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2 後悔したくない

 颯は朝から大きなため息をつく。  今日は朝から失敗ばかりだ。まずはいつもの電車に乗り遅れて遅刻ギリギリになり、仕事中にはネームプレートが外れて洗い場の下水の側溝に落ちた。  そして今度は、側溝の中を探し回ったせいで、ちょっと臭うかもしれない汚れた体のまま、結城に会いに行かなければならない。  諒大に言われたのだ。今日は企画部が企画したホテル主催のイベントが宴会場で行われるから、そこにいる結城にカードキーを手渡してほしいとのことだった。  そう言われてから、カードキーを返すときにもう一度、諒大に会えるかもしれないと期待していた自分自身に気がついた。  なんて浅ましいのだろう。  そうじゃない、諒大のことは好きにならないんだといつもの呪文を唱えて、気持ちを切り替える。  それにしても結城は、カギを預けても構わないと思うくらいに諒大から信頼されているようだ。さすがは幼馴染。知り合ったばかりの颯とは付き合いの長さが違う。  結城との約束の時間は十四時三十分。場所は宴会場と厨房を繋(つな)ぐ通路だ。その時間になれば颯の仕事が一段落して休憩に入るから、結城はそれに合わせて来てくれるらしい。  颯の前の人が休憩から戻ってきて、交代で颯が休憩に入ろうと思ったとき、瀬谷が颯に近づいてきた。 「七瀬くん、お願いがあるんだけど」 「はい」 「ちょっとこっち来て」  瀬谷に呼ばれて、颯は食洗機の音があまり聞こえない静かなところへ連れて行かれる。 「今度ね、宴会調理課のみんなで新人歓迎会しようって話になってるんだけどね」  瀬谷の声は最初のころとまったく違う。颯が諒大の知り合いだと知ってから、手のひらを返したような態度で颯に接してくるようになった。ニコニコしすぎてちょっと怖いくらいだ。  どうやら瀬谷は、颯が諒大の知り合いというだけで、『使える奴』と判断したらしい。  諒大が颯を迎えに来た次の日、颯は職場の人たちに質問攻めにされた。  諒大とどんな関係なのか聞かれて、「僕が転んだときに、たまたま近くにいて助けてくれただけです」と答えた。それでも周囲は納得してくれず、事あるごとに諒大の話をされる。諒大がどれだけ注目されているのかを思い知らされる。 「できたらね、七瀬くんにも参加してもらいたいんだけど」 「でも、僕、正社員じゃないですし……」 「いいの、いいの、アルバイトの人も呼ぶことにしたから」  瀬谷は「ぜひ来て」と颯の肩を叩く。 「それでね、七瀬くん、西宮室長を誘うことってできる? 別に室長を狙ってるわけじゃないの。だって室長には幼馴染のオメガがいるって噂だもの。ただちょっとお話ししてみたいなって思ってて。ね、お願いっ」  瀬谷からの期待を込めた眼差しを向けられる。  そんなことだろうなと思っていた。瀬谷の目的は、諒大を歓迎会に呼んでお近づきになることなのだろう。颯が来ても来なくても、諒大さえいれば颯に用はないということだ。 「むっ、無理です!」 「そんなこと言わないで、声をかけるだけ、室長に聞くだけでいいから」 「うーっ……」  諒大だって嫌に決まっている。多忙だろうし、宴会調理課の飲み会にいちいち顔を出している暇なんてないと思う。 「だって室長の連絡先知ってるなんて、すごいことだから! 室長は誰が聞いても教えてくれないって有名なのに」 「そっ、そうなんですか……?」  知らなかった。向こうから積極的に教えてきたから、諒大は社交的なタイプで、友だち千人みたいな感じだと思っていた。 「ね! 聞いてみるだけ! 西宮室長は未来の社長さん。これからどんどん遠くに行っちゃう人なんだから!」 「僕なんかが声をかけてもどうせ断られますよ……」  何度断ってもしつこく諒大を誘うように言われてしまい、「期待しないでくださいね」と仕方なしに瀬谷からの頼みに頷いた。そうしないと、いつまで経っても解放してもらえないからだ。  颯は連絡する気などない。諒大に迷惑はかけたくないから、連絡して断られたことにしてしまおうと考えた。  休憩に入るのが約束の時間より少し遅くなってしまい、颯は急いで通路に向かった。しかし、約束の場所に結城の姿はない。 (僕が遅れちゃったからかな……)  スマホの時計を見ると十四時四十分とある。約束の時間に颯が来なかったから、忙しい結城は宴会場に戻ってしまったのかもしれない。  颯の格好は薄汚れたコックコートだ。アルバイトの颯に当てがわれたコックコートは誰かの使い古しで、洗い場にいるぶんには構わないが、宴会場に出ていくには憚(はばか)られる格好だ。  ここでずっと待っていても埒(らち)があかない。コソッと覗(のぞ)いてみるだけなら、と颯は宴会場への扉を開く。  宴会場には誰の姿もない。静かな無人の会場は煌びやかに同じトーンの装飾で整えられている。 「うわぁ……」  シャンパンゴールドを基調とした色合いの会場には、白い花々が壇上や各テーブルにふんだんに飾られている。落ち着いたダークブルーのテーブルクロスの上に、よく磨かれた絢爛(けんらん)な食器とグラスが光を反射してキラキラと光っている。これはウェディングパーティーのための設えのようだ。  そうだ。今日はホテル主催のブライダルフェアが行われている。ここは、そのために式場コーディネートの例として飾られた部屋なのだろう。 「すごく綺麗だなぁ……」  結婚式なんて颯には夢のまた夢。人と話をするのもやっとなのに、こんな自分と人生を共にしたいと思う稀有(けう)な人はいないだろう。  ここには颯の他には誰もいない、と思っていた。でもよく見たら、部屋の隅に男の子がひとりしゃがみ込んでいる。  十歳くらいの男の子だろうか。襟付きの白いシャツにきちんとしたズボンをはいて、よそ行きの格好をしている。もしかしたら親戚の結婚式に親とともに参列していて、迷子になったのかもしれない。  男の子を見て、ハッと颯は巻き戻り前のことを思い出した。  この子には、巻き戻り前にも会ったことがある。  シチュエーションは少し異なる。巻き戻り前はホテルの廊下で出会った。男の子は、母親らしき女性に腕を掴(つか)まれて無理矢理歩かされていた。  その姿に違和感を覚えたが、あのときの自分は話しかける勇気もなくて、結局何もしなかった。  そんなことがあったあと、どうして何もしなかったのだろうとあとになって後悔したが、その後、すれ違っただけの男の子には一度も会わなかった。  男の子がすがるような目でこちらを見ていた一瞬の表情を、今でも覚えている。  あのときの後悔を二度としたくない。  せっかく巻き戻れたのだ。今度こそ後悔のないよう人生を過ごしたい。  颯はおもむろに男の子へ近づいていく。 「君、どうしたの? もしかしてお父さんとお母さんとはぐれちゃった……?」  颯が声をかけても、男の子は怯(おび)えている様子だ。一瞬だけ確認するようにチラッと颯を見たが、すぐにまたうつむいてしまった。 (昔の僕を見てるみたいだ……)  颯は大人に話しかけられると、怖くて恥ずかしくてなんの反応もできなかった。でも心の中は『どうしよう、何か喋らないと!』でいっぱいで、自分的には大パニックになっている。  あのときの自分がどうしてほしかったのかと考える。  返事をするまでに人の何倍も時間がかかるから、「早くしなさい!」「人の話聞いてるの!」と怒鳴らずにゆっくり待っていてほしかった。この男の子も颯と同じく、颯に話しかけられて心の中が大パニックを起こしているに違いない。  颯は何も言わずに男の子の隣にしゃがみ込む。  じっと静かに返事を待った。すると男の子はゆっくり口を開く。 「お、うちに帰りたい……」 「おうちに帰りたい?」  どういうことだろうと颯は逡巡(しゅんじゅん)する。披露宴会場にいるのが疲れてしまった、ということなのだろうか。 「立てる? とりあえずここを出て、お父さんとお母さんのところに行こうか」  颯が促すと、男の子はゆっくりと立ち上がり、颯の腕に縋(すが)るようにしがみついてきた。  その様子もかつての自分と重なる。悪いことをして、施設のお仕置き部屋に閉じ込められるとき、あの永遠に続くような暗闇の中に連れて行かれるのが怖くて、誰でもいいから縋りつきたくて仕方がなかった。  男の子を連れて会場を出たとき、血相を変えてこちらに向かってくる中年の女性がいた。  その女性の姿を見た途端、男の子の身体がガタガタと震え始めた。その様子に、颯は違和感を覚える。 「ちょっと! 衣(い)緒(お)になんてことするの! 触らないで!」  女性はものすごい剣幕で颯に迫り、颯を汚いものを見るかのような目で見る。 「お母さん……」  母親と思われる女性に腕を掴まれて、引き戻されても、衣緒は抵抗しない。暗い顔でうつむいたままだ。 「ホテルの従業員が子どもを誘拐するなんて、どうかしてるわよ! 訴えてやる!」 「えっ……! あの、僕、そんなことしてない……」 「じゃあこんな子どもがひとりで部屋を飛び出してここまで来たって言うんですかっ? まだ十歳ですよっ? ありえないでしょ!」  女性の勢いに押されて、颯は反論できずにオロオロするばかり。 「この子を誘拐して身代金を要求しようとしたんですか? それとも誰かに頼まれたのっ? 白状しなさいよ、何が目的? 誰に頼まれたの?」 「あ、えっ、その……」  颯の手が震える。怖い。怖くてたまらない。誰かに怒鳴られるのは苦手だ。怒鳴られたり叱(しか)られたりすることに、颯は過剰に怯えてしまう。これは幼少のころからのトラウマが影響していると医者に言われたことがある。  女性のあとから黒いスーツ姿の男がふたりやってきた。どうやら女性の味方のようで、「こいつを捕まえて吐き出させてちょうだい!」と女性に命じられると、嫌な笑みを浮かべながらじりじりと颯に迫ってくる。  颯は衣緒を見る。  衣緒は下を向いたまま、女性のそばにいる。衣緒はこの女性のことを「お母さん」と呼んでいたし、あんなに綺麗な格好をさせてもらえるのだから、きっといい暮らしをしているのだろう。  でも颯の心はざわめいている。  衣緒は、行き場のなかった幼いころの颯に似ている。自分をどこか押し殺して、大人の顔色ばかりうかがって、息を潜めているように思えるのだ。  衣緒をこのまま帰してしまってはいけない、と思った。  もちろん証拠はないし、颯の勘違いかもしれない。でも、衣緒の声にならない悲鳴が、颯には聞こえた気がした。  颯は駆け出した。そして衣緒の手を取り再び走り出す。  衣緒は大人の颯と遜色がないくらいに足が速かった。広い、長い廊下を抜けて、颯は衣緒とともにSTAFFONLYと書かれた扉を目指す。 「ふざけるな!」  それでも屈強な男ふたりにあっという間に追いつかれて、蹴っ飛ばされる。驚いたのは、蹴られたのは颯だけじゃないということだ。衣緒まで蹴っ飛ばされ、ふたりは絨毯(じゅうたん)敷の床に転ばされた。  颯は咄嗟(とっさ)に衣緒を懐(ふところ)に庇(かば)う。自分は蹴られたって殴られたっていい。でも、衣緒だけは守ってやりたかった。 「怖いよ、痛いよ、助けて……」  衣緒は震える手で颯にしがみついてくる。  衣緒は今までに普通の子どもより多く傷ついてきたのではないか。十歳にしてすでに衣緒の心は破裂しそうなくらい、たくさんの痛みを抱えているのではないか。それなのにこれ以上この子を傷つけたくない。 「こら、子どもを離せっ!」  顔を殴られ、背中を蹴られても、颯は衣緒を庇ったまま動かない。衣緒から引き剥がされそうになっても必死で耐える。  颯は戦えない。人を殴ったこともないし、ケンカもしたことがない。  でも、このままでは結局、衣緒を連れていかれてしまう。この状況から抜け出さなければと、颯は蹴飛ばされながら必死で考える。 「こら、クソガキッ! 早くこっちに来い!」  今度は男が衣緒を颯から引き剥がそうとする。衣緒はそれに抵抗し、颯を掴む手にさらに力を込めてきた。 「離す、ものか……!」  颯も必死で衣緒を抱きしめる。だが、もうひとりの男に頭を蹴られて力が緩んでしまう。  どうしよう、なんとかしなければ、と思ったそのときだった。 「お客さま! どうなさいましたか?」  誰かの声がした。その声と同時に、颯への暴力が止んだ。 「わたくしどもに不手際がございましたか?」 「そうだよ、お前んとこの従業員、頭おかしいんじゃねぇの? 子どもを誘拐しようとしたんだ。こんな奴さっさとクビにしろ」 「誘拐とは穏やかではありませんね。お客さまに不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ございませんでした。私、結城と申します。私が責任を持って対応させていただきますので。それで、どのような経緯で……」  結城という名前に颯はピクリと反応し、衣緒を抱えたままゆっくりと声の主を見る。  ダークグレーのテーラードスーツをきっちり着こなした結城は、女性と男たちに向かって物腰柔らかに、だが毅然(きぜん)とした態度で対応している。 「そいつが俺たちの邪魔をすんだよ! さっさと消えろ、クズが!」  男に罵倒を浴びせられ、颯は震え上がる。人の怒鳴り声に慣れることはない。心無い言葉は、いくらでも颯の心を引き裂いて、傷つける。 「お客さま、大きな声はお控えください。他にも当ホテルを利用されているお客さまがいらっしゃいますので」 「なんだと、お前まで俺に歯向かうのか!」  男は結城の胸ぐらを掴むが、対して結城はまったく物怖じしない。 「……七瀬さん。立てますか」 「は、はい……」  颯はあちこち痛む身体でよろめきながらも立ち上がる。 「ほら、衣緒っ、お母さんのところにいらっしゃい!」  衣緒の母親が衣緒を呼ぶ。衣緒は立ち上がったが、颯の背後に隠れるようにして、その場から動かない。 (やっぱりこの親子には何かあるんだ)  衣緒を行かせたくない。でも、証拠がない。この第六感のような曖昧な感覚を、どうやったら結城にうまく伝えられるだろう。なんとかして衣緒を助けてやりたいのに。 「さっさと謝って子どもを返せ! そこのひ弱な奴に土下座させろ!」  胸ぐらを掴んでいる男は、結城を見下し怒鳴り声をぶつける。 「悪いことをしていないなら、謝る必要はありません」 「は?」 「手を離せ」  結城は男を強い視線で睨み返す。 「手を離せって言ってんだよっ」  結城は胸ぐらを掴んでいた男の手を握り、それを自分の懐に引き込むようにして、あっという間に投げてしまった。結城より身体の大きな男は、みっともなく地面に背中を叩きつけられる。 「七瀬さん、その子を連れて早く逃げてっ」 「っふざけんな! てめぇ! 客に何すんだよ!」  起き上がってすぐに殴りかかってきた男の一撃を結城は難なくかわしてみせる。 「あ、え……」  状況はよく掴めない。ただわかるのは、結城がチャンスを作ってくれたことだ。 「衣緒くん、行こうっ」  颯は衣緒の手を掴んで従業員出入口目指して走り出す。だが、すぐさまもうひとりの男が追いかけてきた。 「逃がすかっ!」  男の繰り出した強烈なパンチが颯を襲う。 「うわっ……」  颯は恐怖のあまりに目を閉じる。強烈な一撃を覚悟したのに、飛んでくるはずのパンチが降ってこなかった。 「許さない」  聞き覚えのある声にそっと目を開けると、そこにはスーツ姿の諒大がいた。  諒大は颯たちの前に立った。諒大が現れた途端、男は後ずさる。この男は只者(ただもの)ではないと察したのだろうか。 「いかなる理由があろうとも、うちの大切な従業員を足蹴にするような態度の悪い客は要らない。もう二度とうちのホテルに来るな。さっさと帰れ」 「んだとっ、テメェッ!」  男が諒大に殴りかかるが、諒大はその手を掴んであっという間に男を捻り上げてしまった。 「痛って、痛って!」 「あまり暴れると骨が折れますよ」 「ぐぁっ!」  諒大は強い。男は諒大の捻り技から解放されたものの、地面に倒れたきり腕をさすって痛がっている。 「だってそいつは誘拐犯なのよ! 衣緒を返してちょうだい!」  女性が諒大に訴えるも、「そんなことするわけがない」と諒大はまったく聞き入れない。 「うちの従業員に言いがかりをつけるのはやめていただきたい。俺はあなたたちの正体を全部知ってるんですよ? オメガ人身売買は違法行為です。時代錯誤も甚だしい」  諒大の言葉を聞いた瞬間、女性が青ざめた。 「結城。九番」 「はいっ!」  諒大が結城に命ずると、結城がすかさずスマホを取り出しどこかへ連絡を始めた。  九番というのはこのホテルの従業員内で使用されている隠語だ。九番は『警察を呼べ』の意となる。 「なっ、何をわけわかんないこと言ってるの……?」  動揺する女性に諒大は一歩近づく。 「俺はすべて知っています。飯塚(いいづか)麻(ま)弥(や)さん、実の息子がオメガとわかったら即座に手放すんですか」 「なんで私の名前を……!」  飯塚が驚くのも無理はない。諒大は飯塚と初対面のはずだ。それなのになぜ名前がわかったのだろう。 「闇ブローカーのコードネームはICHIですよね? 衣緒くんを引き渡してもそいつからは金を受け取れませんよ。ICHIは前金の五万円だけ払って逃亡しますから」 「はぁっ? 何言ってんのあんた……」 「今すぐやめなさい。ブローカーに子どもを売って、子どもが行方不明になったと悲劇の母親を演じても無駄です。すぐに見抜かれてSNSは炎上ですよ」 「ふっ、ふざけたこと言わないで!」  飯塚は必死で取り繕うとしているが、諒大の言うことがすべて的を射ているため、反論ができないようだ。  三人が逃げようとしたところで、ホテルの警備員たちがズラリと現れて退路を塞ぐ。 「さぁ、警察が来るまで警備員室で待機していただきましょうか。……こいつら三人を連れて行け!」  諒大の容赦ない命令に、三人は警備員たちに押さえつけられる。 「ちょっ、と……! 離しなさいよ!」  飯塚たちは、みっともない抵抗も虚しく、警備員たちに取り押さえられどこかへ連れて行かれた。 「お兄さん。あの……あ、ありがとう……」  衣緒が颯の服の裾を指でつまんで引っ張りながら、か細い声で礼を言ってきた。 「僕は何も……衣緒くんが頑張ったんだよ」  これは衣緒の頑張りだと思う。衣緒には、嫌なことに反抗して逃げ出す勇気があった。だから颯に出会った。 「ううん、お兄さん、すごくあったかかった……」  衣緒がニコッと笑顔を見せる。その少し不器用な笑顔が、颯の心を熱くさせた。  またひとつ、未来が動いた。  何もできなかった自分から、一歩踏み出したら、衣緒が笑ってくれた。 「鼻血、出てるけどね」 「えっ! あ! ごめんっ」  颯は慌ててズボンのポケットからティッシュを取り出して鼻に詰める。そんな颯の様子を見て、また衣緒が笑った。 「颯さん、大丈夫ですか!」 「わっ、諒大さん!」  颯のもとに駆け寄ってきたのは諒大だ。傷だらけだし、鼻にティッシュを詰めているし、こんな酷い姿を諒大に見られるのはめちゃくちゃ恥ずかしい。 「颯さん」  諒大はジャケットを脱いで、颯の肩にふわっとかけた。  諒大のスーツのジャケットは大きくて、いい匂いがして、それに包まれると心地がいいと感じた。颯から、さっきまでの緊迫感が抜けていく。 「背中が足跡だらけです。どこか痛むところは?」  颯の目の前で身長を合わせるために屈んだ諒大は、颯の具合を確かめるように顔を覗き込んでくる。その顔があまりにもかっこよくて、つい見とれてしまう。  諒大はどこからどう見てもかっこいい。横顔も、真っ正面から見つめてくる顔も、遠くから見ていたってかっこいいとわかる。 「颯さん、怖かったですよね……遅くなって申し訳ありませんでした。俺はいつもこうだ。本当に間の悪い男で、自分で自分を叱りつけてやりたい」  諒大がこの世の終わりかのような顔をする。  こうして助けに来てくれたのに、大袈裟に謝ってめちゃくちゃ落ち込んでいる諒大の様子がおかしくて、颯は思わず「ふふっ」と声を出して笑った。 「全然遅くないです。だって僕は無事だし、痛いところなんてひとつもありません。大袈裟だなぁ、諒大さんは」  颯は、そのように笑顔で言ったのに、なぜか諒大の目からひと粒の涙がこぼれる。 (えっ! なんで泣くの……?)  颯が何か言葉を間違えたのだろうか。本当は背中がめっちゃ痛いのに、痛くないなんて言ったから可哀想なオメガだと同情された? それとも涙が出るくらい颯の姿がみすぼらしかった? 「よく見てください。鼻にティッシュなんか詰めちゃって、おかしいでしょ? なんか、僕、諒大さんには転んだり、鼻血出したり、いつもかっこ悪いとこばっかり見られてますね……」  諒大に笑ってほしくて自虐ネタを言うと、諒大はサッと涙を拭って笑顔をみせる。 「そうですね。俺はいつも間が悪い。颯さんのかっこ悪い場面ばかりに遭遇してすみません」  諒大の笑顔を見て、颯はホッとする。  よかった。笑ってくれた。涙にびっくりしたが、なんとか元気になってくれたみたいだ。鼻にティッシュを突っ込んだ姿も役に立つことがあるらしい。 「颯さん。医務室に行ってください。課のほうには俺から事情を伝えておきます」 「だっ、大丈夫ですっ」 「ダメだ。あなたの大丈夫はあてにならない。医務室が嫌なら俺の部屋に来ますか? 俺が手当てします」 (それって、諒大さんの前で貧相な身体を見せるってことっ?) 「む、無理です! それはちょっと……」 「じゃあ医務室に。結城、付き添い頼めるか? 俺は衣緒くんをフォローする」 「わかった。諒大、任せて」  結城は「七瀬さん、歩けますか?」と颯に手を差し出してくる。 「諒大さん、衣緒くんは……」 「衣緒くんの今後は俺に任せてくれませんか。大丈夫、衣緒くんにとって最善の形になるようにします」 「はい。よろしくお願いします」  諒大ならば信頼できる。それに諒大は以前からこの件に関して目をつけていた様子だった。颯よりも深く事情を理解しているだろう。 「また連絡しますね、颯さん。衣緒くん、少しお話を聞かせてもらってもいいかな」  諒大は衣緒を連れて、スタッフ専用の扉の向こう側へと消えていった。  結城に付き添われて医務室に向かうことになった颯は、時々ふらつく身体を見守られながら、ゆっくりと廊下を歩いていく。  颯の身につけているコックコートは、背中は足跡だらけ、前は鼻血のせいで汚れている。それらを隠すために、颯は諒大が貸してくれたジャケットを羽織っている。  結城と諒大が助けに来てくれて本当に助かった。  諒大は、以前から飯塚たちのことを調べて知っていたのだろうか。名探偵さながらズバズバ言い当てて、相手は反撃の余地もなかった。アルファの能力は高すぎるから、平凡以下の颯には、頭のいい人の思考はよくわからない、 「結城さん、すみません。迷惑ばっかりかけてしまって……」 「そんなこと気になさらないでください。大丈夫ですよ。諒大に言われてやってるってことにすれば、これも仕事のうちになりますし」  結城は可愛い顔をクシャッとさせて笑顔になる。  なんだろうこの愛らしさは。同じ男オメガの颯でもキュンとしてしまうくらいの笑顔だ。  こんなに可愛い顔でにっこり微笑まれたら、ホテルの客だけでなく、どんなアルファでも虜にしてしまうことだろう。 「結城さん、さっきは僕と衣緒くんを逃がしてくれてありがとうございます。どうして僕の考えがわかったんですか?」  結城は颯を庇ってくれた。怒鳴り散らかしてくる男たちに勇敢に立ち向かってくれた。それがどれだけ嬉しかったか。 「だって七瀬さんが子どもを誘拐なんてしませんよ。それに男の子の様子を見てわかりました。あの子は母親ではなく七瀬さんに必死にくっついていました。理由まではわかりませんでしたが、僕は七瀬さんを信じることにしたんです」  とびきりの笑顔を向けられて、ドキッとする。  結城は本当に綺麗だ。間近で見るとドキドキするくらいに。 「結城さんて強いんですね。さっき大きな男の人を投げたとき、かっこいいなと思いました」  可愛いのに強い結城の姿に、すっかり颯は感心してしまった。あんな素敵なオメガになりたいなと憧れる。 「そうですか? ありがとうございます。護身術を習っているんですよ。諒大に誘われて。諒大は『お前はオメガだから自分の身は自分で守れるようになっておけ』とか言って、僕まで巻き込んで……本当に自分本位で迷惑な男ですよ」  あはは、と嬉しそうに諒大の話をする結城は幸せそうだった。諒大との絆を感じるし、気遣いのできる諒大が結城にだけは腹を割って話せるんだなとふたりの仲を羨ましく思った。 「そうだ、これっ」  颯はスマホケースの中にしまっていた諒大のマンションのカードキーを取り出す。 「諒大さんに……渡してください」 「そうだった! 僕たち、そのために待ち合わせしてたんですよね。いろいろありすぎて、すっかり忘れてた。ぴえん」  両手をグーにして目をウルウルさせるあざといぴえんポーズまで可愛いなんて結城はすごい。こんなに可愛いオメガと御曹司アルファが幼馴染だなんて、本当によくできた話だ。 「はぁ……」  巻き戻り前の自分は、どうしてこんな人に勝てると思ったのだろう。運命の番だからって、無理に決まっている。どちらが諒大に相応しいか一目瞭然。隣に並ぶことすら恥ずかしく思うのに。 「諒大のマンションの鍵を持ってるなんて、ふたりはどういう関係なんですか?」 「えっ?」 「諒大のマンションに泊まったんですか。それで、朝、諒大が先に出て、あなたに鍵を預けたんですか?」  結城は盛大な勘違いをしている。諒大のマンションなんて泊まってもいないのに。 ●・○・●・○・●・○・●・○・●・○・●・○・●・○・●・○・●・○・ 試し読みはここまでになります。 続きは10/3(土)より各書店にて配信スタート!

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