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学食での修羅場
講義終わりにスマホを見る。通知はなし。当たり前だ。机の上に置いてたが、講義中一度だって動かなかった。ここ数日で、俺は何十回何百回とこうしてスマホを気にしている。ちょっとしたバイブ音で一喜一憂して、なんだか馬鹿みたいというか、馬鹿そのものだ。
あの夜から数日が過ぎているが、夏樹さんからの連絡はない。どこで何をしているのかも知らない。
世話になっている先輩の恋人と、なし崩し的に一夜をともにした……こんなことしたことがない。いや、そもそも人生で経験する人の方が少ないだろう。それを俺はやってしまった。
後悔と罪悪感が、時間が経てば経つほど押し寄せてくる。なのに連絡を期待している自分もいる。
夏樹さんのことが、ずっと頭にチラついている。
ぞろぞろと学生たちが教室を出ていく。もう昼休みだ。俺もそれに倣い席を立った。
「ねぇ、保坂くん。大丈夫?体調悪いの?」
入口で女子に声をかけられた。同じ専攻の……確か山西さんだったかな、俺は立ち止まり苦笑いをした。
「いや、そういうんじゃないんだ。どうして?」
「なんか今日、朝からずっとボーッとしてるよ?体操の授業でも思い切り失敗してたじゃん」
それは体操というスポーツが苦手だから……と言い訳したかったが、それではフォローしきれないくらい盛大にコケてたので言い訳のしようがない。
山西さんと一緒にいた女子たちも「怪我に繋がるから、本当に気を付けてね」「マジで大丈夫?」と口々に言って俺を見上げた。
「ごめん、大丈夫だから。ありがとう」
「ならいいけど。ところでさ、保坂くん。今度一緒にご飯行かない?」
女の子特有の可愛い声だった。輝く瞳が眩しい。一瞬、夏樹さんの目を思い出した。色素の薄い紅茶のような瞳……その奥底にある空虚なもの。目の前にいる山西さんとは真逆の眼差しだ。
「ごめん、今ちょっと部活が忙しいから……」
「なぁんだ、残念。じゃあね」
山西さんは友達を連れ立って去っていった。「また断られたぁ」「もう少し仲良くなってからじゃない?」「早くしないと保坂くん誰かにとられちゃうよ」と笑いながら話す声が遠ざかっていく。
俺はどうやら、女子から“そのような対象”として見られがちらしい。いわゆる“彼氏候補”だ。大学に入る前から、女子に告白されることはあった。友達から紹介されることもあった。一応、女子と付き合ったこともある。しかし長続きはしなかった。まだガキだった俺はバスケをしたり友達と遊んでいる方が好きだったのだ。
だから、恋愛経験はほぼないと言っていい。山西さんのように誘って来られても一歩引いてしまう。彼女が悪いわけじゃない、俺が駄目だからだ。
また、スマホを見る。通知は相変わらずゼロ。溜め息をついて、俺は学食へ向かうため階段を下りていった。
教育学部のキャンパスがある東棟から、横断歩道を渡ると文学部や芸術学部のキャンパスである西棟に着く。この大学は学食が三ヵ所あるが、西棟の学食は席数も多く安いので学生に人気だ。
昼休みの学食は満席に近かった。どこかに席はあるかと探していると、意識しなくても学生たちの話し声がそこかしこから聞こえてくる。それはガヤガヤと喧騒となって食堂内に充満していた。
ふと、自販機が並ぶ壁際の一角に淡い金髪を見つけた。夏樹さんだ。相変わらずサイズの合わないシャツを着ている。大人しく一人でパンを齧っている姿は、食堂内でも一際目立っていた。
自然と爪先はそちらに向く。声をかけるか考えているわけではない。ただ引き寄せられるように足が動いた。
「あれだろ?芸術学部の」
喧騒の中から聞こえた声に、ぴたりと足が止まる。声の方へ目を向ける。
男子学生が三人ほど、夏樹さんへと顔を向けて話していた。
「あぁ、あの金髪?」
「女?男?」
「男だよ。めちゃくちゃ美人じゃん」
「すげぇな、あれであんな噂あんのかよ」
「誰とでも寝るんだろ、あいつ」
心がざわめく。体が動かなかった。息が詰まる。
「マジで?俺でもイケるかな?」
「芸術学部の教授とも寝たって噂だぞ。あとパパ活してるとか」
「それマジ?」
「でもおっさんとホテル入ってくの見たって奴いるから、結構あるんじゃねぇの?」
「めっちゃ淫乱じゃん。一度ヤッてみてぇわ」
下品な笑い声がする。イライラした。わけの分からない怒りに似た感情が、腹の底から湧き上がる。
そんな目で、あの人を見るな……と叫びたかった。
その時、机を叩く強い音が食堂に響いた。一瞬、喧騒は静まり返る。視線は夏樹さんの方角へと集中した。俺の目もそちらに向く。
席に座る夏樹さんを、見たこともない女子が見下ろしていた。机を叩いたのは彼女らしい。
「ねぇ、あんた。私の彼氏をよくも寝取ったね」
怒気を含んだ声が響く。周りが微かにざわつく。修羅場だ、と囃し立てる声もあった。当の夏樹さんは無表情で彼女を見上げていた。
「別れてくれって言われたんだけど。あんたのせいでしょ。何か言いなさいよ」
「それ、誰のこと?」
ようやく彼が口を開く。心底興味がなさそうな口振りで、女子をさらに苛つかせる。
「文学部の!東洋文学専攻の奴!」
机をヒステリックに叩く。夏樹さんは動じることなく「あぁ」と思い出したように言った。
「向こうから誘ってきたから。だから乗っただけ」
ひどく冷淡だった。理不尽に怒りの矛先を向けられて迷惑なのは理解できるが、他に言い方というものがあるだろう。当たり前のように、女子は声を荒げた。
「はあ?ふざけんなよ。別れてってこっちは言われたんだけど。あんたが寝取ったせいでしょ!」
女子の怒りに燃えた声が食堂に響く。食堂には心配する者、不安に思う者、面白がる者の囁きに渦巻いていた。
何か言えよと凄む女子に、彼は何も返さない。しかし彼女の腕を掴んでそのまま立ち上がった。驚いて身を引く彼女を無理やり引き寄せ、耳元に顔を寄せる。みるみるうちに、女子の表情は驚きから怒りと悲しみが混じったものへと変化していった。
そして、乾いた音が響く。彼女が夏樹さんの頬を平手打ちしたのだ。
食堂は静まり返る。俺は息を呑んだ。立ったまま、彼は動かない。妖精じみた美しい顔は、ぞっとするほど虚ろだった。だがそれも一瞬だ。
「こわっ」
チェシャ猫みたいに口元を歪ませ、笑いながら呟く。女子は悔しそうに涙を拭い食堂を出ていった。
喧騒がまた戻る。彼はパンの袋を持って食堂を後にした。
俺は踵を返し食堂を出る。ごった返す入口を抜け、淡い金髪を探すが……どこにもいない。建物の外に出る。煙草の匂いがした。それを辿って建物の裏手に向かう。喫煙所のベンチに座り、彼は慣れた手付きで煙草を吸っていた。
俺に気付いた彼は目を向ける。俺は彼の隣に座って軽く息をついた。
「大丈夫ですか?」
「何が?」
「平手打ち、されてたじゃないですか」
「見てたのかよ」
彼は鼻で笑う。白い頬は微かに赤くなっていた。
「あの子に何言ったんですか?」
「聞きたい?」
「殴られるほどのこと言ったんでしょう」
ふぅっと煙を吐いて、彼はニヤニヤと笑った。
「お前の彼氏、前戯が雑だなって言っただけ」
「……さすがにそれは酷いですよ」
「だって本当のことだもん」
悪い顔をして笑っている。まさにチェシャ猫だ。組んだ足の先をぶらぶらと遊ばせ、煙草を薄い唇に咥える。
呟くように俺は言葉を吐いた。
「そういうの……良くないですよ」
「何が?」
「付き合ってる人以外と寝るなんて、良くないですよ。恵介先輩と付き合ってるんでしょう?普通は、そういうことしないですよ」
「“普通”って何?」
どうでもいいと言うかのように、夏樹さんは煙を吐き出しながら言い放った。白く煙る先の表情は、少し苛立っているようにも見えた。
「俺が誰と寝ようと何をしようと、別にどうでもいいだろ。お前だって気持ち良かっただろ?」
何も言い返せなかった。その通りだった。俺は……この人の体を味わい、また触れることを心の何処かで期待している。浅ましい奴だ、俺は。
短くなった煙草を灰皿に放り込み、夏樹さんは鞄を持って立ち上がる。すれ違い際に俺へ言葉を吐いた。
「気が向いたら連絡する」
「待ってください、夏樹さん」
去ろうとする背中を呼び止める。僅かに振り返り、紅茶色の瞳が俺を見つめる。
「恵介先輩は、このこと……」
「お前には関係ない」
言葉を遮り、彼は去っていった。
まだ灰皿から消えきらない紫煙がゆらりと伸びている。宙をぐにゃりと漂うそれは、俺の心を象っているようだった。
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