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第1話 耳のいいおじさん
夕方の風が、アトラボの屋上をゆっくり抜けていた。
Auroraとアトリリンクスが共同で使う研究開発ビルの上では、下のフロアを行き交う人の気配も遠い。街にはまだ明るさが残り、向かいのビルの窓が西日の色を細く返している。
凪隼人はベンチへ腰を下ろし、膝にギターを載せていた。足元には、半分ほど残った炭酸水のボトルがある。
少し離れたフェンス際では、相沢涼が空を見ながら鼻歌を重ねていた。
凪が鳴らしたコードへ、相沢の声が乗る。言葉になる前の旋律を途中まで伸ばし、気に入らなければその場で崩す。凪は残った音だけを拾い、次のコードへつなげた。
「そこ、外しただろ」
「外してない。遊んだ」
「同じだろ」
「全然ちがう」
相沢がもう一度同じ場所を歌い直す。
今度は少しだけ音をずらした。
凪は呆れたように相沢を見たあと、そのずれを残したまま指を動かす。
仕事とも練習とも決めていない時間だった。
屋上へ続く扉が開いた。
高澤廉が出てくる。その後ろには、見慣れない男がいた。
黒のジャケットに白いシャツ。派手なものは身につけていないのに、歩く姿勢が妙に整っている。
男は屋上へ出ると、街とベンチとフェンスを順に見た。
「いい場所だね」
凪はギターを抱えたまま、高澤へ顔を向けた。
「誰?」
「客」
「ざっくりだな」
高澤はそのまま近くまで歩いてくる。
凪は相沢を見る。
「相沢のおじさん?」
「あほ」
相沢が笑った。
「俺、そんなにおじさん持ってないよ」
「前もいたじゃん。強そうなおじさん」
「父親な」
「ああ。あれ父親か」
後ろにいた男が肩を揺らした。
低く、やわらかい笑い声だった。
凪はそちらを見る。
「じゃあ何。ファン?」
男はすぐには答えず、凪の膝にあるギターへ一度視線を落とした。
「そんなところだ。ずっと、聴いてはいた」
「へえ」
凪が頷くと、相沢がまた笑う。
「雑に信じるねえ」
高澤は空いていたベンチへ腰を下ろした。
「月城さん、座りますか」
「いや、立って聴く」
凪の指が弦の上で止まる。
「月城?」
男が軽く頭を下げた。
「月城玲士。初めまして」
「凪隼人」
「知ってる」
「こわ」
風が二人の間を抜け、凪の足元に置いたボトルがわずかに揺れた。
相沢はフェンスから身体を離す。
「で、何しに来たの」
月城は凪のギターを見た。
「一本、聴かせてもらえないか」
凪は高澤へ視線を移した。
「この人、ほんとにファン?」
「耳はいい。それだけ覚えとけ」
それでは何も分からない。
凪は高澤を見るのをやめ、ギターの位置を直した。
月城が言う。
「何でもいい。君が今、鳴らしたいものを」
凪はしばらく弦へ指を置いたまま、街の方を見た。
遠くでは、仕事を終えた人の流れが駅へ向かっている。空の青は薄くなり始め、ビルの窓には少しずつ灯りが増えていた。
最初の音を、小さく置く。
風に紛れそうな音だった。
そこから、細い旋律を伸ばしていく。
夕方の終わりへ向かう街の色や、下を流れていく人の足音を拾うように、音を重ねた。
相沢は歌わなかった。
高澤も、何も言わない。
月城は立ったまま、少し目を伏せていた。
ジャケットの内側で、スマートフォンが震える。
一度止まり、少ししてまた震えた。
月城は手を伸ばさない。
凪は最後のコードを鳴らし、弦から指を離した。
「……終わり」
月城はすぐには口を開かなかった。
街の音だけが戻ってくる。
やがて、小さく息を吐いた。
「参ったな」
「何が」
「まだ、こういう音が残ってた」
月城はようやくスマートフォンを取り出した。
画面には海外番号と英語の通知がいくつか並んでいる。短く文字を返し、すぐに内ポケットへ戻した。
「もう一本、いいかい」
「おじさん、欲張りだな」
「年寄りは回数を大事にするんだ」
「まだ年寄りって歳でもないだろ」
相沢が凪を見る。
「凪、そこ分かるんだ」
「なんとなく」
凪は笑い、もう一度ギターへ指を置いた。
今度は少しだけ明るいコードから始める。
夕方の光がなくなる前に鳴らすには、そのくらいの音がちょうどよかった。
月城玲士は何も言わず、最後までその音を聴いていた。
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