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夏樹と恵介と、ルーベンス
「お前んち、灰皿ないの?」
窓を開けながら夏樹さんは言う。口には煙草を咥えていたが、まだ火はつけていない。
俺は部屋着の下だけを履いている。上着は夏樹さんに取られた。
「俺、煙草吸わないんですよ」
「何か灰皿代わりになりそうなのない?」
サイドテーブルに軽く座ったまま、まるで王様のような口振りで彼は言う。俺の部屋着であるTシャツは彼には大きすぎて、ずり落ちて細い肩が露出していた。
仕方なくキッチンから、ツナの空き缶を持ってくる。夏樹さんはそれを受け取り煙草に火をつけた。外に向けてふぅ、と煙を吐き出す。夜空が白く煙る。
夏樹さんは今夜も泊まるだろう。いつもこんな感じだ。一方的に連絡が来て、どちらかの部屋でセックスを何回かして泊まる。ただそれだけ。
この関係を恵介先輩も知っている。怒るでも、軽蔑するでもなく、静観しているだけ。それがかえって不思議だった。同時に俺の中の罪悪感が肥大化していく。
尊敬し憧れている先輩の大事な恋人を、俺はついさっきまでこのベッドで抱いていた。きっとまた夜中に抱くだろう。
後ろめたい気持ちは、充分すぎるほど持ち合わせている。だがこの人を目の前にすると、触れたくなってしまうのだ。
窓際で煙草を吸う彼の金髪は乱れていた。俺が乱したからだ。内腿には小さな赤い花が咲いている。俺がつけたものだ。
浅ましいと思いながらも、その事実に高揚している自分がいる。
ちらり、と夏樹さんがこちらに目を向けた。
「恵介と話した?」
心臓が跳ねた。彼が知らないわけがない。あの人の、恋人なんだから。
俺は頷く。へぇ、と気のない返事をされた。
「あの、恵介先輩となんで付き合ってんですか?」
「いきなり何だよ」
「だって、付き合ってるように見えないし……」
あなたは誰とでもこうして寝てるから、なんて言えない。だが、どうして俺は気になった。
夏樹さんと恵介先輩は、どう見ても性格が真逆だ。なのにどうして一緒にいられるのか分からなかった。
空き缶に煙草を叩いて灰を落とし、夏樹さんは外を眺めた。
「俺のこと、ほっといてくれるから。それだけ」
「いや、それ矛盾してるでしょ……」
「お前には分かんねぇよ」
薄い唇が煙草を挟む。紅茶色の瞳が遠くを見つめていた。その先に、恵介先輩がいるのだろうか。
「……ルーベンス」
「え……?」
「一七世紀の画家。それの画集を俺の部屋で見た時……あいつが言ったんだよ」
「何をですか?」
「別に。どうでもいいだろ。とにかくそれがきっかけ……以上、おしまい」
彼は一方的に会話を打ち切った。そのさりげない場面の中で、恵介先輩と夏樹さんはどんな会話をしたのか、それは分からない。だがその瞬間、夏樹さんにとって恵介先輩は特別な立ち位置になった。それだけは、よく理解できたーーできてしまった。
空き缶に煙草を捨て、彼は窓を閉めた。ゆっくりと立ち上がる。ベッドに腰掛ける俺の方へと歩を進め、するりと体を擦り付けた。反射的に抱きかかえる。
「少し休憩したら、またシよ……?」
甘い誘いだ。剥き出しの俺の腹筋を指先でなぞる。
数秒前まで先輩の話をしていたのに、俺はその人の恋人の誘いに高揚していた。
膝の上に乗せ背中に腕を回し、そっと唇を重ねた。それに応えるように俺の唇を割り、小さな舌が挿し込まれる。
この人は俺と唇や肌を重ねながら、何を思い……誰を見ているんだろう。
夏樹さんとの情事は感じたことのない快楽に満ちていたが、熱の冷めた後の虚無感も同居していた。
俺はどんなに夏樹さんと体を重ねても、恵介先輩の立場にはなれない。“その他大勢”の一人に過ぎないのだ。
無性に、イライラした。
Tシャツの中に手を差し込み脱がせる。俺の意図を汲んで彼は大人しく素肌を見せた。
「復活、早すぎじゃね?」
期待している口振りで、口角を上げている。ゆるゆると跨ったまま彼は腰を揺らした。男を挑発するのに慣れている。
「駄目ですか?こうやって夏樹さん抱くのも、あなたの気紛れ次第なんですから」
「今のうちに味わっておこうってこと?いいよ。ガツガツしてるの、嫌いじゃないから……」
同じ台詞を、この人はどれだけ言ってきているんだろう。
奇妙な苛立ちを感じ、俺は細い首に吸い付いた。
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