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第56話 置く場所
朝、澄川は真壁の部屋でトレーニングチューブを使っていた。
以前、真壁が買った軽い方だ。
肩の高さまで腕を上げたところで、横から見ていた真壁が言う。
「少し右が上がっています」
「こっち?」
「もう少し下です」
澄川が位置を直す。
真壁は手を出さず、そのまま数回の動きを確認した。
終えると、澄川はチューブを緩めながら床の端へ目を向けた。真壁が普段使っているものもそこに置かれている。
前に見た時より、増えていた。
「増えましたね」
「何がですか」
「真壁さんの道具」
真壁もそちらを見る。
チューブだけではない。マットや細かなトレーニング用品、身体を整えるための道具が増え、棚の一段だけでは収まらなくなっている。
「そうですね」
真壁はそのまま部屋を見回した。
一人で暮らすには困らない広さだったし、澄川が来るようになってからもしばらくは問題なかった。
けれど今は、真壁のものだけではない。
澄川が置いていった服や予備の充電器、いつの間にか増えたマグカップ。特別に場所を決めたわけでもないのに、それぞれが自然と部屋の中へ残るようになっていた。
「少し手狭になってきました」
澄川が振り返る。
「引っ越すんですか」
「そのつもりです」
「もう決めてた?」
「考えていました」
真壁は棚の上にあった空の箱を畳んだ。
「トレーニング用品も増えましたし、もう少し広い方が使いやすいので」
澄川は巻いたチューブを手にしたまま、真壁を見る。
「どのくらい広いところ?」
「まだ決めていません」
畳んだ箱を脇へ置く。
「澄川さんの荷物も、置けるようにしますか」
澄川の手が止まる。
「俺の?」
「はい」
澄川はしばらく真壁を見ていた。
「……一緒に暮らすんですか?」
真壁は一度、部屋の中へ目を向ける。
「全部移す必要はありません。仕事をするなら、今の部屋は残した方がいいでしょう」
澄川の部屋には防音環境がある。
曲を作り、声を出し、ギターを鳴らす。夜遅くまで仕事になることもある以上、一緒に住むためにそれを失わせる理由はなかった。
「必要なものだけ、こちらへ持ってくればいいと思っています」
澄川はチューブを床へ置いた。
「真壁さん」
「はい」
「それ、一緒に暮らすって言いません?」
真壁は澄川を見る。
「そうなるんでしょうか」
「なるでしょう」
澄川が笑う。
真壁は否定しなかった。
すでに澄川のものはこの部屋にあり、仕事のあとに来ることも増えた。帰る時間を決めないまま夜を過ごし、朝になれば二人分のカップがテーブルに並ぶ。
部屋を広くするなら、その続きを入れられる場所にすればいい。
そう考えていただけだった。
「全部、持ってきたらダメですか?」
真壁が顔を上げる。
澄川は冗談を言っている顔ではなかった。
「全部ですか?」
「はい」
「仕事用の部屋も?」
「必要なら残します。でも、帰るのはこっちにしたいです」
真壁はしばらく澄川を見た。
急かす様子はない。ただ、自分はそうしたいのだと伝えて、その返事を待っている。
真壁はもう一度、今の部屋へ目を向けた。
一人で暮らしていた場所に、澄川のものが増えた。
次は、増えたあとで置き場所を作るのではなく、最初からその分まで考えればいい。
「構いませんが」
澄川が目を細める。
「構わないんだ」
「嫌なら言いません」
「そうですよね」
「ただ」
真壁は続けた。
「全部持ってくるなら、防音室のある物件を探します」
澄川が少し驚いた顔をした。
「そこまで?」
「必要でしょう」
「俺のために?」
「二人で住むなら、必要なものは二人分考えます」
澄川はすぐには返さなかった。
やがて床に置いたチューブを拾い、棚の空いているところへ戻す。真壁のものの隣へ、最初からそこが自分の場所だったように収まった。
「じゃあ、真壁さんの部屋も要りますね」
「私の?」
「トレーニングする部屋」
真壁は床に並んだ道具を見る。
「リビングでもできます」
「俺の防音室は作るのに?」
「用途が違います」
「真壁さんも使うでしょう」
澄川は棚を示した。
「これ、まだ増えるんじゃないですか」
否定できなかった。
マットを広げれば場所を取る。身体を動かすなら家具の位置も気にする必要があり、道具も今後減るとは思えない。
澄川が続ける。
「だったら最初から部屋にした方がいいですよ」
「澄川さんも使うつもりですか」
「使います」
返事が早かった。
真壁は澄川を見る。
「では、二人分ですね」
「俺のチューブも置けます?」
「もう置いているでしょう」
澄川が棚を見る。
軽いチューブは、真壁のものの隣に収まっている。
「ほんとだ」
今さら気づいたように言うので、真壁は少しだけ息を吐いた。
「探す時、俺も行きます」
「もちろんです」
「防音室も、トレーニングする部屋も見たい」
「使うのは二人ですから」
「寝室は?」
真壁が澄川を見る。
「必要でしょう」
「一つ?」
「二つ必要ですか?」
澄川が笑った。
「それなら一つでいいです」
「物件を見てから決めましょう」
「そこは決めないんだ」
「広さが分かりません」
「真壁さんだなあ」
笑いながら、澄川が真壁の隣へ来た。
肩が触れる。
少し前、蛍を見た夜と同じ距離だった。
あの時は、同じ景色を見るために並んだ。
今は、これから二人が帰る場所を考えている。
真壁は肩を離さなかった。
一人で使うには十分だった部屋が、いつの間にか狭くなっていた。
物が増えただけではない。
次に選ぶ場所は、最初から二人分になる。
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