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好きなものなんか、ない

 部室棟を出る頃には外はすっかり夜になっていた。秋の夜空は忌々しいほど星がよく見える。空気は少し肌寒かった。もう残暑は消え失せ、風が運ぶ季節の匂いも秋のものになっていた。  恵介先輩と話した後で部活に参加したものの、練習に身が入らないまま終わった。シュート練習はぐだぐだ、パスは落とす。恵介先輩が練習にいたら、確実に帰らされていた。  心の靄はどんなに体を動かしても消えることがない。時間の経過とともに靄は一層濃く、俺の心を覆い尽くすだけだった。  なぜ、こんなに悩まなきゃいけないんだろう。  なぜ、こんなに心が乱れるんだろう。  生まれて初めての感情を処理しきれなかった。  駐輪場へ向かうためキャンパスを隔てる二車線道路方面へと歩を進める。ふと西棟が視界に入った。一部の階が、まだ明るかった。あの建物は芸術学部の教室があったはすだ。  まだ、いるだろうか……俺は駐輪場ではなく、横断歩道を目指して歩き出した。  西棟は東棟とは異なる雰囲気に包まれていた。騒々しい東棟と比べて落ち着きがある。たむろしている学生の数も少なかった。廊下を進むと、ところどころに絵画や彫刻、掛け軸が飾られている。階段を上っていると、画材やキャンバスを抱えて下りてくる学生と何度かすれ違った。さらに階段を上り、三階に着く。小さな案内図には『アトリエ』と書かれていた。  一つ一つ部屋を覗き込む。彫刻を彫っている者、友人をモデルにしてデッサンをしている者、粘土を捏ねている者……様々だった。一番奥の部屋を覗く。他の部屋より、少しだけ明かりが乏しい。その中に、見慣れた淡い金髪の後ろ姿があった。  床にはトートバッグが投げ出され、画材が散らばっている。彼は椅子に座り、キャンバスに絵を描いていた。  声をかけられる雰囲気ではない。音を出さないように、一歩室内に足を踏み入れた。彼の手が止まる。ゆるりと振り返り、紅茶色の瞳が俺を捉えた。 「あ……こんばんは」  間抜けな挨拶をする。夏樹さんは表情もなく唇だけを開いた。 「……何?」 「いや……部活終わって駐輪場行く途中で、この棟が電気ついてたから気になって」  嘘をついていないのに、なぜか嘘っぽく聞こえる。本当はそれだけじゃない。夏樹さんがいるかと期待してやってきた。そこを隠す自分の狡さに呆れてしまう。  今の夏樹さんは腕捲くりした大きめのパーカーに、汚れたエプロン姿。絵を描くための服装だ。そのせいだろうか。いつもより浮世離れした雰囲気が、さらに際立っていた。 「芸術学部ってこんな遅くまでみんなやってるんですね。教育学部だと見ない光景だなぁ」 「締め切りがあるからな。ここは材料も含めて環境が整っているから、家じゃなくてアトリエで課題を仕上げる」  確かに、アトリエと呼ばれる教室内は様々な画材や道具が棚に納められていた。同じ物を自分で揃えるとなると無理があるだろう。 「電気、もう少し明るくしないんですか?」 「俺はこのくらいがいい。明るすぎると目が疲れる」  そう言って、彼はまたキャンバスに向き直った。キャンバスに描かれていたのは、たくさんのリンゴだった。テーブルの上から床に転がり落ちていく様子を描いている。それを床から見上げた構図だ。止まっているのに、動いているように見えた。躍動感がある……と言うのだろうか、こういうのは。  夏樹さんの後ろから絵を覗き込み、思わず呟いた。 「なんか、バスケットボールが落ちてきてるみたいに見えますね」 「何それ。そんな感想聞くの、初めてなんだけど」  彼が小さく笑った。俺も、そんな笑い方されるの初めてなんだけど。いつもの人を食ったような笑い方ではなく、柔らかなものだった。  こんな顔をすることもあるのか。胸に温かなものが広がる。 「こういう果物とか描くの好きなんですか?」 「別に。適当。リンゴじゃなくてスイカでもいいし、みかんでもいい。赤い絵の具が余ってたからリンゴにしただけ」  適当に描いてこの上手さなのか。だが、この吐き捨て方だ。本気で描いているとは思えない。  リンゴに赤い絵の具を重ねていく。雑に見えるが、キャンバスに触れる絵筆の扱いは繊細だ。 「好きなものなんかねぇから、適当に描いてるだけ」  まるで独り言のようだった。キャンバスを見つめる瞳が儚い。  その儚さが、美しいと思った。 「適当に描いて、単位取って卒業する。そんだけ」 「進路とか、どうするんですか?」 「さぁね。考えてない」  あまりにも刹那的すぎる言葉だった。彼らしい……といえば彼らしい。 「お前は?まだ二年のくせに考えてんの?」 「俺は……一応ですけど、幼児体育指導者になりたいなって」 「何それ」 「幼稚園や保育園で、鉄棒や跳び箱を教える体育の先生です。あと子供向けのスポーツ教室の先生とか」  ふぅん、と彼は呟き絵筆を止める。俺の方に座ったまま向き、じっと見上げた。 「教育学部ってそういう勉強すんの?」 「俺の専攻だと、そうですね。でもそれだけじゃ不足かなって思って……保育士資格取ろうかなとも考えてます」 「……結構ちゃんとしてんじゃん」 「俺、子供好きなんです。昔からそういう仕事したかったから」  適当な椅子を引き寄せて、夏樹さんの隣に座った。ふわりと彼から絵の具の匂いがした。 「なんで、そんなの目指してんの?別に小学校の先生でもいいじゃん」 「教壇に立つより、俺に合ってると思うんですよ。あと……俺、小学生の頃に“ユウくん”って友達がいたんです。その子は療育に通ってたんですけど、療育先で体動かす運動遊びが楽しいってよく話してくれたんです。そのせいですかね。“できない子”が“できることが増える”瞬間に、俺も一緒にいたいなと思って。好きなことというか、情熱を込められるものを仕事にできたら幸せかな」  こんなことを話したの、初めてかもしれない。恵介先輩にも井上先生にも、話したことがない。なぜか夏樹さんには、聞いてほしいなと思った。  彼はただ静かに俺の話を聞いていた。それが少し嬉しかった。情事以外の時間を、今こうして共有している。 「そっか……色々考えてんだな」 「夏樹さん、絵描くの好きですか?」 「別に。適当だから」 「俺、絵のことは分からないけど、夏樹さんも好きなものを見つけたら、きっと本気出して描けるようになると思いますよ。今と感覚が違ってくるかもしれない。俺、夏樹さんの絵。すごく好きですよ」  夏樹さんはキャンバスの絵を見つめ、僅かに俯いた。少しだけ微笑んでいるように見えた。  会話が途切れた。でも、気まずい沈黙ではなかった。遠くに聞こえる学生たちの声や足音、そして夏樹さんの絵を描く音がアトリエに響いていた。心地良い沈黙が、時間とともに過ぎていく。  絵に向き合う夏樹さんの横顔は穏やかだった。この表情をもっと……ずっと眺めていたい。  この人の隣にいたいと、俺は強く思っていた。

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