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1 二度目は好きにならない-2

 あれから一週間。  諒大とは一度も会っていない。  それでも颯の気持ちは落ち着いている。よかった。もっと心が諒大に会いたいとざわめくかと思っていたから、平常心で暮らせることに安堵(あんど)する。  きっと忘れられる、きっと忘れられると颯は自分自身に言い聞かせる。世の中のアルファやオメガは、運命の番に会わずに一生を終える人たちばかり。だったらきっと大丈夫なはず。  このまま運命なんてなかったことにしてしまえばいい。  出会ってない。自分の運命の番が誰かなんて知らない。  アルバイトは初日から行けなくなってしまったが、なんとかクビにならずに済んだ。  颯のアルバイト先はカナハホテルの宴会場の厨房(ちゅうぼう)の皿洗い係だ。  日雇いバイトで知り合った大学生のベータの岸屋(きしや)が「仕事はキツいけど、時給はそこそこよくて時間の融通が効く」と誘ってくれたのだ。  体調に合わせて仕事をしてくれればいいと、颯は非正規雇用で短めのシフトで働いている。  仕事の時間が短くて済むのは嬉(うれ)しい。ただそのぶん収入も下がるので、そこは苦しいところだ。  奇しくもここは諒大の父親が経営するホテルだが、経営陣は隣の別棟で仕事をしている。だから諒大に会う心配はないだろう。  颯は覚えもよくないし、テキパキ仕事をするのは苦手だ。でも、とにかく頑張らなくては。ここはやっと手に入れたアルバイト先だ。 「ごめんなさい。迷惑ばっかりかけて……」  今もひとり慌ててしまい、お皿を割ってしまった。そんなに混んでもいないのに、ちょっとお皿が溜(た)まるだけでどうして無駄にアワアワしてしまうのだろうと、あとになって後悔が押し寄せてくる。 「ここはお皿を割るたびに罰金だから」  厨房で働く正社員の瀬谷(せや)に見下ろされ、颯は肩をすくめて縮こまる。  濃いめのメイクのベータ女性の瀬谷は上昇志向が強いのか、何かとチーム内で目標を掲げたり、足を引っ張る者を毛嫌いする。役に立たないコミュ障の颯は、当然のように嫌われていると思う。  いつもこうだ。どこにいたって颯は厄介者で、今すぐ消えていなくなりたい気持ちになる。 「何その陰気臭い顔。笑顔が変。ヘラヘラしてなんなの、もっと反省したら?」 「ごめんなさい……」  颯は謝るばかり。ノロマな自分がいけないのだから、反論することもできない。  散々瀬谷に責められて、落ち込みながらロッカールームで着替えをしていると、誰かがぽんと颯の肩を叩く。 「大丈夫ですよ。まだここで働き始めたばっかりなんだから」  励ましてくれたのは、颯にアルバイトを紹介してくれたベータの岸屋だ。岸屋は、入ったばかりの颯の指導を主に担当してくれている。  明るい茶髪に糸目の岸屋は、笑うと目が一本線になる、人がよさそうな人相の男だ。 「岸屋くん、ありがとう」 「瀬谷さんは誰にでも厳しいから」 「そうなんですか」 「そうです、俺も新人のころはコテンパンに言われましたよ」  岸屋は笑顔で、食洗機の使い方を怒られたとか、遅刻を咎(とが)められた話など失敗談をいろいろとしてくれる。  そうやって颯を励まそうとする、岸屋の優しい気持ちが嬉しい。怖い人だらけの職場を覚悟していたから、心を許せそうな同僚がいることにホッとする。 「僕は笑顔が変って、ヘラヘラしてるって言われちゃいました……」 「七瀬さんはちょっと力が入りすぎてるかも。もっと肩の力を抜いてみたらいいんじゃないですか」  岸屋に引きつった表情を指摘されて、一生懸命に笑顔を作ってみせる。でも颯は自分の笑顔には自信がない。笑顔こそ人とのコミュニケーションの第一歩だとわかっているのに、どうしてもうまく笑えない。 「んー……。大丈夫、七瀬さんはこれからできるようになりますよ。今日は初日なんですから緊張しますよね」  岸屋は諦めたみたいだ。きっと、颯のあまりの出来なさ具合に呆(あき)れているのだろう。  年下の大学生のほうがよっぽど仕事ができるし頼りになる。自分のポンコツさにガッカリするが、このくらいでへこたれていては、この先やっていけない。颯は頑張らなくちゃ、頑張らなくちゃと心の中で呪文を唱えた。  今日のアルバイトを終え、颯はクタクタだ。ひとり暮らしの安アパートへと帰ろうと従業員出入り口を出たとき、目の前に手すりに寄りかかっているスーツ姿の男がいた。  ひと目見て、アルファとわかるそのスマートさ。ここまでレベルの高いアルファはそうそういない。  他の社員たちも諒大の存在が気になっているようで、挨拶をしたり、不思議そうな目で見たりしている。  それも当然の反応だと思う。社長の息子である諒大のことは、このホテルに働いている者なら誰でも知っているだろう。 (なんで、こんなところに諒大さんがいるの……?)  思わず颯の足が止まる。諒大にはもう会わないつもりでいたのに。 「西宮室長! こんなところでどうなさったんですかっ?」  颯の前を歩いていた瀬谷が、諒大に驚いて声をかけた。 「人を待ってるんだ。気にしないで」 「どこの部署の社員ですか? 私、呼んできましょうか?」 「いい。大丈夫。待つことには慣れてるから」  諒大は瀬谷を軽くあしらう。瀬谷はさっきまでの颯に対する態度とは打って変わって猫撫(ねこな)で声だ。瀬谷はアルファ好きだと聞いたが、諒大は上位アルファだから興味があるのかもしれない。  世の中には『長いものとアルファには巻かれろ』という言葉がある。アルファにすり寄っておけば、人生万事うまくいくこと間違いなしだ。それはオメガだけじゃなく、ベータにとっても言えることだ。  まさかとは思う。でも、諒大とは目を合わせないほうがいいと、颯の頭の中で危険アラームが鳴っている。 (ここは、見つからないように……) 「颯さんっ」 「わぁっ!」  人混みに紛れて通り過ぎようとしていたのに、諒大に見つかってしまった。  諒大が待っていたのが颯だと知り、瀬谷は驚愕(きょうがく)している。  颯を見る諒大の目は、決して優しくない。 「俺、ずっと連絡を待ってたんですよ」 「えっ?」 「俺をどれだけ待たせたら気が済むんですか? こんなに俺を放置した人間なんて、今までにあなたしかいない」 「なっ……!」  諒大の目がやばい。ここには人の目があるから理性を抑えているのかもしれないが、今にも取って喰(く)われそうな目つきだ。 「仕事ができるなら安心しました。でも、その後の体調のことだけでも連絡くれてもいいんじゃないですか? 俺、ずっと心配していました」  あのとき「気が向いたら」みたいな感じで連絡先をよこしてきたはずなのに。諒大がこんなに連絡を待っているとは思いもしなかった。  連絡をしなければ運命を変えられると思っていた。  でも諒大からの艶っぽい視線だけは変わらない。そして、諒大に見つめられてどうしようもなく高鳴る自分自身の気持ちも。 「ボタン、かけ違えてます」  諒大は、颯のジャケットのボタンを外し、ひとつひとつ丁寧に直してくれる。  ロッカーで着替えをしていたとき、頭の中でひとり反省会をしていてボーッとしていたから、ジャケットのボタンをかけ間違えたようだ。  ボタンをかける諒大の手を見つめる。  不意に、巻き戻り前の恋人だった諒大のことを思い出す。諒大の優しくて大きな手は、いつだって颯を守ってくれて、颯が望めばその腕の中に閉じ込めてくれた。 「すみませんっ。あ、ありがとうございます……」  ボタンを直されるなんて、まるで子どもみたいだと恥ずかしくなる。  ダメだ。諒大に近づかれるとオメガの本能が反応する。これからどんどんこの人を好きになるんだって全身が訴えてくる。 「できました」  諒大はにっこり微笑んだ。そんな笑顔を見ただけで、颯の心臓はドクンドクンとうるさく鳴っている。  今までこんなに強烈に惹かれる相手なんていなかった。やっぱり諒大は運命の番だからに違いない。  諒大のことは好きにならない、好きにならないと自分自身に言い聞かせる。  諒大は自分には相応しくない相手だ。客観的に見ればわかる。  再会して五分であっという間に好きになってどうするんだ。三ヶ月後、諒大は運命じゃなくて結城を選ぶとわかっている。颯はふたりの仲を邪魔しないように、諒大の前から消えなければならない。 「諒大さん……っ、僕、帰らないと……」 「わかってます。だから俺が迎えに来たんです」 「え! 頼んでない!」 「またまた。そんなこと言って。可愛いなぁ。このまま攫(さら)っていいですか?」 「えっ、あっ、ちょっと……!」  諒大に背中を押されて無理矢理歩かされる。社員たちの前で諒大と一緒にいたら、目立って噂(うわさ)になるに決まっているのに。 「なっ、なんでこんなことっ……!」 「連絡先を教えてもらえなかったら、こうやって会いに行くしかないでしょう?」 「えっ……」  まずい。これでは逆効果だ。  連絡先を教えた巻き戻り前のときは、ふたりで密かに愛を育んでいた。もちろん会社の誰にも知られることもなく。  だが、今回は違う。職場の人たちがいるのに、諒大が迎えに来るなんて思わなかった。諒大とは他人でいたかったのに、巻き戻り前よりも関係が目立ってしまっている。  颯が連絡先を教えなかったことで、未来が変わっている。  しかも、諒大から逃げたい颯にとって、よくない方向に。 「嘘っ? 西宮室長と七瀬さんてプライベートで知り合いなのっ?」  瀬谷はありえないという目で颯を見る。 「七瀬さんて、何者なんですかっ?」  岸屋も驚き固まっている。  諒大の態度に周囲は驚いている。それもそのはず、新入りの皿洗いバイトに、ホテルチェーン御曹司の諒大が付きまとっているように見えるのだろう。そんな光景はありえない。 「颯さん。俺と帰りましょう」 「えっ、えっ……?」  颯が動揺しているうちに、諒大に連れて行かれる。連行された先には諒大の愛車の白のベンツがあった。 「疲れているなら助手席で寝てていいです。寝込みを襲ったりしませんから、どうか送らせてください」  諒大は助手席のドアを開ける。 「颯さん。お願いします。俺の願いを叶えてください」 「はいっ?」  いやいやおかしい。車で送ることをこんなに懇願してくる人なんていない。 「颯さんと、この車でドライブデートがしたいんです」  たしかに諒大の愛車・メルセデスベンツS400d4MATICはピカピカの立派な車だ。でも諒大には似合っているが、ヨレヨレの服を着た颯は助手席に乗ることすら気後れしてしまう。 「お願いします。颯さん」  諒大に追いつめられて、颯はドンッと車に背中をついた。諒大は開いた助手席のドアに片手を置き、もう一方の手は颯の身体のすぐ隣。颯を閉じ込めるような体勢だ。これでは颯に逃げ道はない。 「何度言ったら俺を受け入れてくれますか? あなたに決して手は出しません。こう約束すれば俺とまともに話、してくれますか?」  諒大の真剣な眼差しに心が絡みとられる。諒大から感じるアルファのフェロモンにクラクラする。  運命の番の魅力には抗えない。この人と一緒にいたいと本能が訴えかけてくる。 「お、送るだけなら……」  颯が諒大の強烈な視線から目をそらしつつ言うと、諒大はパッと少年みたいな弾ける笑顔を見せた。 「颯さん、ありがとうございます! 早く乗って! 気が変わらないうちに!」  諒大は颯を車の中に閉じ込めるようにして助手席のドアを閉め、すぐさま運転席に乗り込んできた。  諒大との初めてのデートは、ドライブデートだったことを思い出した。  連絡先を交換したらすぐに「海沿いにいいレストランがあるんです」とデートに誘われた。諒大が運転する車の助手席に乗って、たわいもない会話をして、雰囲気のいい創作イタリアンの店でおいしい食事をご馳走(ちそう)になった。話すのが苦手な颯でも、諒大はゆっくりと話を聞いてくれたから、すごく楽しかったことを覚えている。 「颯さん、寒くないですか?」 「はい、大丈夫、です……」 「颯さん、ほら、右手に東京タワー見えますよ」 「あ……きれい、ですね……」  颯は緊張してうまく話せない。それでも諒大は「颯さんの言うとおり、綺麗ですね」と静かに頷いて、嫌な顔ひとつしない。  こんなつまらない人間と一緒にいてくれる人なんていない。諒大だって運命の番だからという理由だけで、颯を好きだと思い込んでいるのだろう。 (結城さんが、諒大さんの運命の相手だったらよかったのに)  可哀想な諒大だ。早速、運命の番とやらに惑わされているようだ。早く颯が消えないと、諒大に迷惑をかけてしまう。  諒大自身は、まだ自分の本当の気持ちに気がついていないようだが、諒大が好きになる人はわかっている。諒大はこれから運命の相手の颯を捨てて、心から好きな人を選ぶ。 「仕事、疲れました? 皿洗いって、意外と頭使いますよね。効率よく洗うためにはどうするか、とか、食洗機に入れるときの物の配置、とか」 「諒大さん、皿洗いなんてやったことあるんですかっ?」 「はい。俺、入社して最初にすべての部署を経験してますから。親父が『現場で働くすべての人を知れ』と言っていて、幹部候補は全員やっています。おかげで企画部以外の人とも知り合いになれました」 「へぇ……すごいお父さんですね」 「本当に変わった父ですよ。今度、颯さんも会ってください。面白いから」  とんでもないことを笑顔で言われても困る。諒大の父親はカナハリゾートの社長だ。そんな人に会えるはずもないし、諒大はいったい両親に颯のことをなんと言って紹介するつもりなのだろう。 「お父さんがいるってどんな感覚なんでしょうね……僕、両親に捨てられちゃったから、よくわからなくて……」  これは施設に入ってから、施設長に言われて知ったことだ。「お前はどちらの両親も親権を欲しがらずに、行き場がなくてここへ来たんだ」と、怒鳴られついでに衝撃の事実を聞いてしまったのだ。  颯の母親はオメガだったらしい。ヒートを起こしてしまったときに、心無い人に襲われてお腹に颯を身籠った。  颯の母親を襲った男は「あれは事故だった。オメガに誘われただけ。俺は悪くない」と言い逃れして、無罪放免。襲われたオメガの母親は「あんな男の子どもなんて見たくもない」と颯を施設に預けたっきり。  颯は、ヒートにより望まない妊娠をしたオメガの息子だった。  施設の他の子には親との面会の時間があるのに、自分にはない理由はこれだったのだと、このときひとり静かに悟った。 「俺と結婚すれば、家族がどんなものかわかるんじゃないですか?」  諒大はハンドルを握りながら、世間話みたいにさらりと言った。会ったばかりなのに、プロポーズともとれる言葉を。 「颯さんなら俺の両親にも気に入られると思います」 「そっ、そんなことない……」 「いいえ。俺の両親はアルファとオメガで、運命の番だったらしいんです。だからふたりはすごく仲がいいです。『運命のアルファとオメガのおしどり夫婦』ってテレビ取材が来たこともあるくらい」 「へぇ……」  おしどりは、実は夫婦仲はよくないことを不意に思い出した。  おしどりは一夫多妻だ。巣作りは一緒にするし、オスは番になったメスにべったりくっついているが、夫婦でいるのは交尾の時期のみ。  派手な見た目のオスは地味なメスを孕(はら)ませたらそこで役目を終え、次のメスのところへと羽ばたいていってしまう。  人も同じ。アルファはいくらでもオメガと番うことができるが、オメガはできない。一生に一度、たったひとりのアルファとしか番えない。番ったアルファに捨てられたらオメガの人生は終わり。多くのオメガは経済的にも身体的にもアルファに依存して生きているためだ。  捨てられて番を失ったオメガは新しい番を持つこともできずに、筆舌に尽くしがたい人生を送ることになる。  『アルファ選びは慎重に』なんて言葉もある。アルファに捨てられるとわかっているなら、最初から離れたほうが賢明だ。 「だから俺も、アルファに生まれてきたからには、運命の番に出会えたらいいなとずっと思っていたんですよね」 「う、運命の番ですか……」 「ええ、運命の番です」  諒大の含みのある言い方が気になるが、あえてそこには触れないでおく。  諒大と運命の番だなんていまだに信じられないし、そんな事実はなかったことにしたいくらいだ。 「颯さんは気づいてますよね?」 「な、何にですか……?」 「俺の気持ちです」  首都高を降りて国道の信号待ち。諒大は颯を愛おしそうな目で見る。  そんな目で見つめられたらたまらない気持ちになる。今すぐ運命に流されてしまいたくなる。 (なんのために巻き戻りの人生を送ってるんだ)  この恋は、最初から叶わないとわかっている。せっかく未来がわかるのに、諒大に惹かれている場合じゃない。  颯はサッと視線を下に落とす。これ以上見つめ合ったら妙な空気になってしまいそうだったから。  思い出した。巻き戻り前は、ドライブデートの帰り際に諒大にキスされた。それで「付き合ってください」と言われて恋人同士になった。  今回はデートというより、諒大に家まで送ってもらっているだけだ。それでも似たようなシチュエーションに颯は落ち着かない。 (告白されたら断る。告白されたら断る……)  颯は告白されてもいないのに身構える。今から覚悟しておかないとついつい頷いてしまいそうだ。 「……なんでもないです。オメガから見たら、アルファは怖いですよね。いつ襲ってくるかもわからないんだから」 「そっ、そんなことは……っ」  颯は指いじりをしながらおずおずと答える。 「アルファに、よります……世の中には怖いアルファと、怖くないアルファがいます……」 「あっはっは。そうですね。俺もそうです。世の中には可愛いオメガと可愛くないオメガがいると思います」  諒大は楽しそうに笑う。  信号が青になり、諒大は前に向き直って車を走らせた。 (可愛いオメガかぁ……)  颯はそっと諒大の美しい横顔を盗み見ながら思う。可愛いオメガとは、颯とは真反対の明るくて笑顔の素敵なオメガのことを指すに違いない。  遠い目をしている諒大は、きっと可愛いオメガ・結城のことを考えているのだろう。 「もうすぐ着きますよ」  諒大は地図アプリよりも先に颯に伝えてきた。この辺りはただの住宅街で、めぼしい建物もない。アルファの諒大は地理にも詳しいのだろうか。  やがて車は颯の住むアパートの前に着いた。諒大は先に降りて、外から助手席のドアを開ける。 「颯さん。今日は俺にお付き合いくださりありがとうございました」  アパートは目前、颯の部屋は一階のすぐ手前の部屋なのに、諒大は「ドアの前まで送ります」と颯の隣を歩き、ついて来ようとする。  まずい。思い出した。巻き戻り前もマンションのドアの前まで諒大に送られて、そこでいきなり告白されたのだった。 「だっ、大丈夫っ、ついて来ないで……っ」 「遠慮なく。荷物、持ちます」 「わっ!」  笑顔の諒大に荷物を取られて、取り返そうとしても諒大は「俺に持たせてください」と荷物を背中に隠して離してくれない。 「諒大さんっ」  颯が荷物に手を伸ばしても、諒大にはそれを華麗にかわされてしまい、颯は簡単にあしらわれる。 「もう、意地悪……」 「すみません、性格悪くて」  諒大は笑う。どう見てもエリートなのに、こんな小学生男子みたいなことをして笑っている諒大の無邪気な笑顔にきゅんとなる。  なんとしてでも玄関まで送ろうとしてくれる諒大の優しさにも。  きっと大丈夫だ。巻き戻ってからは未来が変わっている。こんな無愛想なオメガに告白なんてしてくるはずがないだろう。 「楽しかったです。颯さんとのドライブデート」 「あ、あれでっ?」  颯はたいして楽しい会話もできなかったのに、諒大は満足してくれたみたいだ。 「はい。またお誘いしてもいいですか?」 「え! ダメっ!」  びっくりして咄嗟(とっさ)の声が出た。言ってしまってから、めちゃくちゃ失礼なんじゃないかと思い直し、「あー、ごめんなさい、ごめんなさい……」と諒大に謝る。  どうすればいいのかわからなくなって、さっさと逃げようと颯は玄関のドアを開けてワンルームの部屋の電気をつける。 「オカエリナサイッ! オカエリナサイッ!」 「わーっ!」  そうだった。玄関に、明かりに反応して喋(しゃべ)る『おかえりなさいオウム』を置いていたんだった。ここに帰ってきたとき、ひとりきりで寂しいし、防犯にもなるかと思って買ったオウムのオモチャだ。  こんなものを玄関に置いていることがバレてしまい、めちゃくちゃ恥ずかしい。 「あっはっは。颯さん、オウム好きなんですか?」 「いっ、いえ、あのこれは……ひとり暮らしが長いから寂しくて……」 「寂しい?」  また余計なことを言ってしまった。これじゃ惨めなオメガだと諒大に思われてしまう。 「じゃなくて、えっと、あの……」  どうしてこんなにうまく話せないのだろう。人とのコミュニケーションは本当に本当に難しい。 「おかえりなさい、颯さん」  諒大は颯に微笑みかけてくる。 「オウムもいいけど、人の声はどうですか?」  諒大の声がじんと心に響く。  施設暮らしの颯は、そういえば誰かに『おかえり』と迎えられたことはない。こういう感覚が、家族がいる人の感覚なのかなと思った。  諒大のおかえりなさいは、すごく心があったかくなる。諒大と結婚して一緒に暮らしたら、こんなふうに毎日挨拶を交わすことができるようになるのだろうか。 「約束どおり、颯さんには触れません。でもちょっと匂い嗅がせてもらってもいいですか?」 「えっ、におっ……あっ……!」  諒大が颯の首筋に顔を寄せてくる。深呼吸をするみたいに匂いを嗅がれてめちゃくちゃ恥ずかしい。 「懐かしい匂いがする……」  諒大の言う、懐かしい匂いとはなんだろう。まさかおばあちゃんちの匂いとかだったらすごく嫌だ。 「も、いいですか……」 「うーん……あと少し……」  諒大はスンスンと匂いを嗅いでいる。  これは颯にとっても辛い。諒大が近いから、颯も颯でアルファの諒大のフェロモンを感じる。これを浴びるたびに諒大に抱きつきたい衝動に駆られてしまうからだ。  ほんの数秒だったと思う。でもその時間がすごく長く感じた。もう耐えきれない、と思ったとき、匂いを嗅ぐのをやめた諒大が颯の耳元で囁いた。  ──早く俺を好きになって。 「おやすみなさいっ、颯さん!」  諒大はサッと颯から身体を離し、可愛らしく片手を振って颯のアパートのドアを閉めた。  疾風のように、あっという間にいなくなってしまった。 「な、何、今の……」  颯は玄関のドアを見つめたまま、呆然とする。  たしかに諒大は颯に触れなかった。だが颯の気持ちがグラグラと揺らいでいる。  やっぱり、諒大に惹かれていく。諒大と恋人同士になれたら、さらにその先まで進めたら、なんて浅はかなことを考えてしまう。  冷静になれ、冷静になれと颯はいつものように自分に呪文をかける。  あんな素敵なアルファが運命の番を理由に自分を愛してくれるわけがない。こんなみすぼらしいオメガが隣にいたら諒大が笑われる。 「諒大さん……」  こんなに優しくて誠実そうに見えるのに、実は結城を想っていて、二股をかけている、もしくはこれからかけるところとは信じられない。  そして諒大は三ヶ月後、颯ではなく結城を選ぶのだ。 「諒大さんと結ばれたかったな……」  あ! いけない! とすぐに思い直す。なんて恐ろしいことを口にしているんだ自分はと、考えを振り払うように首を横に振る。  諒大を好きになったら絶対に後悔する。婚約破棄されて、あんなに悲しいと思ったじゃないか。あのときの絶望的な気持ちを忘れたわけじゃない。 (あれ……?)  床にカードが落ちている。拾い上げてみると何かのカードキーのように見える。 「これ、大事なものなんじゃ……」  諒大が誤って落としてしまったのだろう。最後、あっという間にいなくなってしまったから、そのときにスーツのポケットから落ちたのかもしれない。 (どうしよう……)  颯はカードキーとスマホの画面を眺めたきり、指が止まってしまった。  諒大に落とし物がここにあることを連絡したい。  でも、連絡先は教えないと決めていたのに。 (どうしたらいいんだろう……)  とりあえずシャワーを浴びよう、とりあえず寝る準備をしよう、と答えを先延ばしにしても、しばらくの間、颯の頭からは諒大の落とし物のことが離れなかった。 『颯さん。連絡ありがとうございます。探してたんです。それ、俺のマンションの鍵です。紛失したらすべてのデータを書き換えなきゃいけないところでした』  諒大からの返信が届いて、諒大が喜んでいる様子がわかり、颯は胸を撫で下ろす。  やってしまった。  結局、颯は諒大にメッセージを送ってしまった。 『実家にスペアキーを預けていたので、あれから実家に取りに行って、やっとマンションに入れたんですよ』  あぁ……すぐに連絡してあげれば、諒大はそんな無駄足を踏むことなく家に帰れたのにと申し訳なく思う。 『もっと早く見つけられたらよかったですよね。本当にごめんなさい』 『いいえ。颯さんのせいではなく、失くした俺の責任です。連絡もらえて俺はとっても嬉しいです』  諒大は颯を責めるようなことをしない。付き合っていたときも、ポンコツな颯を責めたことなど一度もなかったな──と、未来のことなのに昔を懐かしむように思い出した。 『俺は今から寝るところ。颯さんは?』  今は夜の十二時で、颯も布団の中だ。三月だというのに今日は真冬並みに寒い日だから、ペラペラの布団だけでは足りずにパジャマの上からフリースを着込んでいる。暖房費がかさむからエアコンは使わない。 『僕もです。今から寝るところです』  メッセージを無視できず、ついつい返信してしまう。すると即座に『同じですね』と諒大から返ってくる。 『声が聞きたい。おやすみだけでもいいんです。電話しちゃダメですか?』  颯は答えに窮する。諒大との連絡は、落とし物の件だけにしようと思っていたのに。 『わかりました。我が儘(まま)言ってごめんなさい』  颯が返信しなかったから、諒大に謝られてしまった。 『じゃあ声、送ってください』  そのメッセージのあと、諒大からボイスメッセージが送られてきた。再生ボタンを押すと、『颯さん、おやすみなさい』と短いメッセージが流れた。 「諒大さんの声だ……!」  思わず顔がにやけてしまう。  これはすごくいい。メッセージをタップするだけでいつでも諒大の声が聞ける。何度も連続でタップすると、スマホは『颯さん』『颯さん、おやすみなさい』と何度でもメッセージを繰り返してくれる。これなら諒大の声が聞き放題だ。 『颯さんも。お願いします。嫌、ですか?』  颯は躊躇する。声を送るなんてやったことがないし、すごく恥ずかしい。  でも、諒大には送ってもらったし、ひと言くらいならと思い直す。 「諒大さん、おやすみなさい」  初めてボイスメッセージ機能を使って送ってみる。  少しすると、『ありがとうございます。とても嬉しいです』と諒大からメッセージが届いた。 『何回も聞いちゃうな』  諒大のメッセージに思わず『僕もです』と言いかけて寸前で止まる。  危ない、危ない。もう少しで諒大に気があるような返信を してしまうところだった。 『また颯さんに会いたいです』  なんて恐ろしい人だ。こういうことをさらっと言ってしまうところに、颯の心が乱されるというのに。  諒大とのメッセージのやり取りが終わってからも、颯は『颯さん、おやすみなさい』という諒大のボイスメッセージを何度も何度も再生していた。

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