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【第6章 澄川プロジェクト】第57話 二人で暮らす場所
朝、真壁が目を覚ました時、隣はもう空いていた。
カーテンの隙間から入る光はまだ薄く、休日にしては早い時間だった。
時計を見てからリビングへ出ると、澄川の姿はない。代わりに、防音室の扉の下から細い明かりが漏れている。
新しい部屋へ引っ越してから、まだ一週間ほどしか経っていなかった。
以前より広いリビングとキッチン。寝室は一つにした。
そのほかに、澄川が声を出し、ギターを鳴らし、曲を作るための防音室がある。
もう一部屋は真壁のトレーニングルームになった。
マットを広げても家具へ当たらず、チューブや細かな器具も棚へまとめて置ける。澄川用に買った軽いチューブも、いつの間にかその中へ収まっていた。
真壁がコーヒーを淹れていると、防音室の扉が開いた。
澄川がノートを片手に出てくる。髪はまだ寝起きに近く、仕事をしていた顔と生活の顔がきれいに分かれていない。
「起きてたんですか」
「今です」
「音、聞こえました?」
「ほとんど」
澄川が振り返って扉を見る。
「やっぱりすごいですね、ここ」
「それが目的ですから」
「朝から声出しても怒られない」
「私には聞こえませんが、近所には配慮してください」
「分かってますよ」
澄川は笑いながらキッチンへ来た。
そのまま真壁のカップの隣へ、自分のカップを置く。
以前の部屋にも二つあった。
けれど今は、泊まりに来た日のためのものではない。
毎朝使うものだった。
「何か食べます?」
「昨日のスープあります?」
「あります」
「それとパン」
真壁が鍋を出している間に、澄川が皿を二枚並べる。
食器の位置を聞くことはもうない。
冷蔵庫を開けるのも、棚からパンを出すのも、自分の家のように迷わなかった。
実際、もう自分の家なのだろう。
二人で朝食を取ったあと、澄川は防音室へ戻らなかった。
代わりに、トレーニングルームの扉を開ける。
「今日これやっていいです?」
棚から軽いチューブを取った。
「もちろんです」
真壁も後から入る。
澄川がマットの上へ立ち、肩の高さまで腕を上げる。以前の部屋でも何度か見た動きだったが、今は周囲を気にせず腕を広げられる。
「右が少し上がっています」
「まだ?」
「前よりはいいです」
「じゃあ直してください」
澄川がこちらを見る。
真壁は横へ回り、肩の位置を確かめた。
「ここです」
「手でやって」
「自分で分かるでしょう」
「真壁さんがいた方が早いです」
そう言われれば断る理由もない。
真壁は澄川の肩へ手を置き、もう片方で腕の高さを直した。
「力を入れすぎています」
「どこ?」
「肩です」
「分かんない」
真壁は少し後ろへ回った。
肩甲骨の動きを見るために背中へ触れ、力が入っている場所を指で示す。
「ここを落として」
澄川が息を吐く。
少しだけ肩が下がった。
「そうです」
「これ?」
「はい」
もう一度腕を上げる。
今度はさっきより自然だった。
真壁はそのまま数回見る。
澄川が動くたび、肩から背中へ力が移る。
フォームを確認しているだけだった。
少なくとも最初は。
何度目かで、澄川が動きを止めた。
「真壁さん」
「はい」
「近いです」
真壁は自分の位置を確認した。
後ろから肩を見ていたので、たしかに距離は近い。
「見えないので」
「そうじゃなくて」
澄川が振り返る。
腕を上げたままだったので、真壁との間にほとんど隙間がなかった。
目が合う。
「今、トレーニングですよね」
「そうですが」
「ほんとに?」
真壁は答える前に、澄川の呼吸が少し変わったことに気づいた。
運動のせいだけではない。
分かってしまうのが困る。
「澄川さん」
「はい」
「続けますか」
澄川は少し考えるように真壁を見てから、チューブを緩めた。
「一回休憩します」
「そうですか」
「真壁さんは?」
「何がです?」
「続けられます?」
真壁は黙った。
澄川の目が少しだけ細くなる。
前なら、こういう時は澄川の方が先に笑った。
今は笑わない。
チューブを床へ置き、真壁のシャツへ指をかける。
引っ張るほどではなく、距離を確かめるように触れただけだった。
「新しい家、いいですね」
「急ですね」
「だって、こういうことしても誰も来ないし」
「前の部屋でも来ません」
「広いです」
「それはそうですね」
「防音室もあるし」
「はい」
「トレーニングする部屋もある」
澄川の指がシャツから離れない。
「寝室も一緒」
真壁は一度、澄川を見る。
「それは最初から決めたでしょう」
「決めました」
「では何ですか」
「幸せだなと思って」
軽い調子だった。
けれど、目は逸れなかった。
真壁は返事の代わりに、澄川の腰へ手を添えた。
さっきフォームを直すために触れた時とは違う。
澄川もそれが分かったらしい。
わずかに身体を寄せる。
「真壁さん」
「はい」
「今度はトレーニングじゃないですね」
「違います」
澄川が笑った。
そのまま真壁の胸へ額を寄せる。
少し前まで肩の位置を直していた手が、今は背中へ回っている。
「ここ、俺も使っていいんですよね」
「もう使っています」
「チューブじゃなくて」
真壁は澄川を見る。
「何に使うつもりですか」
「今考えてます」
「やめてください」
「嫌です?」
「そうは言っていません」
澄川が顔を上げた。
近い。
朝の光が入る部屋で、澄川は静かな顔をしている。
真壁が先に口づけた。
澄川は一瞬だけ目を見開き、すぐに真壁のシャツを掴んだ。
短く終えるつもりだった。
けれど離れると、澄川がそのまま追ってくる。
今度は真壁が止まった。
「澄川さん」
「はい」
「朝です」
「知ってます」
「このあと予定は?」
「ないです」
「私もありません」
「じゃあいいですね」
何がいいのかは聞かなかった。
もう分かっている。
真壁は澄川を抱き寄せた。
背中へ回した手の下で、さっきまでトレーニングしていた身体から少しずつ力が抜けていく。
澄川の腕も真壁の首へ回る。
新しい部屋には、まだ使い方の決まっていない場所がいくつもあった。
防音室は澄川が仕事をする場所になった。
トレーニングルームは真壁が身体を整える場所になった。
けれど、二人で暮らしていれば、それだけでは終わらないらしい。
しばらくして澄川が真壁の肩へ額を預けた。
「これ、トレーニングになってます?」
「なっていません」
「ですよね」
「最初から分かっていたでしょう」
「途中からです」
真壁は澄川の髪へ触れた。
「次はちゃんとやってください」
「真壁さんが近づかなければ」
「フォームを見るためです」
「はいはい」
笑いながら、澄川がまた少し近づく。
真壁も離さなかった。
同じ家の中に、それぞれのための部屋がある。
扉を閉めれば別々の時間を過ごせる。
それでも、出てくれば相手がいる。
朝になれば同じキッチンへ戻り、休みならこうして同じ部屋へ入り込む。
一緒に暮らすというのは、ずっと隣にいることではなかった。
離れていられる場所まで持ったまま、帰る先だけが同じになった。
澄川が床に置いたチューブへ目を向ける。
「続き、やります?」
真壁も同じものを見る。
「今日はもういいでしょう」
「珍しい」
「休みですから」
澄川が笑った。
その顔を見ながら、真壁はもう一度腰へ手を回した。
新しい家には、まだ二人で決めていない時間がたくさん残っていた。
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