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嫉妬と独占欲

 そろそろ十月を終わろうとしていた夜だった。俺の生活は授業と部活中心に戻りつつあった。アパートは寝るためだけの孤独な王国と化す。元々こんな感じだった。授業と部活とバイトで疲れた体をベッドに投げ出し、スマホをいじって寝落ちする。  だが、今は少し変化がある。シャワーを浴びて寝る前に、軽く参考書を開く。保育士試験のものだ。学ぶためにやっているのではない。内容に把握するためにやっている。なぞるための儀式だが、それで俺は心を落ち着けている。 「……短三度って、何?」  参考書を眺めながら、思わず声が出る。書面には鍵盤が描かれ解説されているが、さっぱり分からない。ギターのコードらしきものも解説されているが、それすらも分からない。  これを乗り越えてみんな先生しているのかと思うと、世の中の保育士が化け物に見える。  本当に意味が分からない。これをどう勉強すればいいのか、見当もつかない。僅かに濡れた髪をかいて溜め息をついたその時、インターホンが鳴った。  弾かれたように玄関を見る。もう夜の十時を過ぎていた。翔太が合コンの後に来たのか……いや。あいつはチャラいけど、泊まりたい時は律儀に連絡するタイプだ。  俺は参考書を本棚に押し込み、ドアを開けた。小柄な金髪が立っていた。 「今夜泊めて」  夏樹さんは、開口一番にそれを言う。  だが、いつもと違う風貌だった。サイズの合わないシャツは絵の具で汚れ、ジーンズも赤や青の絵の具が付着していた。いつもはポニーテールにしている淡い金髪も、ぐしゃぐしゃなハーフアップにまとめられている。  スケッチブックや画材の入った大きめのトートバッグを玄関に置き、勝手に部屋に入る。  あまりにも傍若無人な振る舞いだが、全く怒る気になれなかった。それどころか、少し心が浮ついていた。 「シャワー貸して。あと服」  あぁ、いつものパターンだ。シャツを脱ぎながらシャワー室に入っていく。水音を聞きながら床に落ちたシャツを拾い上げる。 「このシャツ、早めに洗濯しなきゃいけないんじゃないですか?」 「どうせ洗っても落ちないからいい。捨てて」  シャワー室の中からそう言われ、絵の具で汚れたシャツをビニール袋に突っ込んだ。バスタオルと一緒に俺のTシャツを置いておく。  何の連絡もなしに来たのは初めてだった。あまりに急で少し落ち着かない。ウロウロしてるのも変だから、とりあえずベッドに胡座をかいた。  やがて夏樹さんがシャワー室から出てきた。俺の黒いTシャツから伸びる、白く細い手足が艶めかしい。見るたびに、この人は本当に俺より年上なのだろうかと感じる。顔立ちも体格もどこか幼さを残し、少年めいた未成熟の色気があった。  ベッドに腰を下ろした拍子に、髪からぽたり、と雫が落ちる。まだちゃんと拭けていない。 「まだ濡れてますよ」 「あっそ」  頭に乗せただけのバスタオルを掴んで、後ろからわしゃわしゃと髪を拭いてあげる。大人しくされるがままになっている夏樹さんは、こんな風に世話を焼かれることに慣れているようだった。洗ったばかりの髪から俺と同じシャンプーの香りがする。男を煽るには充分すぎる要素に、俺の心臓は鼓動を早めた。 「ずいぶん遅くまで描いてたんですね」 「課題の締め切り近いからな。描かないと単位もらえねぇし」  髪を拭く手が止まる。彼の言葉で思い出すことがあった……夏樹さんの噂だ。 「……教授と寝て単位もらってるという噂は、嘘なんですね」 「はあ?」  心底嫌そうな顔をして振り返った。なんだそりゃ、と吐き捨てる。 「そんな寝ただけで単位もらえるわけねぇだろ。芸術学部そんなに甘くねぇからな?」 「まぁ、考えたら普通……そうですよね」 「当たり前だろ。ま、助教授とは寝たことあるけど」  世間話をするような口振りで、彼は言う。俺は妙な窒息感を覚えた。バスタオルを頭から取る。綺麗なうなじだ。僅かに覗く首筋に、小さな赤い花が咲いていた。  俺の知らない誰かがつけたものだ。そっと……指でそれをなぞる。 「これも、その助教授がつけたんですか……?」 「さぁね。どうだったかな」  小さく彼は笑っていた。俺を弄んで遊んでいる……そんな様子だった。  俺の知らない誰かが、俺の知らない間にーーこの人を抱いていた。それを誇示するかのような赤い痕に、明確な苛立ちを覚えた。  細い首筋に唇を落とした。すでにつけられた赤い痕を強く吸う。「ん……っ」と夏樹さんの唇から甘い声が漏れた。  着たばかりのTシャツを脱がしベッドに押し倒す。俺と同じボディソープの匂いがする肌につくうっすらとした赤い花を舌先で辿り、強く吸い上げていく。上書きするかのように。  他人の痕跡がこの人にあることが、許せなかった。そんなもの消し去ってしまいたかった。  嫉妬だーー俺は“嫉妬”しているんだ。そう自覚した。  嫉妬から派生した独占欲が今の俺の原動力となり、夏樹さんの肌にしゃぶりついていた。  身を捩り甘く鳴く彼の、細い手首をシーツに押し付ける。いつもより強く……優しくできないくらい、俺の中の独占欲は肉欲を凌駕していた。  優しくしたら“その他大勢”のままなんじゃないかと……恐怖にも似た感情が湧き上がっていた。 「……っ、今日は荒っぽいじゃん。そういう気分?いいよ、そういうの……嫌いじゃないから」 「俺の部屋に来て、他の男の話しないでくれます?」 「別にいいじゃん。俺の勝手だろ?」 「じゃあ、言えないようにします」 「何?怒ってんの?」  うるさいと言うかのように唇を塞いだ。いつもより噛みつくような、荒っぽい口付けだった。軽口を叩く余裕を奪いたかった。  この唇から、俺の名前だけ紡がれればいいのに……そう思いながら、深く舌を絡ませた。

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