻った。
「話しますよ」
「はい」
「聞いてくださいね」
「もちろんです」
今度は澄川が笑った。
食事が進む。
テーブルの端には、持ち帰った資料ケースが置かれていた。
以前より、澄川が持ち帰るものは増えている。
タブレットだけの日もあれば、今日のように紙の資料がある日もある。予定に並ぶ名前も増えた。
LAYER MUSIC。
外部スタジオ。
VERTEX。
真壁が知っているのは、その程度だった。
何を作り、誰とどこまで進んでいるのか、詳しいところまでは知らない。
それでも、澄川の仕事が広がっていることは生活の中から伝わってきた。
帰宅が遅くなる日が増え、仕事の連絡も多くなった。朝には防音室の扉の下から明かりが漏れ、家の中には澄川が持ち帰った仕事の資料が置かれるようになった。
「真壁さん」
呼ばれて、視線を戻した。
「はい」
「家、空ける日も増えると思います」
「そうでしょうね」
「海外まで行ったら、何日か帰らないし」
「はい」
澄川は箸を置いた。
「寂しいです?」
真壁は澄川を見た。
「寂しくなることはあると思います」
澄川の目が少し大きくなった。
「あるんだ」
「ありますよ」
「普通に言いますね」
「聞かれたので」
澄川は小さく笑った。
それでも、すぐには食事へ戻らなかった。
「じゃあ、行かない方がいいです?」
「どうしてそうなるんですか」
「寂しいなら」
真壁は身体を澄川の方へ向けた。
「寂しいことと、澄川さんに行ってほしくないことは別です」
澄川の表情が止まった。
「行きたいんでしょう」
「はい」
「なら、行けばいいです」
「簡単ですね」
「難しくする理由がありますか」
澄川はしばらく真壁を見ていた。
やがて視線を落とし、テーブルの上へ置いていた手を少し動かした。
真壁はその指先へ自分の手を重ねた。
「帰ってくる場所は変わらないでしょう」
澄川の指がわずかに動く。
「変わらないです」
「なら、それでいいです」
重ねた手を、今度は澄川の方から握った。
「帰ってきますよ」
「はい」
「何日空いても」
「分かっています」
「忙しくても」
「澄川さん」
「はい」
「そんなに念を押さなくても、帰ってくるのは分かっていますよ」
澄川が少し笑った。
「言っておきたかったんです」
「そうですか」
真壁は握られた手をそのままにした。
防音室には澄川の機材があり、洗面所には二人分のものが並んでいる。寝室のクローゼットにも澄川の服が収まり、暮らし始めてまだ一か月も経たないうちに、この家には二人の日常が馴染んでいた。
「ここは澄川さんの家でもあるでしょう」
澄川の目が少し動いた。
「そうですね」
「忘れないでください」
「忘れないですよ」
返事は早かった。
澄川の指が真壁の手を握り直した。
これから先、帰宅が遅くなる日も、家を空ける日も増えていく。
今まで真壁の目が届いていた場所から、澄川が離れる時間も長くなる。
寂しくないわけではない。
それでも、止めたいとは思わなかった。
目の前の澄川は、疲れていても楽しそうだった。
その顔を曇らせる理由はない。
澄川が食事へ戻る。
真壁も隣に座ったまま、空いたグラスへ水を足した。
「明日も遅いです?」
「たぶん」
「食事は?」
「帰って食べます」
「分かりました」
澄川が笑った。
「もう作る前提なんですね」
「帰ってくるのでしょう」
「帰りますよ」
真壁は頷いた。
その言葉だけは、今までと同じだった。
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