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第1話

     1  薄暗い森の中、子供の廉(れん)は無我夢中で走っていた。  木々が生い茂り、足下はでこぼこしている。少し油断をすれば、すぐに足が取られそうだ。決して歩きやすい道ではない。普段は人が通ることはあまりないのかもしれない。獣道、というのはこういう道のことをいうのだろう。  大の男でも不安になりそうな道だが、怖れることなく子供の自分は走り続けている。  手足は小さく、おそらくまだ小学校にすら上がっていない年齢だろう。ずっと走り続けているからか、息は切れ、腹も痛んだ。汗で服はまとわりついているし、着ている服の裾は長く、見るからに走りにくい。  どこに向かって、どうして自分が走っているのかはわからない。それでもとにかく、必死に走っていた。  そして隣には、もう一人の子供が自分と同じように走り続けている。  廉より幾分か背が高く、髪は見事な金色だった。廉よりも余裕が幾分あるのか子供は走りながらも、ちらちらと後方を気にする様子を見せている。  遠くで馬の蹄の音と嘶きが聞こえてきた。思わず足が止まった。どうしよう、追いつかれてしまう。そんな廉を励ますように、子供が言った。 『ここは僕がなんとかするから、レンは先に逃げて!』 『でも……』 『大丈夫、必ず追いついて、レンのことを迎えに行くから』  子供らしい高い声ではあるものの、その言葉は自然と廉の気持ちを落ち着かせた。 『ありがとう、先に行くね。また後でね――』  迷いながらも、彼なら大丈夫だろうと信じ、彼の名を呼ぶ。けれど、呼んだはずの名前が自分の耳に聞こえてくることはなかった。  だから顔だけでも確認しようと子供の顔を見つめる。けれど、ちょうど光が入り、逆光になってしまったからだろうか、子供の顔は、廉にはわからなかった。 †††††  目を開き、勢いよくベッドから起き上がった。  ドクドクと心臓が鳴り、髪をかき上げれば、額は湿っていた。シャツも汗ばんでいて、まるで先ほどまで走っていたかのようだ。  寝苦しい季節でもないし、そもそもこの国は日本に比べて湿気も少ない。今自分がいるのは古い洋館の一室で、部屋自体はアンティーク調だが空調は整えられている。寝汗をかくような環境ではない。  ――久しぶりに見たな、この夢……。  未だ心臓の音はうるさく、まだ夢の中にいるようだ。  立ち上がり、冷蔵庫から飲料水のペットボトルを取り出すと、サイドテーブルのコップに入れる。冷たい水を喉に入れたことにより、頭が冷え、少しずつ落ち着きを取り戻していく。 『廉、水は常温で。身体を冷やしますよ』  ふと、祖母の声が聞こえてきた気がした。子供の頃、学校から帰ってきた廉が冷えた水を冷蔵庫から取り出すと、口を酸っぱくして言われた言葉だ。祖母の言葉を思い出すと胸が温かくなり、自然と頬が緩む。  置き時計に視線を移すと、深夜の三時を指していた。起きるには早すぎるし、もう一度寝直した方がよいだろう。その前にシャワーだけでも浴びようとシャワールームに向かえば、洗面台にある大きな鏡が目に入った。  鏡の中にある、自分の顔を見つめる。黒髪に、色素の薄い肌の色。鼻梁は高すぎることはなく、絶妙なバランスで整っている。それだけなら「整っている顔」ですむのだが、印象的なのは空の色を思わせる大きな青い瞳だ。  いくらカラーコンタクトが流行っているとはいえ、一般的な男子高生は日常生活で使うことはない。規律に厳しい進学校の男子校では、廉の外見はとにかく目立った。  多様化が尊重されるこの時代、見かけのせいでイジメにあったことはない。小学校の頃は、「目、きれいだね?」「ハーフなの?」などと無邪気に聞かれたが、子供らしい好奇心からだということはわかった。  それよりも辛かったのは、毎年親族の集まる場で、廉の外見に関して祖母である千早(ちはや)が責められるのを見ていた時だ。千早と血のつながりのない自分を邪魔者扱いし、病に倒れてからもほとんど顔を出さなかった親戚たちに、それを言われる筋合いなんてない。  ……やめよう、ここまで来てそれを考えるのは。  溜息をつき、服を脱ぐ。上着を脱いだ時にちょうど、首元につけているペンダントが目に入った。母の形見だから、肌身離さず持つように祖母から言われたペンダントだ。ペンダントトップにはカメオがついており、美しい図案が描かれている。以前興味を持ち、どこかの国の紋章か何かだろうと調べたことがあったが、同じ物は出てこなかった。  ロンドンに戻ったら、骨董屋さんにでも行って、聞いてみようかな。  そんなことを思いながらペンダントを外し、シャワールームに入る。  温かい湯を浴びたことで、優しい眠気が戻ってきたことにホッとする。  スクランブルエッグにベーコンとソーセージ、焼きトマトにマッシュルーム。そして、ベイクドビーンズ。  伝統的なイングリッシュ・ブレークファーストを口にしながら、廉は窓の外に広がる湖水地方の田園地帯を眺めていた。幼い頃に祖母に読み聞かせてもらった絵本の舞台。  留学経験のある祖母はこの国をいたく気に入っていた。元々、縁があったのだろう。日本に残したあの美しい洋館も、昭和の初めに英国人建築家によって設計されたものだった。祖母との思い出が詰まった大好きな屋敷。  ……せめて、あの家くらいは守りたかったんだけど。ごめんね、ばあちゃん。  祖母が亡くなって半年。祖母が残した土地も家も、親戚たちはすべてを奪っていった。廉に残されたのは、医学部への進学費用にと、廉名義で祖母が用意してくれていた資金だけ。お金の問題ではない。一人になってしまった寂しさが、この国に来てからより深く押し寄せてくる。  本当に、この場所に俺の出生につながる何かがあるのかな……。    廉には、生まれてから六歳までの記憶がない。気がついた時には祖母のもとで育てられ、日本で生活をしていた。  自分と祖母に血のつながりがないことは、小学校に上がったばかりの頃、祖母から教えられた。  厳しくも優しい祖母が廉は大好きで、そんな祖母と血縁関係がないことに、子供心に強いショックを受けた。できれば知りたくなかった。  涙を流す廉に、どこまでも祖母は冷静だった。 『口さがない者たちが、私とあなたに血縁上のつながりがないことをあなたに言うはずです。それなら、私の口からあなたに説明しておきたかった。あなたに知っていて欲しいのは、たとえ血のつながりはなくとも、あなたと私は家族だということ』 『家族……』  祖母は頷き、廉の小さな身体を抱きしめてくれた。あまり慣れていないのか、その腕はぎこちなかったものの、その温かさだけは今でも覚えている。

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