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お前じゃ扱いきれない

 体育館は熱気に満ちていた。今日は涼しい風が館内に入り込んでくる。体を動かすには良い気候だ。体育館のコートの半分を使い、バスケ部はミニゲームをしていた。俺のチームは僅かにリードしている。恵介先輩が司令塔となり的確な指示を出しているからだ。  俺もボールを取り、ドリブルをしながら駆ける。だがいつもより動きが悪い。自分でも分かるほどだ。囲まれて抜けようとするが、相手にボールを取られた。奪い返すためにまた走る。汗が顎を伝う。ゴールをしようとする相手にリバウンドを取るが、着地でバランスを崩した。もつれるように相手と床に転がる。  肩が痛い。ボールも取られた点も取られ、リバウンドは失敗。最悪だ。  チームメイトが駆け寄る。打ったのが肩なので脱臼を心配されたが、それはなかった。  恵介先輩が歩み寄り、厳しい表情で俺を見下ろした。 「勇斗、交替」 「え……いや、大丈夫です。まだやれます」 「駄目。全然集中できてないだろ。このままじゃお前もチームメイトも怪我をする。かえって危ない。翔太と交替しろ」 「でも先輩……」 「駄目、コート出て。翔太!入れ!」  言われた通りにコートを出る。俺と入れ替わりで翔太が入った。ベンチに座り、タオルを頭に被せた。恵介先輩の言うことはもっともだ。俺は集中できていない。食堂での一幕も喫煙所での会話も、今の俺にとって心を揺るがす出来事だった。体を動かせば頭も冴えるかと思ったが、恵介先輩を変に意識してしまって上手く動けない。  彼は言い方こそ厳しいが、理不尽なことは決して言わない。頼れる人だし、今までも慕ってきた。だからこそ、俺はまともに先輩のことを見れなかった。  笛が鳴る。ミニゲームは同点で幕を閉じた。ベンチに戻った翔太が俺を覗き込む。 「勇斗、大丈夫か?肩痛む?医務室行くか?」 「いや、本当に大丈夫だから。ごめんな、心配かけて」 「俺はいいよ。でもちょっと元気ないからさ?何かあった?元気ないなら、女の子誘うから飲みに行く?」 「いいよそんなの。翔太チャラすぎ」  軽口を言って励ましてくれる友人がありがたい。タオルで頭を拭き、顔を上げた。心臓が跳ね、はっと息を呑む。  恵介先輩と目が合った。  咄嗟に目を逸らす。いたずらを隠そうとする子供のような態度だ。何か言いたげな眼差しが痛い。 「すみません、今日は帰ります」  恵介先輩に軽く頭を下げ、荷物を抱えて体育館を出た。合わせ顔がないとはこのことだ。逃げるように部室棟へ滑り込み、シャワー室に入る。まだどの部も部活中だから、ここには誰もいない。一人になりたかった。  ジャージを脱いでカーテンで仕切られたシャワーブースに入り、蛇口を捻る。温いシャワーが振り注ぐ。 『誰とでも寝るんだって、あいつ』 『教授とも寝たって噂だぞ』 『俺も一度ヤッてみてぇわ』  頭の中で、食堂で聞いた下品な噂がぐるぐる回る。水音が遠くに聞こえるほどに、それらは何度も脳内を旋回した。  苛立ちが治まらない。好き勝手話して、それで笑って……あまりにも卑しい。  あの人はそんな人じゃないーーと、言えない事実に唇を噛んだ。  それは身を持って知っている。俺とも寝たんだから。  あの夜を思い出す。  オレンジ色の間接照明に照らされた肌を。  跨る体の軽さを。  唇から零れる声を。  そして、寝顔の無防備さを……。  ずっと腕で包んでいたい、そう思った。何故そう思ったかは分からない。説明できないが、俺の手に顔を擦り付ける様が、ひどく切なかった。  排水口に、お湯が渦を巻いて流れ落ちていく。ぐるぐる、ぐるぐる……思考も渦巻く。  一人では抱えきれないのに、一人で抱えるしかない問題に、俺は困り果てていた。  シャワー室を出て更衣室で着替えていると、恵介先輩が一人で入ってきた。まだ部活中のはずだ。  言葉に詰まっていると、彼は苦笑いをした。 「勇斗。ちょっと話せるか?」  頷くしかない。導かれるまま部室棟を出て、外のベンチに腰掛けた。辺りは少しずつ夜を迎えている。 「今日のミニゲーム。あれはさすがに駄目だ」 「はい、すみません……」 「調子が悪い時は休めよ。それも大事なことだから。お前、進路何だっけ?」 「幼児体育指導者です」 「だったらなおのこと、そこ理解してなきゃ駄目だろ。そこも含めた仕事したいなら、お前がまずできなきゃ駄目だろ」  仰る通りだ。恵介先輩は俺が一年の時から、こうして厳しくも温かく接してくれている。恐らく中学高校含めて、一番尊敬している先輩だ。冷静で落ち着いてて、包容力がある。たった一歳しか違わないのに、彼からは大人の空気があった。目指したい未来像とでも言える存在だ。  だからこそーー今の俺は話すのが怖い。  少しの沈黙の後、先輩は小さく息を吐いて言った。 「夏樹と何かあったか?」  びくっと肩が震えた。どうしよう、なんて言おう……口の中が乾いていく。答えない俺に、彼はさらに問う。 「寝たか、夏樹と」  あまりにもストレートな聞き方だった。俺は耐えきれずゆっくり頷く。殴られるか、それとも罵倒されるか……怖かった。  しかし恵介先輩はいつもの調子で「そうか」とだけ呟いた。そこに感情はない。報告されたことを受け取っただけとでも言うような平坦さだった。 「お前が夏樹をどう思っているかは知らないけど、これだけは言っておこうか」  こちらへ向けられた眼差しは、いつもの先輩より厳しいものだった。 「お前じゃ夏樹は扱いきれないよ」 「どういう、意味ですか?」 「あいつは自由だ。正論や常識に囚われない。下手に入れ込むと身を滅ぼすぞ」  口振りは淡々としている。およそ自分の恋人のことを述べているとは思えない口調だった。  俺が言葉を失っていると、先輩は「練習に戻る」と言って立ち上がった。ベンチから立ち上がり、呼び止める。振り向く彼は、いつもの調子で「どつした?」と問う。 「恵介先輩は、夏樹さんが……他の男と寝てるの知ってるんですか?」 「知ってるよ、ずうっと前からね」 「なんで駄目って言わないんですか。自分の好きな人が自分以外の男と寝てるなんて、普通は許せないもんでしょう」 「それはそうだけど、そうじゃないんだよ。勇斗」  少し困ったように呟き、恵介先輩は体育館へ戻っていった。  俺には恵介先輩が理解できなかった。ただ、あの困ったような微かな呟きは胸にチクリと刺さっていた。  もう帰ろうとリュックを背負った瞬間、ポケットの中でスマホが震える。手に取り通知を見る。『夏樹』とあった。  LINEを開くと、ひどく短いメッセージが送られていた。 『いつ暇?次はそっちの家でしたい』  甘さも何もない業務連絡のような文面だ。  なのにーー俺は心の中で僅かな喜びを感じていた。  

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