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バイトでのミス

 十月の半ばに入り、少し俺は忙しくなっていた。バスケの試合が増えたのだ。ここは強豪校ではない。あくまで緩くやっているにすぎないが、それでも試合はある。週末は試合、平日は練習の時間が増える。さらにバイトもある。これまではバイトの合間に部活をしていたが、この期間は練習の合間を縫ってバイトをする。忙しない日々だったが、敢えて忙しくしていたとも言える。バイトのシフトを今だけ減らすこともできたが、ボーッとする時間を減らしたかった。  そんな時間があると、俺は夏樹さんのことが頭から離れなくなる。スマホを見て連絡がきてないか期待してしまう。  夏樹さんとの関係は相変わらずだった。ただ、体だけ。それしかなかった。俺から連絡することは、気まずくてできなかった。体目当てと受け入れてしまうようで嫌だった。  体目当て……ではないのか。じゃあ俺はどうなりたいのか。答えは出ていない。 「ゆうとせんせー、跳び箱もっと高いのにしてー」  甲高い声に意識が現実に引き戻される。体操着姿の子供が、ピョンピョン飛び跳ねながら言った。  そうだ、今の俺はバイト中だ。幼稚園の体操教室の補助員。今は“ゆうと先生”にならないといけない時間だ。  四段の跳び箱を撫で、頭を横に振る。 「けんとくん、まずは四段を跳べるようにならないと」 「やだー。オレ、百段跳べるもん!」  出た。幼児特有のやたら数を盛る現象。四歳や五歳だと、このような言動が増える。 「じゃあ四段をかっこよく跳んでるところ見せてよ。百段も跳べるなら、四段なんて簡単だよね」  このように言うと、子供は俄然やる気を出す。けんとくんの後ろに並んでいる子たちは「がんばれー!けんとくんがんばれー!」と飛び跳ねている。  けんとくんはビシッと手を上げて駆け出す。踏み台を両足で踏みつけ、跳び箱に手を付く……が、俺の支える手が一呼吸遅れた。  支えるより先に、小さな体は跳び箱の右側へと倒れ込んだ。顔から体育館の床に叩きつけられる。はっ、と俺の呼吸が止まる。けんとくんの泣き叫ぶ声が響き渡った。 「大丈夫?けんとくん!」  もう一つの跳び箱についていた、井上先生が駆けてくる。急いでけんとくんを抱き起こすと、鼻と口から出血していた。泣き声がどんどん大きくなり、他の子供たちへも伝染していく。  俺が遅れたから……集中してなかったからだ。俺のミスだ、完全に……。  頭が真っ白になった。 「首は大丈夫、手首も問題ないね。泣いてるから大丈夫。ゆうと先生、職員室に連れて行って」  井上先生から指示され、俺はけんとくんを抱えて職員室に向かった。  けんとくんの怪我は幸い重傷ではなかった。唇の内側を切ったのと、鼻血が出たのはあったが、頭部や首へのダメージはない。唇の腫れは保冷剤で冷やした。迎えに来た保護者に、俺と井上先生は何度も頭を下げた。保護者は怒ることもなく「大丈夫です。大した怪我じゃなくて良かった」と笑ってくれたのが救いだった。  体育館の片付けを終えて帰ろうとする俺に、井上先生は「最寄り駅まで送るよ」と言ってくれた。園の駐車場に停められた車に乗る。こうして送られるのは初めてだった。  エンジンをつけハンドルを切りながら、井上先生は穏やかに言った。 「ちょっと、ミスったね」  四十代半ばくらいのベテランは、俺を叱り飛ばさなかった。助手席で小さく頭を下げる。 「はい、すみません」 「子供の怪我は怖いからね。次は気をつようか」 「……はい」 「今日はどうしたの?僕から見ても、少し元気ないように見えるよ。何か悩みでもあるのかな」  信号が赤になり、車は静かに停止する。  俺の抱えている悩みなど……井上先生に言えるわけない。言葉を探して言いよどんでいると、彼は苦笑いをした。 「今の学生さんは色々あるよね。僕が若い頃より、色んなことで悩む瞬間は多いと思う」 「確かに、それはありますね」 「悩み事って、一つに見えて一つじゃないんだよ。対人関係でも将来への不安でも、どんなものでもね。色んなことが重なって絡まって、それで頭を抱えちゃう。だからね、まずは分かりやすいものから少しずつ進んでいけばいい。これもある意味、スモールステップかな」  信号が青に代わり、また走り出す。左折して真っ直ぐに進んだ。  井上先生の言う通り、俺は夏樹さんとの関係に頭を抱えているが、本質はそこにないのかもしれない。  どうなりたいのか、自分がどうしたいのか、何ができるのか……そこが自分には見えない。刹那的な日々に漠然とした未来への不安が、俺の中にあるのかもしれない。  部活では集中できず、バイトではミスをし、誰かの特別にはなれず……自分に自信が持てなくなっている。 「ゆうと先生、進路は幼児体育指導者だったね」 「はい、そうです」 「小学校の先生とかではないんだ」 「俺は黒板の前に立つより、子供たちと全力で駆け回りたいんです」 「それなら、いっそ保育士試験を受けてみたらどうだい?」  え?と思わず声が出る。運転をしながら井上先生は続けた。 「そういう仕事したいなら取ってて損はないと思うよ。就活でも役に立つだろうし。幼稚園教諭は今の専攻だと厳しいでしょ」 「はい、そうですね」 「保育士資格は国家試験に合格すれば取れるんだよ。僕がたまに行っている保育園にも、独学で取った先生がいるんだ。挑戦してみたらどうかな。少しは自信に繋がると思うよ」  最寄り駅前に到着し、井上先生はこちらを見てにっこりと笑った。 「できることから、ちょっとずつだよ。何事も焦らない。大丈夫、君ならできるから」  子供たちに接する時と同じ柔らかさだった。この人にとって、俺はまだ子供だ。だからこそ、この柔らかな優しさが頼もしい。  俺は礼を言い車を降りた。井上先生の車が駅前から去っていくのを見届けて通りを歩く。ずっと胸の奥にあった、どんよりした気持ちが少し晴れていた。  ふと、見つけた本屋に立ち寄る。保育士試験の参考書を一冊だけ買った。なかなか高い買い物だったが、投資と思うことにする。  アパートに帰り、シャワーを浴びてから参考書を開いた。熟読はしない。パラパラと流し読みするだけだ。 「……めっちゃ科目多いな、これ」  栄養学や法律関係、社会福祉など科目が多岐に渡る。歴史分野もあって思わず顔が歪む。 「誰だよ荻生徂徠って……松野クララなんて知らないよ」  室内に響く独り言。あまりの出題範囲に唸り声しか出ない。  しかし不思議だった。参考書を睨んでいる間は、夏樹さんの姿が頭にチラつかなかった。  今の俺に必要なのは、こういった時間なのかもしれない。  そう思いながら、俺は「ピアノなんてやったことないから音階すら分かんないよ……」と呟くのだった。  

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