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保育士試験という選択肢

 十二月に入り、朝晩の冷え込みが本格的になった。換気のためという名目で体育館の窓は開けられているが、正直言って閉め切ってしまいたい。 「翔太、一年生にはもっと丁寧に教えてやれ。バーンとかダダダーとか、擬音ばっかで可哀想だろ」 「うへぇ、すんません。恵介先輩」  コートの隅で一年生に指導している翔太に、恵介先輩は声を飛ばす。シュート練習をしながら俺はその様子を眺めていた。  受験シーズンのこの時期に恵介先輩が部活に顔を出すのは珍しい。バイト先の進学塾は今が一番忙しい時期だ。たまに顔を出しては、こうして一緒に練習をしている。彼にとって息抜きでもあるのだろう。  ボールをゴールに向かって放つ。スポッとネットを潜った。バウンドするボールを取り、壁際のベンチに目を向ける。夏樹さんがボーッとした顔で座っていた。  恵介先輩が練習に来てる時は、夏樹さんも見に来る。俺と話すことはない。  アトリエでの穏やかな時間が夢の中だったのではないかと思うほど、俺と夏樹さんの距離はそのままだった。  僅かに夏樹さんが顔を動かす。俺と目が合った。どうしていいか分からず、咄嗟に目を逸らす。  ボールをまたゴールに向けて投げる。リングに当たって外れた。ツイてない……。  練習が終わり部室棟で着替えて、みんなそれぞれ帰っていく。建物の外に出ると、外の暗がりに淡い金髪が見えた。その隣には……当たり前のように恵介先輩がいる。  二人は何かを話していた。夏樹さんの言葉に先輩はおかしそうに笑っていた。背の高い恵介先輩が夏樹さんを見下ろす眼差しも優しい。二人は連れ立ってそこを後にした。  二人の距離は、お互いを知る恋人同士のものだった。  俺は所詮、あの人の“浮気相手”にすぎないーーその現実を見せつけられたようで、悔しくて軽く唇を噛んだ。  跳び箱を倉庫にしまいながら、井上先生が言った。 「ゆうと先生。この後って時間あるかな?ここの先生で、ゆうと先生に会わせたい人がいるんだよ」  井上先生がこんなことを言うのは珍しい。バイトで幼稚園や保育園を訪ねた際は、用具を片付けた後は速やかに帰るよう園側から言われている。今日は例外らしい。  マットを倉庫に放り込み、俺は小さく頷いた。  階段を下って一階の職員室に入る。職員室といっても小学校や中学校のような立派なものではない。どちらかといえば、会議室に近い雰囲気だ。職員用の机が向かい合わせで並び、それぞれの机の上には画用紙やのりが置かれていたり、ジップロックに入ったオムツと大量のおしり拭きが積まれている。床には『消毒済み』という貼り紙付きのおもちゃ箱が置かれていた。  机で折り紙を作っていた女性が顔を上げ、ニコニコと笑った。 「あらぁ、お疲れ様です」  ミッフィーのエプロンを着けた、四十歳くらいの女性だ。彼女の机にはサンタクロースの形になった折り紙が積み重なっている。折り紙でサンタクロースが作れるものなのかと衝撃だった。 「みほこ先生、こちらがうちでバイトしてるゆうと先生です。ゆうと先生、こちらがみほこ先生」 「あ、こんにちは。お世話になっております」 「はい、こんにちは。井上先生、彼が前に言ってた保育士試験の話をした子?」 「そうなんです。彼、今は大学で児童スポーツ専攻してましてね?だから保育士資格も取ってみたら?と言ってみたんです」 「あらぁ!いいじゃない。やっちゃえやっちゃえ!こっちの世界に来ちゃえ!」  掠れた明るい声でみほこ先生は言う。幼稚園や保育園の先生は、こんな風に声が枯れている人が多い。井上先生は笑いながら俺の肩を叩いた。 「ほら、前にちょっと話したでしょう?独学で保育士資格取った先生がいるよって。みほこ先生のことだよ」 「え?マジで独学だったんですか?」  俺は参考書を一冊しか眺めてないが、あれを独学で覚えるのはキツい。目の前でサンタクロースを折るこの人が女傑に見えた。  まぁどうぞ座ってと言われ、適当な椅子を引き寄せて腰を下ろす。みほこ先生は穏やかに言う。 「私はね、二人目の子供を出産した後から勉強を始めたの。読んで覚えるより、ノートに書いて覚えたかな。何冊か本も買って、ネットでも分からないところ調べたりして勉強したの」 「俺、参考書を一冊だけ買ったんです。読んでもわけ分からなくて……なんですか松野クララって」 「東京女子師範学校附属幼稚園で教員やってた人。フレーベルと一緒に覚えると楽よ」  駄目だ、呪文にしか聞こえない。  俺の頭の中を見透かして、みほこ先生はおかしそうに笑った。 「大丈夫、大丈夫。繰り返せば覚えられるから。実技試験もあるけど、それは筆記が全部受かってからだし。まずは筆記に集中すればいいから」  実技試験のことは参考書で少しだけ齧っていた。これが、俺にとって一番ネックだった。弾き語りなんてしたことない。三分間の素話も自信がない。絵は……小学校以来描いてない。 「身近に絵を描く人がいるなら、教えてもらったりするのもいいわよ」  すぐに思い浮かべたのは、夏樹さんだ。でも彼はそういう距離にいる人ではない。 「ゆうと先生、何年生?」 「教育学部の二年生です」 「保育士試験は在学中でも二年以上在学して六十二単位以上取ってれば、受験資格があるの。だから四年生までの間に取ろうと思えば取れるよ。就活にも活かせるかもね」  選択肢が広がるということか。それなら本格的に勉強を始めてもいいかもしれない。俺に必要なのは、夏樹さんや恵介先輩と離れた何かに没頭する時間……そう思うようになっていた。  井上先生が「ゆうと先生」と声をかける。 「ちょっと本気で考えてみてごらん?自信にも繋がるし、やりたいことをやっていきたいなら選択肢を増やしてみなよ」 「そうそう。別にね、今すぐ受けなくてもいいのよ。学んだことは活かせるから。時間かけて勉強してみればいいのよ」  二人の教育者は柔らかに笑った。様々な経験を積んだ大人の言葉は、優しい重さがある。  乾燥した手でサンタクロースを折りながら、みほこ先生は続けた。 「何かに夢中になったら、本気で向き合う姿勢も大事。向き合ったという経験が一つのかけがえのない財産になるから。失敗してもいいの。失敗?大いに結構よ。失敗なんて怖いもんじゃないんだから」  頑張りなさい!と背中を強く叩かれた。結構痛かったが、それは心地良い痛みだった。  俺は二人に礼を言い保育園を出た。  冬の始まりを夜空の星々が物語る。息が微かに白い。  今の自分を取り巻き、絡み合う悩みは、俺一人ではどうしようもない。考えても堂々巡りで、ただ落ち込むばかりだ。  自信がつけば、どうにかなるのだろうか。  思えば俺は夏樹さんに言っていた。 『夏樹さんも好きなものを見つけたらきっと本気出して描けるようになると思いますよ』  俺もそうならないといけないのではないか。自分の自信は、自分でつけるしかない。 「……やってみるか」  やけに大きい独り言だった。  夜の冷気が肌を刺す。でも気分は妙に爽やかだった。

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