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俺は、先輩にはなれない

 講義後にスマホを見る。バスケ部のグループLINEの通知が来ていた。今日は体育館の都合で練習が休みらしい。  スマホは午後四時を告げている。今日はこの後に講義もバイトもない。珍しく時間が空いてしまった。  こういった時、俺はどう時間に潰せばいいか分からない。友人の翔太はカラオケだのパチスロだのと嗜んでいるが、俺はそういった趣味はない。時間があれば体を動かしていたい性分だ。だが、それは今日はできない。 「どうしようかな……」  溜め息混じりにこぼし、教室を出る。このままアパートに帰るのも勿体ない気がした。とりあえず時間を潰そうと歩き出す。  キャンパスの外に出る。視界は開け、余計にどうすればいいか迷ってしまった。始まったばかりの秋の日差しは、まだ熱を帯びている。外に出ると、暑い。  ふと、俺は二車線道路を挟んだ西棟へと目を向けた。文学部等のキャンパスが建つ場所には、図書館がある。 『ルーベンス』  夏樹さんの言葉が頭に響く。足は自然とそちらへ向かった。  学生しか渡らない横断歩道を渡り、一際古い四階建ての建物へ向かう。建物は古いのに、中のシステムはなかなかハイテクだ。改札口にも似た受付に学生証をかざし中に入る。効きすぎた冷房が汗を干上がらせていく。  俺はあまり図書館に入ったことがない。来ても行くところは、レポートに必要な書籍がある場所と決まっていた。  来たことのない三階へと上がる。案内図には『美術史』『画集』という文言があった。案内図に沿って棚を探す。西洋美術の画集なんて、何を見ればいいか分からない。並ぶ大判の画集の背表紙を睨んでいると『宗教画集』という文字を見つけた。画集にしては薄い。それを手に取り、適当な椅子に座って開いた。  いつの時代のものか俺には知識がなくて分からない。だが何百年も前の絵画なのだろう。写実的な絵の数々は迫力があった。テーマはキリストだのマリアだの……宗教をよく知らない俺には理解できなかった。  ページを捲る。ぐったりと青白い肌をした男が、人々に支えられながら十字架から降ろされている絵だ。 『ルーベンス キリスト降架』  あぁ、これがルーベンスなのか。俺は初めて知った。  鮮やかな赤い衣を着てるのは誰なのだろう、どうやって描いたのだろう。なぜこんなに物悲しい色をしているんだろう。  何がどうすごいのか分からないのに、目を逸らせなかった。  恵介先輩は、ルーベンスを見て夏樹さんと通じ合えた。そこが俺との……いや、“その他大勢”との明確な違いだ。  俺は、恵介先輩にはなれない……。  重苦しい窒息感ばかりを感じ、俺は画集を戻して図書館を出た。  外はまだ明るかった。風に僅かに夕方の匂いが混じっている。  このまま帰ろうと駐車場に向かって歩いていると、ベンチに座る目立つ金髪を見つけた。夏樹さんだ。  見かける時は喫煙所ばかりだったが、今日は珍しく脚を組んでスケッチブックを開いている。服装も絵の具に汚れたエプロン姿だ。  俺はなんとなくそちらへと足を向けた。近付いても彼はこちらを見ない。無視しているのではない。スケッチブックに鉛筆を走らせている。 「夏樹さん、何を描いてんですか?」  声をかける。スケッチの邪魔をしてしまったかと思ったが、彼は嫌そうな顔をしなかった。 「別に。適当な暇つぶし」 「どんなの描いてんですか?」  俺の質問に、彼はスケッチブックを手渡す。日常的に使っている使用感があった。俺は彼の隣に座り、ページを捲る。 「すげぇ……」  思わず声が漏れた。描かれていたのは学食の椅子や教室の窓、机に置かれたスマホ、信号機、吸い殻だらけの灰皿、ゴミ袋に放り込まれたビールの空き缶、街路樹……どれも日常の風景にあるものだった。それを鉛筆一本で驚くほど写実的に描いている。  さらにページを捲る。ちらほらと人物も描かれていた。ラーメンを食べる男子学生、犬を散歩させる老人、電車でうたた寝をするサラリーマン……どこにでもいて、みんな気にも留めない人々の姿がそこにあった。 「このくらい、芸術学部なら普通に描けるよ」 「じゃあ芸術学部って化け物揃いじゃないですか」 「化け物扱いすんな、失礼だろ」  俺にとっては化け物だ。さっきルーベンスを見たが、それより目を奪われている。  だがページを捲り、息を呑んだ。  そこには、ドリブルをしている恵介先輩が描かれていた。同じページに、ベンチに座りペットボトルを持っている姿。部室棟の階段を降りている姿。  次のページには、スーツに袖を通している姿もあった。俺が見たことのない風呂上がりの眼鏡姿や、机に突っ伏して寝ている姿。そして……上半身裸のまま眠る姿も。  明らかな事後の様子に、俺は動揺を隠せなかった。  憧れの先輩が描かれていたからではない。  恵介先輩は“特別”なのだと目の当たりにしたからだ。  心がざわつく。心臓が鷲掴みにされたみたいだ。痛みとともに、奇妙な焦燥感が体を駆け巡る。  だが最も驚いたのは、そんな感情を持っている自分に対してだった。  黙っている俺の手からスケッチブックが奪われる。夏樹さんはそれを小脇に抱えて立ち上がった。 「まだ課題があるから。それじゃ。そのうち連絡する」  相変わらずのぶっきらぼうだ。  同じ台詞を、一体何人の男に言っているのか。恵介先輩には絶対に言わない台詞なんじゃないのか。  名前を呼んで呼び止める。ぴたりと彼は止まり、顔だけをこちらに向けた。 「他の人にも、そんな感じなんですか?」  言葉を選んで問いかける。美しい横顔に変化も揺れもない。ただ桜色の唇が冷淡に動いた。 「あぁ、そうだけど?」  くだらないことを聞くなと言わんばかりの返しだった。夏樹さんが去っていく背中を見つめながら、俺はどこに向ければいいか分からない焦燥感を覚えた。

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