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第55話 状態確認ではなく
帰宅した頃には、二人とも思っていた以上に疲れていた。
澄川は玄関で靴を脱ぐと、壁へ背を預けた。ステージに立っていた時間だけではなく、移動も待機も長かったらしい。真壁も一日中会場を歩き続け、勤務を離れたあとまで肩の奥に力が残っていた。
「先に風呂入りません?」
真壁が頷くと、澄川は壁から身体を離した。
「一緒に。状態確認してください」
その言い方がいつも通りだったので、真壁も深く考えなかった。
風呂では、先に澄川の肩と首を確かめた。一日動き続けた身体には疲れが残っていたが、温まるにつれて張りは少しずつ抜けていく。
途中から、澄川も真壁へ触れ返した。
肩から背中へ手が移る。
真壁が振り向くと、澄川は何も言わなかった。
気づいた時には、もういつもの状態確認ではなくなっていた。
*
寝室へ入ってから、澄川は妙に静かだった。
真壁がベッドへ腰を下ろすと、その前に立つ。
自分でシャツへ手をかけたところで、澄川の手が重なった。
「今日は俺がやります」
「澄川さん」
「嫌なら言ってください」
真壁は手を下ろした。
嫌ではなかった。
澄川が続きを引き取る。
触れ方は急いでいない。肩から胸元へゆっくり手が移り、真壁の身体が強張るたび、そこで一度止まった。
風呂でも同じだった。
澄川は、反応が返ってくるまで待つ。
いつもなら、人の身体を見るのは真壁の方だった。
歩き方、重心、肩の高さ、息の深さ。
今夜は全部、逆だった。
真壁は仰向けになる。
澄川が隣から離れ、足元側へ位置を変えたところで、ようやく意味が分かった。
真壁は近くにある肩へ手を置く。
「……そこまでしなくていいです」
澄川が顔を上げた。
「真壁さんもやるじゃないですか」
「それとこれは」
「同じです」
澄川の目は逸れなかった。
「俺もしたい」
それだけだった。
真壁は肩へ置いていた手をゆっくり離した。
次の瞬間、腹へ入っていた力が変わる。
息を吐こうとしても、最後まで続かなかった。
澄川は急がなかった。
真壁の身体が強張れば、澄川は待った。
呼吸が戻りかけると、また崩される。
指がシーツを掴んだ。
力を抜こうとしたはずの脚にも、いつの間にか力が戻っていた。
「……律」
名前が落ちた。
澄川が止まる。
顔を上げると、視線が重なった。
頬には熱が残っている。
真壁を崩している側なのに、澄川の呼吸も最初より深かった。
「もう一回」
「聞こえたでしょう」
「聞きたいです」
真壁は答えなかった。
代わりに、澄川の髪へ触れる。
まだわずかに湿っていた。
指を通すと、澄川の目が細くなる。
「律」
今度は名前だけで、澄川の肩が小さく動いた。
それを見ても、余裕が戻ることはなかった。
むしろ、自分だけが崩されているわけではないと分かったせいで、抑えていたものまで緩んだ。
真壁の腰がわずかに浮く。
すぐに戻そうとしたが、澄川には伝わっていた。
澄川の目がわずかに熱を増し、そのまま距離を変えずに真壁の反応を受け取る。
真壁の呼吸がまた崩れる。
シーツを掴んだ指へ力が入り、もう片方の手は澄川の髪から離せなくなった。
声を抑えようとすると、余計に喉が詰まる。
結局、低い音が漏れた。
澄川が顔を上げる。
真壁は目を逸らさなかった。
「見ないでください、とは言わないんですね」
「言いません」
返した声が掠れていた。
澄川の目に熱が増す。
「じゃあ見ます」
軽口ではなかった。
本当に、真壁だけを見ている。
その方がずっと厄介だった。
真壁はもう一度、澄川の名前を呼んだ。
「律」
今度は澄川の方が一瞬だけ目を閉じた。
けれど主導は手放さない。
「……澄川さん」
「はい」
「少し」
止めてほしいのか、続けてほしいのか、自分でも分からなかった。
澄川は急がず待った。
真壁は目を閉じる。
それでも、髪へ置いた手は離さなかった。
しばらくして、低く言う。
「止めないでください」
澄川の呼吸が一度止まった。
真壁は目を開ける。
視線が重なる。
何も足さなくても伝わった。
そのあと、真壁はもう自分の反応を抑えようとはしなかった。
身体へ入る力も、抜ける力も、そのまま澄川に見られていた。
声が落ちるたび、髪へ置いた指が強くなる。
名前を呼ぶたび、澄川の目も揺れた。
それでも最後まで、澄川は離れなかった。
*
しばらくして、真壁は仰向けのまま呼吸を整えていた。
身体から力が抜けきっている。
隣へ戻ってきた澄川も黙っていたが、こちらより余裕があるようには見えなかった。
真壁は横を向く。
「知らない顔でした」
「俺の?」
「はい」
澄川は一度、真壁を見る。
「嫌でした?」
真壁はまだ湿り気の残る髪へ手を伸ばした。
「逆です」
澄川が黙る。
真壁の指が髪を梳くと、ようやく肩から力が抜けた。
今夜知ったのは、触れ方だけではない。
自分を見ながら、最後まで離れなかった澄川の顔も。
真壁の知らない澄川が、またひとつ増えた。
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